第36話
それはまるでさ迷える幽体が小さな天使に手を引かれ天国の門へと導かれる昇天の一場面のようだった。ビロードのような髪をそよ風に波打たせるまま精巧なレリーフが施された石扉に向かって走るコリンヌを、ポレットは手を震わせながら指さした。
「はわわわわ……どういうこと?コリンヌまで幽霊になっちゃったってわけ?」
コリンヌの体は石扉に近づくにつれて、子供と同じように急激に透明色へと変化していった。そして彼女と子供が門の前に立つや、石扉は物々しくゆっくりとその口を開き、ほとんど半透明になった2人を飲み込んでいった。
「ジュ、ジュリアーン……」
ポレットが目にうっすら涙を浮かべながら不安げな表情をジュリアンに向けるも、彼はあごに手を当てながら何かを考えているようだった。そしてその直後、ジュリアンは何かを思い出したように目を見開いてポレットの方を向いた。
「これは……アポリネール家の伝承に伝わる試練の1つ、真の勇気を持つ者だけがたどり着ける第一の門……」
「勇気って、慈悲、知恵、勇気の?」
ジュリアンは相槌を打った後、何かに気付いたようで急に後ろを振り返った。ポレットも同じ方向に目を遣るや否や、彼女の顔からは急速に生気が失われ始めた。
「嘘でしょ……」
空間一面に広がる野原が端の方から徐々に色を失い始めていた。このままだと、ものの数分もしないうちにポレット達の立つ床部分まで消えて無くなってしまうだろう。
「いや……私たち、こんなところで死んじゃうの?」
(ジャニーヌ、ジャニーヌ……ジャニーヌゥ!)
死を覚悟したポレットの頭の中に、咄嗟に最愛の妹の顔がよぎった。そしてその後に走馬灯のように浮かんだ映像は、掛け替えのない家族がいつも見せてくれた、日常の他愛のない優しさだった。
チャーミングな笑顔を向けて彼女の頭を優しく撫でながら、いつもこっそりとお小遣いを渡すシモン。
給料日の仕事帰りにはいつもポレットを手招きし、幾何学模様の包装紙に可愛らしいリボンが巻かれた小さなプレゼント箱を照れ臭そうに渡すシモーヌ(中身は決まってリース刺繍が施されたブローチだった)。
そして、静かな森に囲まれたこじんまりとした湖畔で一緒にサイクリングをしている時、キノコ狩りの際にうっかり毒キノコを摘んでしまった時、二人だけの秘密の場所である街はずれの木造の教会に忍び込む時、いつもいつもとびきりの笑顔やいじらしい泣き顔を見せてくれた最愛のジャニーヌ。
(パパ、ママ、そして大好きなジャニーヌ……、みんな、みんなさようなら。本当にありがとう、ジャニーヌ、愛してる……!)
御祈りのように目を瞑り両手を握り締めながら遥か遠くにいる家族に最期の言葉を贈るポレット。そんな彼女の両肩をジュリアンはゆさゆさと揺さぶった。
「ポレット、落ち着いて。絶対に大丈夫、地面が透明になっても落ちることはないさ」
神に祈りを捧げるような聖女のような面持ちから一転、彼女は両手を握り締めながら目をぱちくりと不思議そうにジュリアンの顔を見た。
「ふえ?どういうこと?」
「つまりこれはすべてトリックということさ」
「トリック?」
ジュリアンは茶目っ気たっぷりにウィンクをした。
「これは試練者が降って湧いた災難に動じず、冷静に真実を見極めることができるかどうかを試す試練なんだ」
「トリック?この透明な景色が?」
「天国のような野原の景色もそうさ。仕組みは分からないけど、どうやらこの空間はまやかしの風景を作り出せるようだね」
数年後、この空間は彼らの運命を決定づける重要な役割を果たすこととなるのだが、それはまた後の話である。
「じゃあコリンヌが透けて見えるのもまやかしなの?」
ジュリアンは顔を曇らせながらもごもごと口を動かした。
「コリンヌの体が半透明になったのは、どうしてだろう……。もしかしたら君の言う通り、あの世に片足を引っ掛けているのかも……」
気落ちしたジュリアンの様子を見たポレットは慌てて話題を変えた。
「じゃ、じゃあさ。透明な部分に足を乗せても真っ逆さまに落ちないってことよね」
ポレットは右手でジュリアンの腕をしっかりと掴みながら恐る恐る透明な部分に足を乗せた。彼女の足の裏には確かに何かを踏みしめる感触があった。
「本当だ……ちゃんと足が付く……」
「パニックになってそこいらを走り回ると、第二ルートから強制退場するような仕組みになっているはずなんだ。だから不用意に歩くと遺跡の外に放り出されるかもしれない」
「なんでそんなに詳しいの?あんただってここに来るのは初めてでしょ?」
「そ、それは、昔ファンタジー小説で似たような話を読んだからさ……」
「ふ~ん、あんた本当にファンタジー小説が好きなのね」
(危なかった……酔っぱらったマルタン伯父さんからこっそり教えてもらったなんて言えるわけもないし)
動揺を悟られまいと顔を引き攣らせながら無理やり笑顔を浮かべるジュリアン。本来伝えられるのは遺跡についての大まかな説明だけで、詳細な試練内容を試練経験者から聞きたり教えたりしてもらうのは当然ご法度であった。彼はこの不文律を破ったことがシルヴァンにばれるのだけはどうしても避けたかったのだ(その時べろんべろんに酔っぱらっていたマルタンは、もちろん当時の会話内容など忘れてしまっている)。
「さあ、コリンヌの後を追いかけよう」
気を取り直したジュリアンはポレットの右手をそっと握り締め、階段の先にある石扉を見上げた。
「そうね、あの憎まれ口が無いと調子が出ないしね」
ポレットは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、ジュリアンの左手を握り返した。二人は第一の門に向けて、透明な床を一歩ずつ踏み出していった。ある程度まで歩いたところで、ポレットのつま先にコツンと何かが当たる感触があった。
「ここからは階段ね……ジュリアン、準備はいい?」
ポレットに無言でゆっくりと頷いたジュリアンは彼女の横に立ち、その左手で彼女の右手をしっかりと握り締めた。二人は強風の中を歩くように一歩一歩重々しく階段を登っていった。そんな二人を待ち構えていたかのように、石扉はその口をゆっくりと開いていった。開いた扉の先からは、思わず目を細めてしまう程の強い光が放たれ始めた。
「行こう、ポレット。扉の向こうへ」
「うん……」
二人が扉に近づくにつれて、無数の光の糸が体中に巻き付いていった。そして二人が扉を潜った時、かつて一面が野原だった空間の隅から隅まで、目に見えぬあらゆる隙間にまで細くて弱々しい光の糸が忍び込んでいった。扉が小さな魚を飲み込んだ巨大な海中生物のようにばたんとその口を閉じたと同時に、空間からは光が急速に失われていき、かつて野原だった風景はあっという間にその色を失っていった。草木だけでなく鳥も、虫も、小さな小川も、小さな光の糸の束へと変化していき、それらはばらばらにほどけ、ひらひらと地面に舞い落ち、線香花火のように儚げに光が失われると同時に糸は地面に沈み込むように溶けていった。
そして、楽園のような風景は、殺風景な石の間へとその姿を変えてしまった。
◇◇◇
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