第5話 横浜番外地 駆け出し時代の逢野と『七〇年フォーク』音楽という鍵言葉

逢野の事務所にて -依頼-

 真冬の到来が人恋しさを一層際立たせる。何かしらのイベントが続く、そんな季節がやって来た。十二月だ。そしてここは、あちらこちらがイルミネーションの町、そう横浜である。

 みなとみらい、桜木町、伊勢佐木町、山下町、元町とそれぞれのエリアに輝く綺麗な電飾はエキゾチックさとロマンチックな風景を必要以上に際立たせてくれる。愛をささやく恋人たちのデートスポットとなって、その甘い夜に町全体が包まれる。


 そんなスイートな季節とは全く関係のない横浜在住のむさい男がここにいる。名を逢野安間郎おうのやすまろうという。迷い猫や浮気調査のエキスパート、私立探偵だ。そんなジャンルにエキスパートがあるのか? というのはさておき、まいどまいど懲りずに貧乏長屋の住民のような生活を送っている。


「ぐぬぬ。年末ジャンボ。来てくれ! なけなしの小遣いをツッコんでいるんだ、元を取る程度ではダメだ!」

 クリスマス前の真っ昼間。血走った目に握りしめた宝くじ券。通し番号を見ながら念じるように唸る。執念さえ感じる姿だ。そのうち宝くじ券に穴があくのではないか、というくらいの眼力だ。


 こういう特殊な形の不労所得を夢見るたわけ者に冷ややかなジト目を浴びせる黒猫。彼は欠伸をしながら呆れていた。

『ふわあ。仕事もそれくらい真面目にやれよ。相変わらずこの男はアホだな。アホが伝染してこっちに、うつらんうちに帰ろ』

 この小説の主人公である時空魔女マリン嬢、その青空麻鈴あおぞらまりんの飼い猫、いや失礼、魔女の使い魔、ネコの化身となったサリーだ。後ろ足で耳を掻くと、さも気怠そうにしながらノビをする。そのまま雨どいから下の階に降りていった。


 ここは横浜の中心部から少しずれた石川町駅近くにある雑居ビルの二階。そのテナントに入った探偵事務所だ。まだ宝くじを後生大事に握りしめ視線を送っている。黒猫サリーも呆れてしまう逢野探偵事務所所長のこの逢野安間郎。彼はしゃくれた顎と無精髭に、よれたセンスの悪いネクタイとワイシャツだ。


 いつもならスポーツ新聞を片手に乾燥スルメ烏賊をしゃぶっている。スポーツ新聞と缶ビールでクリスマスを過ごす下町のおっさんという出で立ちだ。来年は探偵業界の会合があり、少し多めに出費がある。それを宝くじの当選金でまかなおうというのだから、使い魔のサリーも呆れるというものだ。


 ちなみにこの探偵事務所、その所長だと言っても従業員はゼロ。そんな大それた会社じゃない。部下らしき者と言えば、してやったりの二〇代中頃の小娘、さっきのサリーの飼い主にして、時空魔女である麻鈴がアシスタントを勝手にかって出ているだけだ。それだって伯父の持つのこのビルの管理人代行故、常習犯の逢野が家賃滞納にならないように監視の目を光らせるために助手をかって出ているまでの話だ。彼女の本業は下の階で営む雑貨屋だ。


 その彼女の営む輸入雑貨店の名前は『シア・ノアール』だ。ちょうど探偵事務所の真下がレジカウンターになっている。ファッショナブルに着飾ったエレガントな着こなしの女性、その麻鈴が海外発送の段ボール箱をこじ開けている。ジャンパースカートに、ターバンのように巻いたヘアバンドで品出しに精を出して、齷齪あくせくと働いている。

 その女主人が何度も話しの冒頭に出てきた若干二十五歳、青空麻鈴あおぞらまりんだ。イギリス帰りの語学堪能、文化通。頭脳明晰……とまではいかないが、彼女は秀でた能力を持つ。それは魔法。既述通り、彼女、『奥さまは魔女』のサマンサさながらの魔女なのだ。


 他に目的があるとはいえ、逢野探偵事務所のアシスタント、助手を買って出ている奇特な人間であることは確かだ。伯父に頼まれた彼の貸しビル店子たなこである逢野から家賃を優先的にキープするための管理人代行。そんなけったいな役目のおはちが回ってきた麻鈴だった。この役目を負っているおかげで、格安の家賃でこのビルの一階で雑貨店を開いたという、事のいきさつだ。


 さて彼女は今し方ヨーロッパから届いたばかりのティーカップセットの段ボール箱を開く。仕入れ商品である段ボールの中身を取り出して検品しようとしたその時だった。



 ある訪問者が麻鈴の店に足を踏み入れる。雑貨とは無縁そうな女性だ。年の頃は麻鈴と同じだろう。


「ごめんください」と雑貨店の店先で挨拶するその女性の声。


 麻鈴は手を止めると「はい」と言って立ち上がり店先に出る。

 今し方宝くじに走った逢野に呆れて二階から降りてきていたサリー。店の前で日向ぼっこをしていた黒猫かれは、その訪問者の存在を目配せで麻鈴に訴えかける。

 が、既に時遅し、和服に身を包んだ小野田小町おのだこまちが一歩店内に足を踏み入れていた。


「うげっ!」

 思わず仰け反った麻鈴の態度を見て、

「失礼な人ね、それがお客を出迎える店員の態度かしら?」とその人物は相変わらず、いつも通りの高飛車な物言いだ。


 使い魔の黒猫サリーは相変わらず知らんぷりで、店先のチェアーの上で日向ぼっこ。またしても欠伸あくびをしながら薄目を開けて、ボソッと、「ひやかしは客じゃ無いだろう」と呟く。そして「どっちを見てもろくなヤツがおらん」と渋い顔だ。尻尾で近くを飛んでいるハエを追っ払う。


 小野田小町。そう、麻鈴にとって苦手が服着て歩いている、そんな感じの魔法学校の同窓生だ。


「なんのご用でしょう?」

 冷ややか且つ怪訝な顔の麻鈴を他所に、小町は、

「用があるからこんなむさ苦しい店に出向いて来てあげたんじゃない」と更にふんぞり返る。

「私の方は用は全くないんですけど。頼みもしないのに、よくぞ、おいで下さいました」と、ひきつった顔とトゲのある言葉で敬遠しながら出迎える麻鈴。ところが小町はそんな悪態に満ちた台詞は、相手にもせず聞こえないふりだ。

「あなた卒業生に向けた課題の回想日記コンテストの連絡は知っているの? 内容を精査されてその数値に見合ったハートマークのワッペンが授与されるの。その数によって魔法の国の重要ポストと報酬が約束されるわ。数年ぶりに開かれる大出世のチャンスなのよ。眼津がんつ先生が直々に採点して下さるわ」と小町。


「え?」ととぼける麻鈴。使い魔のサリーを通じてとっくの昔に知っていたが、その回想日記コンテストで入賞を果たすために惚けたのだ。ライバルなど少ない方が入賞の確率が上がる。

 そんな姑息な思いを既にお見通しといった感じで、

「けっ、所詮入賞目的か。こいつらもたいして上の階にいるあの阿呆な宝くじ野郎と変わらんな」と辛口の黒猫。その視界の中で、麻鈴と小町はガマと蛇のにらみ合いのように一歩も動かず、互いの様子見をしていた。


 一階の雑貨店のそんなやり取りがあった頃に、同時進行で二階の探偵事務所。こちらはこちらで何かが始まる兆しだ。

 コンコン!


 ノックの音と一緒に、ドアが開けられて探偵事務所に女性が入ってきた。こっちの訪問者は一階の小町とは違って真面目そうだ。

「すみません。ここが探偵事務所ですか?」と品の良さそうなワンピース姿の若い女性が訊ねる。

「はい、そうですが。ご依頼ですか?」

 穴が空くほど見つめていた年末ジャンボのくじ券を袖机の引き出しにそっと隠す逢野。


「ええ」

 部屋の様子を見渡した後で頷く女性。


 慣れた仕草で逢野は、

「ではこちらにどうぞ」と、いつものように、応接セットのある衝立の向こうへと訪問者を促す。


「わたくし、東戸塚のマンションに住んでいます工芸家の知床紫福しれとこしぶきと申します」

「しれとこ……」と言って、逢野は頭の中で市販のふりかけ商品を思い出していた。


 ソファーに腰を下ろし、落ち着いたていの訪問者の紫福しぶきは、少しゆっくりめの言葉で、

「父の遺言の謎を解いて頂きたくて、ここに参りました」と言って、その高そうなブランドモノのバッグの中から一通の折りたたまれた便せんを取りだした。


「遺言ですか?」と腑に落ちない顔の逢野。不細工さが増した表情をする。

「何か不都合でも?」と不思議そうな紫福。


 体勢を整えると逢野は、

「実はウチの事務所の主な業務は、……そんな高尚な依頼案件ではなく、ええっと……、飼い猫などのペット探しや浮気調査などが主体でして、そこまでの緻密且つ複雑な案件依頼はあまり受けていないんです」とやんわりとしたお断りのモードを醸し出す。


 だが逢野の言葉を無視するように紫福は続ける。


「生前にわたくしの父、半藤はんとうが残した私宛の配達指定日郵便が昨日届きました」

「生前に残した? 代書屋か弁護士の預かり文書の類いですか?」としぶしぶ話を一応聞いている逢野。

「いいえ、普通の郵便物なんです」と紫福。

「そんなモノが届くんですか? つくば万博の未来レターじゃあるまいし……」

 こんな若い依頼者相手に、そう、つくば万博を知らない世代が多い上に、そんなニッチな例えが通じるのかとツッコミを入れたくなるが、逢野の思考力と語彙力というのはそんなモノだった。


「その辺は不思議なのですか……。私も封筒を切った状態で、中身の便せんだけを義母から受け取ったので詳しいことは分からないのです」


 そういって紫福は便せんを開いて見せた。達筆ではあるがとても綺麗な字が並んでいる。


『お前の祖父がアイスクリーム屋の儲けで得た莫大な遺産がある。ただし訳あってその遺産を受け取るには用心と慎重さと手続きが必要だ。簡単に言えば違う形に変わって、特別な場所で保管されているのだ。いくつかのアイテムを揃えてからその場所に行って、そこでさらに仕掛けをクリアすれば、その遺産は手にできるはずだ。それらどうするかはお前次第だ。困ったときは百合子おばさんを訪ねなさい。そしてお前を守ってくれる役目と手助けを依頼している人がいる。横浜の私立探偵だ。詳しいことは、その横浜の石川町駅前にある逢野探偵事務所に行って訊ねれば良い。きっと力になってくれるはずだ』


 テーブルに広げたその手紙をのぞき込む逢野。

「うーん……」と渋い顔だ。梅干しと昆布で作ったような表情をしている。実はこの探偵事務所、彼の言ったとおり、本当に業務の専門はペット探しと浮気調査だ。最近でこそ、麻鈴の活躍で遺産や遺言などの謎を解いているが、観れば分かるご覧の通り、逢野にそんな甲斐性など微塵もない。ご指名での依頼案件ではあるが、頭をかきむしりながら、やはり再度、半ば『お断り』の文字が彼の脳裏に浮かんでいた。


「どれどれ?」

 突然、次の瞬間、逢野の右側から声がしたと思ったら、にゅーっと、ソファーに座る逢野の横に人の頭が飛び出してきた。今さっき、一階の店内でにらみ合っていた筈の麻鈴が頬杖をついて一緒に手紙をのぞき込んでいる。


「うわあ」と驚いて仰け反る逢野。慌ててお茶をこぼしそうになる。

 その湯飲みをサッと手を添えて押さえたのが、これまた一階でにらみ合っていた筈のもう片われの小町だ。彼の左側で湯飲みを支え平然と座っている。目は書面を追っている。

「あら危なかったわ。間一髪ね」と湯飲みと逢野の手を支えたままで言う小町。


「うわっ! いつの間に」

 今度は反対側に仰け反る逢野。彼からすれば厄介な部外者が二人も勝手に事務所に入ってきた感じだ。


 斯くして二人は、紫福が階段を上がる音を聞きつけて、そう、この事務所の数少ない依頼、仕事の匂いがすると踏んで、二階の探偵事務所に自然と何かに導かれてきたようだ。まあ珍しくこの事務所に依頼人がいるとなれば上がってくるのは彼女たちの本能に近い。ただ麻鈴については自分の店はカラで良いのか? と、問いたくなる状況だ。魔女なので瞬時に一階に移動でも出来るのかも知れないという言い分けはあるのだが。


 二人は紫福に「助手の麻鈴です」、「小町です」と名乗る。ちゃっかり、探偵事務所の人間のような振る舞いである。しかも両者ともにそこそこ美女だ。逢野と並んでいるとまさしく美女と野獣だ。


「まあ、お美しい、お二人ね。どっちが先生の二号さんで、三号さん?」と怜悧な笑顔で訊ねる紫福。結構、物怖じしないタイプのようだ。


「ぶっ!」とお茶を吹き出しそうになった逢野。想像すらしたことのないそんなイメージ、いや想像もしたくないイメージといった方が良い。彼はその紫福の感想に慌てふためいた。


「なに? 二号とか三号とか? 仮面ライダー?」と不思議顔の麻鈴。

「カマトトぶるわねえ」と冷ややかな小町。その冷めたい物言いに麻鈴よりは大人っぽさを感じる。そして「愛人の順番よ」と笑う。


「なっ!」

 言葉の意味を知ると麻鈴は、

「誰がこんなおじさんの! しかも愛人ていうのは、奥さんがいる人が作るモノでしょう? 孤独なひとりもんですよ、このおじさん。奥さんなんて生物いきものとは無縁の生物です」と言い返す。

 えらい言われようだ。事実だけに反論できない逢野。

「ぐぬぬ、まあ、その通りなのだが……はは」

 さらりと個人情報と弱点を暴露され、ただただひきつった表情で馬鹿っぽく笑うしかない逢野。彼のしゃくれた顎は更にしゃくれて見える。


 さてその孤独なおじさん、仰け反った体勢をもとに戻し終えると、ソファーに落ち着き、

「スミマセンが、私の方はあなたのお父さんから何かを言付ことづかっている訳ではありません」と深く腰掛け直してから返した。

 そして「なので、この手紙が何を意味しているのかもよく分からないのです」と付け加えた。


「そうですか」と紫福は落胆の表情で顔を曇らせた。父の勘違いなのか、と疑念を抱く。


「残念ですが、もしかすると私に依頼をする前にお父上は他界なさったのでは?」と逢野も婉曲にではあるが、紫福の落胆を慰めた。


「ただね」と紫福。

「はい?」

 逢野は首を傾げる。まだ何かあるというのか、疑問だった。

「ひとつだけ先生にもご一緒、ご協力して欲しい謎があるんです」

 紫福は折り目正しく背筋をピンと伸ばして、お辞儀した。

 つられるようにかしこまる逢野。まるで遊園地の道化師や操り人形のようなカクカクした動きだ。


「ここに書いてある、私の祖父はアイスクリーム屋では無いのです。父が間違えるはずありません。そこに変な違和感を感じているので、欺くための細工の類いも捨てきれません。何かの意図を感じます」と文面を指して話す紫福。アイスクリームの文言の文字を追って見る逢野。

 そして「ああ、この書面のことですね」と頷く。

「書き間違いでは?」と端から取り合わない逢野だ。もともと文章になれていない一般民の整合性に欠ける文書など、真実味からはほど遠いのが普通だ。


「そうなのでしょうか」と落胆する紫福。さすがに就いてもいない職種を間違えるのだろうか? という疑念が脳裏に渦巻く。



 そこにタイミング良く、事務所のインターホンを鳴らした音が響く。

「はい」

 逢野の声に、合わせてヘルメット姿の郵便配達人が、事務所に顔を覗かせた。

「こんにちは。逢野探偵事務所さん宛の郵便物です」と束になった手紙類を事務所のドア横にある郵便受けに差し込んでいった。


 いつものことなので、麻鈴はいち早くソファを離れ、その手紙の山を両手で抱えて逢野のデスクに戻る。そして彼女が逢野の机上にそれらを置いたとたん、突然黒猫のサリーが窓から飛び込んできて一枚の封書を咥えた。

「あら、サリー?」

 麻鈴は不思議な顔でサリーを見た。


 魔法の国の言葉で「相変わらず間抜けだな麻鈴」と言う。勿論、普通の人間にはニャーニャーとしか聞こえていない。

「何その言い方。飼い主に対して失礼じゃ無い?」と腕組みでふんぞり返る麻鈴。とてもご立腹だ。


 だがサリーが咥えているその手紙の差出人を見て、はっと気付いた。そこにはしっかりと紫福の父の名、『知床半藤しれとこはんとう』の名前があった。

 麻鈴は素早くサリーからその手紙を奪い取ると、

「逢野さん、見て。紫福さんのお父様からの手紙よ」と逢野に近寄る。

「まあ、二号さんったら流石ね」といろいろと厄介なネーミングを使って褒める紫福。横で小町は笑いを堪えるのに必死だ。


「なんと! やっぱりウチの事務所にも送っていたのか。危うくお帰り頂くところだった」と逢野。そしてしげしげとその郵便物を観察している。

 紫福にしてみれば、安堵の心境だろう。ここまで出かけてきた時間と労力が無駄足にならずに済んだのだから。


 送られて来た郵便物を見て逢野は、時差郵便の正体、それがどういうことかを察した。


「公益法人 郵便友の会のタイムマシーン郵便とな?」

 封筒に貼られたシールには、管理ナンバーとバーコード、そしてその公益団体の名称とサービス名が記されている。つまりは依頼者たる彼女の父親が、十年以内のどこか好きな日に設定をしておいて、その日付でその郵便物が指定された日に配達がされるという特殊なサービスを使っていたことがここで判明した。



「世の中にはこんなサービスがあるんだな」と感心する逢野。


 そこにサリーも寄ってくる。


「馬鹿、感心してないでさっさと開けろ!」


 いつものごとくサリーは辛口で逢野に言うとしっぽで顔を叩く。勿論、逢野にはニャーとしか聞こえていない。

「相変わらず鬱陶しいネコだな。飼い主そっくりだ」と叩かれた額を押さえながら逢野が言うと、「誰がアホ麻鈴と一緒だ」ともう一発軽く、頬

とそのしゃくれた顎にしっぽアッパーが飛んだ。


 しっぽをはらって手紙を開ける逢野。そこからは結構な文章が書かれた厚手の便せんが出てきた。謎解きの始まりである。


『前略 探偵さま、お初にお手紙します。ぶしつけにこんな依頼をお願いすることを許して頂きたいのです。この手紙をあなたが読む頃には私はもうこの世にはいないでしょう。娘の紫福のことを心配している。と言うのも、彼女に祖父から継承している莫大な遺産を残したからです。知床家はおそらく今頃、その隠し場所の話題で大変な事になっていると思います。


「秋の気配」のする公園に行く坂道の途中にあるピアノバーの店主をお訪ね下さい。鞄を預けています。


また遺産相続の物件に関して、「少女時代」の坂道にある弁護士事務所、鍵を生前にそこの弁護士先生に預けました。


「路地裏の少年」の駅前にある私の隠れ家には私の展示コーナーがあります。

 この家の中で『アイドルを探せ』と言わんばかりにあれを探してほしいのです。他の人間に先を越される前に、この手紙をヒントになんとかお願いします。紫福のもとに無事に遺産が届くようにお力添え下さい。


逢野先生が昔ボディーガードで、山手の花菱百合子嬢を守り抜いたそのお噂を耳にして、今回は娘の身を案じて依頼しました。突然の一方的なお願いでスミマセン。わずかですが展示ルームの頭上にある神棚の後ろに依頼料を置いておきました。どうぞお納め下さい。

よろしくお願いいたします 草々  知床半藤』


「ぐぬぬ……」

 目を細めてしかめ面の逢野。

「どういうことかしら?」

 人差し指を顎に当て麻鈴が傾げる。

「謎解きね」と小町も眉をひそめる。


「そもそも昔ボディガードをしていた、ってどういうこと? 聞いてないわ」と麻鈴。軽く首を傾げながら逢野を見つめる。自分の知らない逢野の顔がそこには描かれている。


 両脇から自分をさておき、勝手に謎解きモードに入っている女性二人の声がして逢野はとてもやりづらそうだ。

「お前たち、ちょっとどっかに行っていてくれないか」と逢野。身に覚えのある黒歴史をほじくり返されそうになった逢野は二人を排除しようとする。


 書面の内容を察した紫福は少しだけ自分の知る情報を伝える。

「あ、ボディガードの件ですね。十数年前の依頼者である花菱百合子さまは、私の外戚、遠縁で、親戚に当たります。多分その方のことではないかと。昔、私立探偵にボディーガードを依頼していたというお話は、おばさまからわたくし、少しだけお聞きしたことがあります」

「なんと!」と驚いているのは、逢野本人。

「じゃあ、あなたはあのじゃじゃ馬女子大生と連絡取れるのか?」

 逢野のずいぶんな言い方に彼女は苦笑すると、

「いまは立派な淑女ですけど」と軽く訂正した。

「そっか」とくうを見つめる逢野。懐古感漂う郷愁の念が感じられる。


「教えて下さい!」と声を揃える麻鈴と小町。

「まあ、二号さんも三号さんも興味津々ね。先生、私が百合子おば様から聞いている話、少しお話ししてもよろしいですか?」と一応の断りを入れる紫福。複雑な表情のまま無言で頷く逢野。

 そして逢野の過去が少しだけフラッシュバックする。過去の回想物語が紫福によって語られ始めた。



― 十数年前 ー


白薔薇女学院大学文学部校舎

「パパの差し金でしょう? ついて来ても無駄ですよ」

 生まれつきの茶髪で花菱百合子は今朝から同行し始めた逢野に冷笑を見せる。駅からの小径、彼女の数メートルあとを離れて歩く逢野。尾行ではなく、ボディガードだ。


「お嬢様はさあ、黙ってボディガードのオレにお供されていれば良いんじゃないかな?」

 くわえ煙草で気怠そうな顔つきの逢野。二十代中頃とあって、顔が汚れていない。

「ボディガードって? あなた年齢的に、わたくしとそう変わりませんよね」

「まあ五つ六つ上かな。一昨年おととし留年しまくっていた大学を卒業したしね」


「そうですか、大学たって、どこぞの駅弁大学でしょう」とまた冷笑する百合子。東京近郊の大学生が地方の学校を揶揄するときにつかうことばだ。同じように「ポンキンカン」なんて言葉もあった。ちなみにこれらに該当する大学は、現在は結構な高さの難易度を誇る大学なので、時の流れは考慮しよう。


『このお嬢さま、結構口悪りーな』と内心思う逢野。しかしそんなことはおくびにも出さず、「横浜公立大学です」と言い返す逢野。


 逆にそこに食らいつく百合子。何を言っても彼そのものを否定したいようだ。

「なんでそんな良い大学出て、探偵なんてやっているのよ! 馬鹿なの、あなた」

 何を言ってもダメな人というのはどこにでもいるモノだ。自分の価値観を他人に当てはめる典型的な特権意識の高い人物である。

「そんな職業差別な発言はお嬢様には似合いませんよ」と笑いながら、濃い眉毛をへの字にして愛想笑いをする逢野。

「ふん」とそっぽを向く百合子。

 それを最後にまた二人は黙々と歩き続けた。


 そうこうするうちに守衛の詰め所がある大学の正門に辿り着く。

「まあいいわ、どうぞご勝手に。女子大だから男性は入ってこれませんよ」

 百合子の言葉に、

「お構いなく。この校門前でお帰りまでお待ちしています」と頷いた逢野。


「百合子、あんたのボディーガード、あのしゃくれ顔の。まだ校門にいるけど」と友人が学食で伝えると、

「あのアホ。諦めて帰ると思ったのに、五時間もあんな何も無い場所で待っているの? どういうこと?」とご立腹の百合子。

 カツカレーを前にめらめらと燃えたぎる想いが頭を突き抜けた。そして妙案が浮かんだようで「ふっ」と軽い笑顔を見せると、学食の食器を戻して、ひとりキャンパスの裏側に向かう百合子。


 この女子大は恵比寿側と広尾側の出口があり、彼女は通常、通学では恵比寿側を使うのだが、この日に限っては逢野を巻くために、広尾側の出口からそっと足を偲ばせて出て行くことにした。


 抜け足差し足で、茂みの中から裏門に到着した百合子。靴音を立てないように用心しながら校門をすり抜ける。


 ところが校門にもたれかかった逢野は、彼女が前を通るのを見て、

「お嬢様、お帰りのルート変更は事前に教えて下さらないと困りますよ」と声をかける。かつて逢野がこんな機転の利く男だったとは、誰もが努努ゆめゆめ思うまい。


 突然の登場に動揺する百合子。

「キーッ!」

 彼ごときに自分の行動が、見透かされ、見抜かれていることに彼女はプライドを傷つけられたようだ。瞬間湯沸かし器のように頭から湯気を立てると、百合子はスカートを翻して、一目散に駆けだした。全力疾走。逢野を巻くことを選んだのだ。上手く行けば、地下鉄の駅は近いので、どこかで彼を巻くことが出来ると踏んでの勝負に出た。

「今度は強行突破ですか。やれやれ金持ちってのは何を考えているのか、分かりゃしない」

 やる気なさげに、それでいてかなりのスピードで逢野は彼女の後を追った。


 コツコツとローヒールの踵の音を響かせて走る百合子。逢野とは結構な距離が出来ていた。ところがそこに待ち構えていたそろいの黒地に黄色のラインが入るスーツを着込んだ人間。路上いっぱいに広がって彼女の行く手を阻んでいる。道幅を全て塞ぐ形だ。


「くそっ、やっぱり出て来たか!」

 逢野が発した言葉。彼は分かっていたようだ。

 百合子は、通せんぼされた道を引き返してくる。彼らが何者なのかは匂いで分かったようだ。長年の金持ち生活に敵味方の鼻は利くようだ。そうこうして彼女は逢野の方に戻ってきた。

「やれやれ」とため息の逢野。

 逢野は素早く百合子の手を握ると、「こっちだ」と言って見慣れない建物と建物の間を抜けて、編み目のような小路をジグザグに走る。そして古びたたばこ屋の角にある建物の影に止まっている125CCほどのスクーターを見つけると、「乗れ!」と言って、エンジンをかけた。やがてマフラーから白い煙が吐き出されると、そのスクーターで逢野は彼女を後ろに乗せて走り出す。


「なんであんなところに駐めてあるスクーターのカギを持っているのよ?」

 問いかける百合子に、「オレのスク―ターだからね」と言ってヘルメット渡す。

 彼女はヘルメットを被りながら、

「あなたのバイクがあそこに偶然置いてあったってこと?」と訊ねる。


「まさか。お嬢さんの護衛のために、大学の回りに五台ほど置いてあるんだよ。あんたのおかげでとんだ出費だよ」と笑う逢野。

 逢野にしては少し格好良い。この頃は宝くじに願掛けしている姿などまだ微塵もない。時間の経過とは残酷なモノだ。

「ふーん」と頷き口元を緩めた百合子は少しだけ逢野を見直したようだ。


「そんな事より、さっきの連中に見覚えは?」と逢野。

 逢野の腰に掴まりながら「いいえ」と返す百合子。

「あいつらに追われている本当の理由をあんた、知っているのか?」

「詳しいことは知らないけど、お父様のお仕事の関係でライバル社が、わたくしを脅しの材料ネタにしたいみたい」

 おぼろげながら彼らの目的は知っているようだ。

「取引材料か? きっと新製品の発表を阻止したいんだな」とおおよその察しがついているらしく逢野は頷いた。そして「このまま遠回りをして帰るぞ。しっかり掴まっていろ」といってスロットルを回した。


「あなた、思ったより役にたつのね。私のボディーガードに認めてあげても良いわ」と笑う百合子。

「そりゃどうも」と言った後、小声で、「なんの上から目線のお達しだよ」と困った表情をしながらスクーターを運転していた。

 風を切りながら、思い上がったお嬢様相手にやりにくい仕事をこなす逢野。そして自分もヘルメットを被ると、風防を下げて不敵な笑みを浮かべていた。

「飛ばすぞ」とスロットルをさらに全開で明治通りを走る。これが逢野二十六歳、百合子二十歳の頃のお話。


―そして現在―

「……と言う風にわたくしはおば様から当時のことを聞いています」と紫福。

「まあ、大体当たってますね」と笑う逢野は懐かしそうだ。


 そして「今あなたのお話を聞いて、はっきりとあの時を思い出しましたよ。探偵業の駆け出しの頃、物凄く金払いの良い旧家のお嬢さんのボディガードを頼まれた。じゃじゃ馬ご令嬢の件ナ。あれ、あなたのお身内の方だったのですか」

 逢野は相変わらず、過ぎ去りし日々の懐古感で遠くを見つめている。


「あらあらじゃじゃ馬って言うのはちょっと言いすぎで無くて、ドジな探偵さん」


 そう言って、開け放してあった事務所の扉をくぐり抜けて来る女性。その姿は若き日の面影が残る顔、そう見覚えのあるご婦人だ。高そうなハンドバッグをぶら下げて、探偵事務所の皆の元に入ってきた。


「あ、あの時の女子大生……」と指をさして驚く逢野。


 そう今さっき話に出てきた百合子である。紫色の高貴な訪問着の着物で登場した。三十代の年相応の格好だ。

「ご無沙汰しております、花菱百合子です。ごきげんよう」

 深々と頭を下げて含み笑いの百合子は、

「相変わらずね、ドジな探偵さん」と加えた。


 まあ、逢野からしてみれば『ドジな探偵』を卒業していないので、返す言葉も無い。進歩がないと言うことだ。どうも逢野の回りには、麻鈴といい、小町といい、百合子といい、扱いにくい女性が集まる傾向にある。難儀なことだ。


「今はなにを」と逢野。

「ええ、婿養子の夫に会社は任せて有閑クラブのように社会貢献に取り組んでおります」

 百合子の言葉に「それはご立派なことで」と興味の無い風に返す。

 紫福は「おば様」と驚く。

「紫福ちゃん、お久しぶり」

 紫福に軽い挨拶を告げると、眉をひそめながら逢野に向かっては、

「ちゃんと紫福のことも守ってちょうだいね。半藤オジサマにあなたを紹介したのは私なのですから」と念を押す百合子。


「アンタの仕業か。勝手に体よく押しつけたようにしか思えないのだが」と難色を示す顔で逢野は角口をする。

 その捻くれた言い分けをすでに見越していたのだろう。百合子は応接ソファで紫福の横に腰を下ろすと、テーブルの上に百万円の文字の刻まれた小切手を置く。

「そうでもないわ。報酬は結構悪くないモノ。かつてのお礼も含めた額よ。年末ジャンボで夢見るのも良いけど、こっち方が確実性が高いわよ、探偵さん」


 何もかもお見通しと言わんばかりの百合子の台詞に無言の逢野。


「ぐぬぬ」

 勿論、あの宝くじを鑑賞する時間、百合子は一部始終を見ていたことになる。冷や汗と喉から手が出るほど欲しい金額が記されたチェック証紙に思わず固唾を呑む逢野。

 いきなり態度を変えたように、いつの間にか麻鈴は奥の給湯場からお茶を持ってきた。すでに彼女の両目、瞳は円とドルの記号に変わっている。

「粗茶でございます。一応玉露なんですよ。就業スーパーの特売品ですけど、おほほほ」といって百合子の前にピュイと差し出した。

「あら気の利く女中さんね」

 百合子の言葉にサリーと小町は後ろ向きで大爆笑である。二号からとんだ格落ちだ。さらに雑に扱われた感じ。


 すると麻鈴も負けてはいない、「こちらは手付けの前受金アドバンスですか? 大黒屋銀行の当座ですね」と麻鈴。小切手の確認をしている。抜け目の無い切り返しは健在である。逢野との違いはここだ。転んでもただでは起きない。


「アドバンス……」

 予想だにしない麻鈴のふっかけに少し怯んだ百合子。前受け金とイケシャーシャーと言ってのけた麻鈴に引っ込みのつかない百合子。そこは金持ちの意地もあるのだろう。翻って、下目遣いに麻鈴を見下したように笑う。


「いいわ。事件性のある案件で、天下の花菱家が直々に興信所への依頼ですものね。あと百万の成功報酬も考えましょう」と頷く百合子。抜け目の無い顔で飄々と値上げの交渉をした麻鈴の目は既に「$$$$」のフォーカード。負けず劣らずの虚勢をはった百合子も大したタマだ。



「じゃあ『ドジな探偵さん』、オジサマの手紙の謎を解いて、なおかつ紫福を守ってあげてね。私とその配下の者はいつでもあなたを監視しているわよ。成功報酬が無事にあなたとその愛人たちの手に入ることを願っているわ。ついでにヒントをあげるわよ。半藤オジサマは大のフォークソングファンでね。七十年代フォークの申し子だったわ」


 そう言って百合子はしなやかに立ち上がると、自分の名刺、そして自分の自宅の連絡先を机上に残してその場を去って行った。

「愛人って、私にも選ぶ権利あるわよ」と麻鈴は結構なご立腹だ。しかしまんまと依頼料をつり上げたことは、上手くいったという満足感になっていた。


「ちょっと、やめてよ。愛人、って。私も入っているじゃない!」と三号、いや小町も怪訝な顔で今更ながら気付いたようだった。


 その後ろ姿をサリーはジト目で追いながら、『逢野を監視する人間を雇えるのなら自前でもっと有能なヤツを雇った方が効率的だと思うのだが……』と小さなネコのひたい、眉間にしわを寄せていた。







 残った者たちで問答は続いていた。

「百合子さんの言った紫福さんのボディーガードって、そういうことよね」と麻鈴。

 小町は、

「つまりは、紫福さんが遺産を受け取ったという事実が知れ渡ると、何らかの恨みを持った人や妬みを持った人たちが動き出して、彼女に何らかの報復を始めるって事でしょう」と要約する。

「まあ、そうだな。もっといえば遺産を奪い取りかねない」と逢野。


「何か心当たりがありますか?」と麻鈴は紫福に訊ねる。


「いいえ。さっきの話に戻りますけど。私の祖父がアイスクリーム屋をやっていたなんてことだって、今初めて知りましたし。想像では、もっと危険な商売をしていたって思っていました。以前から多くの身内に聞いています。なのにアイスクリーム屋って普通の職業。それって戦前とかは阿漕な商売だったのでしょうか?」と不思議そうな顔で問い返す紫福。


 すると逢野は落ち着いて点頭すると静かにゆっくりと紫福に言い聞かせた。

「そこはおそらくあなたの思っているようなアイスクリーム屋では無いでしょう」

 何かを知っている風だ。


「どういうことですか?」と紫福。

「アイスクリーム屋っていうのは、戦前、昔の旧制中学や大学生たちが使っていたスラングです」

「スラング? 隠語や俗語ってことですか?」

 紫福の言葉に「ええ」と頷く逢野。


「アイスクリーム屋にどんな意味があるんでしょうか?」

 真剣な眼差しの紫福に逢野は、

「アイスクリームは氷のお菓子ということで、『氷菓子こおりがし』から表記替えの『高利貸し』という裏の意味があったんですよ。今ではこんなダジャレのような言い回し、使うこともありませんが、昔の人の日記帳や、回想録、古い文学作品などを読んでみると結構出てきます」と伝える。

「まあ、そんな裏の意味があったなんて。やっぱり逢野さんの事務所に来て良かったですわ。こんな頭脳明晰な所長さんがいるのなら、引き続き私はこの件をあなたに依頼したいと存じます。よろしくお願いします」

 あらためてお辞儀をした紫福だった。

 サリー、小町、麻鈴の三者ともが『頭脳明晰』という紫福が吐いた言葉、その瞬間に顔をしかめたのは言うまでも無い。彼らの頭中、目の前の逢野の顔とその文字は一致しないのだ。

「では近日中に打ち合わせをしたいので、拙宅までお願いします」

 そう言い残して紫福も事務所を後にした。正式に依頼完了である。


知床家にて


  あらためて皆が読み直す手紙。

『前略 探偵さま、お初にお手紙します。ぶしつけにこんな依頼をお願いすることを許して頂きたいのです。この手紙をあなたが読む頃には私はもうこの世にはいないでしょう。娘の紫福のことを心配している。と言うのも、彼女に祖父から継承している莫大な遺産を残したからです。知床家はおそらく今頃、その隠し場所の話題で大変な事になっていると思います。


「秋の気配」のする公園に行く坂道の途中にあるピアノバーの店主をお訪ね下さい。鞄を預けています。


また遺産相続の物件に関して、「少女時代」の坂道にある弁護士事務所、鍵を生前にそこの弁護士先生に預けました。


「路地裏の少年」の駅前にある私の隠れ家には私の展示コーナーがあります。

 この家の中で『アイドルを探せ』と言わんばかりにあれを探してほしいのです。他の人間に先を越される前に、この手紙をヒントになんとかお願いします。紫福のもとに無事に遺産が届くようにお力添え下さい。


逢野先生が昔ボディーガードで、山手の花菱百合子嬢を守り抜いたそのお噂を耳にして、今回は娘の身を案じて依頼しました。突然の一方的なお願いでスミマセン。わずかですが展示ルームの頭上にある神棚の後ろに依頼料を置いておきました。どうぞお納め下さい。

よろしくお願いいたします 草々  知床半藤』


 今一度逢野はこの手紙の文面の解釈に迫られている。

「地理的にはこの知床家は、山手のイタリア山近くに位置している。ここまでの道すがらを地図で重ねていけば、遺産の手がかりはあると踏んでいる」

 逢野の言葉に、外野の助手も頷く。

「このカギ括弧って何かしら?」

 外野の助手、麻鈴の言葉だ。

「曲名だね」

「曲名? 音楽?」

「あのじゃじゃ馬女子大生だった百合子さんが帰りがけにヒントを残してくれている。亡くなった半藤氏は大の七十年フォークソングのファンだったと」

 逢野の説明に麻鈴は、

「七十年フォーク? なにそれ?」と言って首を傾げる。二十代の若者、麻鈴にはピンとこないのだ。

「昔の大学生の間でフォークソングブームがあったのは知っているわ。ニューミュージックやJ-POPの原型ね」と紫福は頷く。


 逢野もそれに続くように、

「そうそう。それでそのフォークには二種類あってね。六十年フォークというのもあるんだ」と言う。

「六十年フォーク?」と紫福。

「六十年代に流行ったフォークソングだ。六十年フォークはメッセージソング。いわば反戦歌や貧困救済歌だ。社会派の大学生の間で流行ったやつだ」

「ほう」と麻鈴。

「対して七十年フォークは別名、四畳半フォークと言われて、やはり大学生が主な支持層だったが、時代が変わりひとり暮らしの若者の同棲生活や恋愛、そして日々日常の感動を歌いあげるポエティックなものが主流となった。要は社会における流行が政治よりも日常に変わったため作り手もそっちに内容を変えたようなもんさ。例えば「神田川」とか「旅の宿」なんかだ。その流れは八十年代の初頭、「ペガサスの朝」や「旅の空から」などまで続いている。半藤氏は遅れて来たその七十年フォークの世代だったってことさ」


 長めの逢野の説明が終わると麻鈴は、

「今挙げた神田川とか知っているわ。それって誰の歌?」と訊ねる。

「うん、「神田川」はかぐや姫、「旅の宿」は吉田拓郎、「ペガサスの朝」は五十嵐浩晃、「旅の空から」は松山千春だ」

 逢野の言葉に「みんな有名な歌で、有名な人ね」と返す。

「ああ」

「それでその七十年フォークからその手紙に隠されたメッセージは分かるの?」

 まるで世話女房のように彼女は振る舞う麻鈴。サリーは少しほくそ笑んで、「しめしめ」と小声で言った。この使い魔どら猫も何か企みがあるようだ。


「文面の区切り単語が全て曲名になったいるんだ。カギ括弧の就いている部分ね」と逢野。


 そして、

「ここに出されているのが「秋の気配」、「少女時代」、「路地裏の少年」、『アイドルを探せ』だ。気になるのが、『アイドルを探せ』だけが二重鍵かっこなんだ。これについては少し気がかりだ」と続けた。逢野にしてみれば七十年代からそれ以降のヒットソングが流れる脳裏、自身の世代と時代性に鑑みて導きやすい案件だった。


「なるほど」


 腕組みして彼の推理に聴き入る麻鈴。麻鈴は自分の助けもなくつぎつぎと推理を働かせている今回の逢野を少しだけ見直していた。酒飲み、宝くじ、ポンコツ太郎のダメ男くんである困ったおじさんだが、実は立派に探偵としての資質を兼ね備えた、そして今回知ったが過去に成し遂げてきた事件解決の話から、やる気になればそこそこの活躍が出来るヤツと思い始めたのだ。すなわち麻鈴の中で逢野の評価は爆上がりしている。


「でもまあ、おおよその位置関係からすると、ウチの事務所から順に辿ればこれはすぐにでも回れる。簡単とまでは行かないが、難しくはない案件だ」

「そうなの? 場所の話なのね」

「ああ」

 そう言って逢野はポケットサイズの横浜全体の観光地図を広げた。

「ここが元町と山手の周辺、この赤丸が石川町駅前のウチの事務所」

「うん」

 のぞき込むように麻鈴は髪をかき上げながら逢野の横に顔を近づける。


 彼女は一瞬『えっ?』と怯む。異性の逢野が至近距離にいることに初めて意識したのだ。ただ隣にいるだけなのに胸の高鳴りが聞こえた。彼女はブンと首を振って、「ありえないから」と小声で呟く。


 そんな麻鈴の様子などお構いなく逢野は続ける。

「いいか、この三曲は横浜に関係のある曲だ。かなり乱暴な推理だが、まずは初見で感じたモノ、自分を信じてその推理で動いてみよう。最初の「秋の気配」はオフコースというデュオグループのモノで、俗説で「港の見える丘公園」を歌ったモノと言われているんだ」

「フランス山?」

「そう。この公園に行く途中の坂道にあるピアノバーはここ。『フランツ・リスト』だけだ。ここが半藤氏に繋がりのある店だ」

 そう言って地図上に赤丸を書き込む。


「なるほど」と麻鈴。

「そして「少女時代」の坂道。これは原由子さんのヒット曲なので、彼女にゆかりのある学校の通学路にあるフェリス坂とも言われている。真偽は定かではないけどな。やはり俗説の範疇だ。それでもって、この坂にある弁護士事務所もひとつだけだ」


 そう言って、やはり同じように赤丸をつける。


「うんうん」


「そして「路地裏の少年」は浜田省吾さんの通う学校のあった東横線沿線にある庶民駅の白楽駅だ。そこいら辺に歌詞に歌われた下宿先があったんだろうな。ここが遺言とどういう繋がりなんだろう?」


 すると今まで沈黙していた紫福が、

「そこには父の別宅があります。昔、一度だけ連れて行ってもらいました。中には入れてもらえませんでしたけれど、場所は何となく覚えています。六角橋商店街のはずれ、公園の近くです」と新情報を提供した。

「六角橋って言えば、東横線白楽と市営地下鉄の岸根公園駅の中間に位置するわね」と麻鈴。

 その言葉に逢野は何かを感じ取ったようだ。

「なるほど、これで地理的な条件は繋がったわけだ。あとは現地を回って、手紙に書かれた品物の伏線回収といこうか」と不適に笑う逢野。合点がいき、結構な手応えを感じているようだ。

 麻鈴は優しい笑顔で「そうね」とだけ頷く。彼女はなぜか逢野が自信に満ちた顔で仕事をするのが嬉しかった。


「そう考えれば、東横沿線ということでこの三カ所は回りやすくなる。フランス山のピアノバーとフェリス坂の弁護士事務所は元町・中華街駅、六角橋は白楽か」と率先して段取りを説明して指揮を執る逢野。

「鞄に、鍵に、最後のモノはお宝なのかな?」と麻鈴。


 麻鈴は頭のヘアバンドを外すと髪を束ね、ヘアゴムとリボンで後ろ髪を縛った。動きやすい格好で活動するためだ。


「その家にお宝が?」と麻鈴。

「分からないけど、実際に行ってみれば何らかの兆しは見えるはずだ」


 逢野の声に頷くと、

「やるじゃない! 安間郎、じゃあ行くわよ」と麻鈴。ウインクで、親指をかざしゴーサインで彼を誘う。

「えっ? 今から? しかもなんでオレ名前呼び捨て?」と少し驚く逢野。


「当たり前でしょう。今からよ。元町と白楽なんて十分程度の時間で行けるんだからとっとと謎を解明するわよ。紫福さんの身の上だって早く楽にしてあげなきゃ。後で紫福さん、その白楽の別宅で会いましょうね。一時間後ぐらいに」

「はい。では白楽駅で合流します」



 麻鈴は紫福に会釈をする。そして彼女はむんずと逢野の襟首をつまんで手紙に書かれたアイテムが託されている指定の場所を回ることにした。

「おお、おう」

 台詞の割に引っ張られた状態で、いまいち率先的でない逢野は麻鈴の後を引きずられるように付いていった。紫福は笑いながら二人の後ろ姿を玄関で見送ったのだった。


 半藤氏の手紙を見せると逢野に対して、ピアノバーの女主人も、弁護士秘書も預かり物をすぐに渡してくれた。来たるべきこの時のための半藤からの説明が十分に為されていたのだろう。手際の良さを感じた。

 結果、ピアノバーでは小さな旅行鞄すなわち小型キャリーケース、弁護士事務所ではどこかの鍵を一本預かったというだけで、メッセージや伝言の類いなどは何も伝えられていないとのことだった。すなわち最後の場所、白楽の建物で何かが分かるという段取りのようだ。


 二人は目的の場所をまわると、外人墓地の横を抜け、アメリカ山公園にあるエスカレーターに乗って山を下る。ここは敷地的には既にみなとみらい線の元町駅である。 

 一階に着くと、エスカレーターを乗り換えてプラットホームへ向かう。みなとみらい線の地下深く潜ったプラットホームをめざし再び延々とエスカレーターで下る。


 二人はホームのある階に降りると、停車中の東横線直通の列車に乗り込んだ。

「いよいよだわ」と麻鈴。

 逢野はその言葉に頷く仕草をするが、気難しい、険しい顔のまま無言を貫いた。




 そのまま直通する東横線に乗って、白楽の半藤氏の別宅前に二人は辿り着いていた。メールを紫福に送って、現在地を確かめ合った。教わりながらの道順で二人はどうにか紫福の案内してくれた場所へと辿りついた。十分ちょっとの距離だ。

 そこで待ちあわせの紫福と落ち合う。彼女はしっかり時間には待っているという几帳面な性格の持ち主のようだ。

「スミマセンね、お呼びだてして。我々だけで人様の家に入るのはちょっとね」と逢野。会釈のまま謝意を伝える。意外に常識人だ。

「いえ、私も折角の世紀の瞬間に立ち会いたいので、父の残した謎解きには興味があります」と笑う紫福。謎解きをわざわざ世紀の瞬間と思うほどに興味もあるのだろう。


 その一軒家は何の変哲も無い建売住宅である。平成時代なら不動産屋の新聞折り込み広告に出ているようなごく一般的な造りの住宅で、二階建ての屋根にソーラーが付いたものだった。あたりの家もほぼ同じような概観なので、区画まるごと不動産屋が売りに出した物件モノだろう。ただ一つだけ違っていたのは、後で彼らが知ることになる隠し部屋が存在することだった。


 そこでお約束通りとも言えるように弁護士事務所で預かった鍵を出す逢野。カチャリと言う小さな音で鍵が開く。いわゆる新興住宅地にある一軒家の玄関がそこにはあった。のぞき込めば、リビング、ダイニング、キッチン、バスルームと普通の部屋が見える。ただしキッチンやバスルームはほとんど使った形跡がない。モデルルームを思わせるようにほぼ未使用だ。


 三人は小さな間取りの和室に足を踏み入れる。中央に半畳の正方形に畳み。その真上には茶釜をかけるためのフックもある。茶室としても使えるようになっている部屋だ。

 典型的な床の間付きの整理整頓された小綺麗な襖と障子の和室。一つ違うのは、掛け軸をつるスペースにこの部屋のイメージとは不釣り合いなジャズの名盤が何枚も吊されていたことだった。透明プラスチックのジャケット展示用ケースに差し込まれて吊されている何枚ものレコードに違和感がある。


「君だったら、このレコード、何処で聴く?」

 逢野の質問に、

「そう言えば、この家にはオーディオが置いていませんね」と麻鈴。二人は紫福に目線を送るが、彼女は横にかぶりを振った。

「床の間にレコードジャケット?」

 昔の血が騒ぐのか、逢野は腕組みをしながらそのジャケットを繁々と見つめている。

「マイルス・デービス、レイ・ブライアント、イブ・モンタン……。十四、五枚はあるなあ。世紀の名盤ばかりだ。まるで名プレーヤー、名シンガーの名盤展示」

「そうなの?」

 平成生まれの麻鈴にはその価値はさっぱりだ。勿論、逢野も完全な世代ではないので受け売りに近い。だがレコード雑誌を長年読んでいた関係で、そこそこの知識はある。

 その時逢野はつり下げられたジャケットの一枚にピアノ線が括られているに気付いた。彼は口元を緩めると「ははーん」とほくそ笑む。

 そのピアノ線は真横に延びていて、床の間の左端にある滑車で上の方に向きを変えてある。その先にある何かのスイッチと連動させていると逢野は踏んだのだ。


 確信したようで、彼はそのLP盤のうちの一枚をプラスチックの展示ケースから抜き取った。右側に引き抜く感じで動かした。実際にはピアノ線があるのでケースから出すことは出来ない。ピアノ線の長さの限界までしか移動が出来なのだ。当然引っ張れば、ピアノ線は動く。

 すると突然モーターの唸る音がゴゴゴーッとして、ジャケットがつり下げられている後ろにある壁が横にスライドした。その後ろの壁が扉だったのだ。そしてなんとそこに地下に通じる階段が現れたのだ。


「おいおい隠し部屋って、そんな、探偵小説みたいだろう」と逢野が言う。

 麻鈴の肩でくつろぐサリーは「アホか、お前探偵だろう」とまた逢野に通じてない魔法の国のネコ言葉でツッコミを入れている。

 逢野と紫福、麻鈴は顔を見合わせると、吊り下げられたジャケットをまるで暖簾でも潜るようにめくって地下に通じる階段に足を踏み入れた。扉の可動とともに地下室の照明はオンになるように出来ている。そのためかなり階段は明るい。階段を降りるとすぐに開けた空間に出た。広大な広さの地下室だ。


 その地下室は柱以外は区切りのない大広間になっており、そこに博物館にあるような多くのガラス製展示ケースが置かれていた。

「なんだこれ? まるで楽器のショールームだな」と逢野。

 初めて見る父の遺産に紫福も目を丸くして「本当です。こんな隠し部屋を父が持っていたなんて」と驚いている。


 片隅には豪華なオーディオが置いてあることから、防音のためのオーディオルームと防犯のための展示ルームを兼ねた地下の隠し部屋と言うことになる。

「きっと祖父の遺品を置くために父が作った専用の地下室なんでしょうね」と紫福。

「だろうね。信頼できる工務店に建て売りの工事をする前の段階でひとつだけ特注にして、上の家だけは回りの家と同じ建物を被せてもらっている感じだな。地下室完備の建売住宅なんてそうそうはないからな」

 腕組みして頷く逢野。

 

 大きなガラスケースには綺麗に手入れされた楽器が数多く収納されていた。トランペット、トロンボーンなどの金管楽器。クラリネット、オーボエ、フルート、サックスなどの木管楽器。ヴァイオリン、ビオラ、コントラバスなどの弦楽器が並ぶ。どれもがピカピカな状態でショーケースの中にある。

「これは立派なコレクションだ」とのぞき込んで驚く逢野。


「詳細は分からないのですが、祖父は昔バンドマンに憧れていたというのは聞いていました」と紫福。

「ほう、凝り性な性格はこの展示品で十分に理解できるよ」と逢野。

 そして、

「でもな、ひとつだけ、まだなんだ」と続けた。



「それですよね。ここまでの曲名での謎解きは順調でした。そう、あと一つを残すだけ」と復唱する紫福。


 その言葉に少々渋い反応の逢野。眉をひそめる。

「ただここに入ったまでは良いのですが、最後の『アイドルを探せ』という曲はフォークソングにもJ-POPにも無いのです」


 逢野の言葉に「えっ?」と首を傾げる紫福。

「あれからいろんなモノを当たってみたのですが、そんな曲はシルビー・バルタンの曲だけです。それをカバーした中尾ミエさんのモノを含めてかな?」とお手上げのポーズで肩をすくめる逢野。

「あまりマイナーなものを謎解きに利用するとも限らない……。解いてもらわないと意味ないですから。メジャーなモノはシルビーだけ……」

 逢野の言葉に「確かに」と声を揃える二人。


 お宝を前にして最後の最後、ラストピースを当てられないという不測の事態。一気に場が暗くなる。そこで麻鈴はほくそ笑む。いつもの悪戯顔は健在だ。

 

『しゃあない。ちょっとだけ助けてやるか』

 小声で呟いた麻鈴は物陰に身を移すと、

「あの魔法学校の伝説の加賀美あつ子先輩から借りている秘密のコンパクトで調べちゃおう」と言ってコンパクトを鞄から出した。

「テンテケテン、鏡よ鏡、二重カギ括弧の『アイドルを探せ』の意味を教えて!」

 まるでAIの『オッケーグーグル』を呼び出すようにコンパクトに話しかけた麻鈴。


 するとコンパクトから虹色の光が放たれ、その鏡像の中に白黒映画のワンシーンが出てきた。まさしくシルビー・バルタン主演の映画『アイドルを探せ』の一コマだ。ギターのサウンドホールの中から何かを取り出している。

「なるほど」と納得した麻鈴はコンパクトをしまうと、「そう言うことね」と笑った。そして皆の元に戻った。


「またダメなんですね。逢野さん。しっかりして下さい」と偉そうに二人の前にしゃしゃり出る麻鈴。逢野にダメ出しをするのが楽しみになっている麻鈴。エスっ気の入った小娘は得意顔だ。本領発揮と言わんばかりに。そしてこの顔をしたときの麻鈴は、皆にとっていい迷惑でもある。

「なんだ助手。お前に分かるとでも言うのか?」

「当たり前じゃないですか。私にとっては朝飯前ですよ」と腕組みをして不敵に笑う。

『けっ。カンニングしたヤツがよく言うよ』とサリーは相変わらず捻くれて肩の上でぼやく。


 紫福は謎が解けて嬉しそうだ。


「言ってみろ」と逢野。

「二重カギ括弧は曲のタイトルでは無くて、映画の作品名だから使われている記号なんです。つまりこの『アイドルを探せ』は曲では無く映画作品です」

「ほう、シルビー・バルタン主演のヤツだな」と逢野。そこは流石、もと演劇青年である。すぐにピンときたようで、映画のクライマックスに使われた演出を思い出す。

「ギターのサウンドホールに何か隠されているって事か?」と言う逢野。

「分かったようですね」とにこやかな麻鈴。


『私はこの映画観たこと無いけどね』と思いながらぺろっと舌を出す麻鈴。


「恩にきるぞ、助手」

 そう言って、各ケースを回って逢野はアコースティックギターを探し始める。そして柱影に裸のままスタンドに立てて置かれていた一本のアコースティックギター、その前から「あった」という逢野の声がする。彼が見つけたのは1959年製のマーチン社D-18E型だった。彼はサウンドホールに手を入れたままの姿勢で、紙切れを握ったまま、その紙切れには目をやらず、視線はその目の前のギターにとらわれている。

「このエレアコどっかで……」と凝視したまま言う逢野。サウンドホールの下の黒い勾玉型の黒模様、すなわちピックガードが上向きになっている。右利き用のモノをレフティモデルに弦を張り替えたギターだ。かなり使い込まれているのが筐体のそこかしこで見て取れる。

「ギターバンド・ニルヴァーナのカート・コバーンが愛用したギターで、確か約六億四〇〇〇万円で落札されたものだ。新聞で見たぞ、すげえなあ」と逢野。脇にはオークション会社の鑑定書が添えられていた。


 サウンドホールの中の手紙を見つけた逢野は、そのまま紫福に渡す。


『紫福、無事にここまで行き着いたようだね。宝の文章地図が解読できて何よりだ。この祖父の形見は、お前が好きなようにして良い。売れば何十億にもなるだろう。でも取っておきたければそのままでもよい。寄付をするのならそれでも良い。楽器の価値など分からないお父さんより君に託そう。愛する我が娘よ』


 紫福は「はい。お父さん分かりました」とだけ言って肯いた。その手紙を胸に当て満面の笑みを浮かべている。


 今更ながら、輝くショーケースに目を奪われている逢野の方はというと、

「ちょっと待て……。ってことはあのヴァイオリンはストラデ、あっちのフルートも」と言ってガラスケースの銀色に輝くフルートに目をやる。刻印には「L.L LOUIS LOT PARIS」の文字。

「これも十九世紀のルイ・ロット社製のフルート。最低でも二百万はするぞ」と彼は腰が引けている。

「一体、この部屋の楽器を合算したらいくらの資産価値になるんだ」と言ってワナワナと震える逢野。

「何を独り言言っているんですか、そんなの引き受けたときから分かりきっているじゃないですか。資産家の相続品なんだから」

 平然と笑う麻鈴。

「まあ、そうなんだが、カップラーメン何個分だ?」と情けない台詞の逢野。

 紫福も「でもこれじゃ銀行に預けるのはムリそうですね。銀行はお金しか預かってくれませんから」と笑う。そして「おいおい、時間をかけて百合子おば様に相談して考えますね」と笑った。


 皆が安心したところで、そのフルートの展示されているショーケースの上にある神棚。その横に置かれている封筒を見つけると、手にとってから逢野は皆を見た。

 そして紫福は「どうぞ、父からの報酬です。お納め下さい」と頷いた。そこには三百万円の報酬が入っていた。

 すると麻鈴はそれを横からスッと奪い取って、「後で分配しますので一時私の方でお預かりしておきますね」といつもの嫌な笑顔を逢野に見せた。

「けっ」

 彼は彼で、逢野の脳裏には、帰ったら隣の居酒屋に行って一杯やることがイメージできた。これもいつも通りである。


「ところでこの鞄、キャリーケースは何のために預けてあったのでしょうか」と麻鈴。皆の視線がその鞄に集まる。

 その問いに「中を見てみませんか?」と言う紫福。

 何の変哲もない旅行鞄。黒地に車輪がついているよくあるモノだ。

「そうしましょう」と逢野。

 ジッパーを開けると中には一冊のルーズリーフ帳。皆は互いに頷くと、逢野がそれをゆっくりと取り出す。

「これって……」と逢野。

 それは五線譜だった。

「譜面ですね」と紫福。

 いつの間に現れたのか、小町が「スコット・ジョプリンの直筆の譜面ね」と教える。

「誰?」と逢野。

「二十世紀初頭のラグタイム王と呼ばれた作曲家であり演奏家のピアニスト。アフロアメリカンのミュージシャン。かなりの値打ちモンよ、その譜面」

 意外にも皆が小町の博学に助けられている。

「なるほど。全てがお宝というのがよく分かった。もう資産価値の話はよそう。貧乏人のオレが不憫に見える」

 あきらめ顔の逢野は薄ら笑いだ。

 こうして遺産相続に隠された謎解きは一件落着、終焉を迎えた。



逢野の事務所にて -解決-

 逢野たちの手を借りて、無事に父の遺言解読を履行した紫福。親戚の百合子も今日は同席だ。しかも百合子はご満悦のようで、期待以上の成果が得られたことに口角が緩む。

「約束の成功報酬、後付けの支払い分です。紫福ちゃんの遺産は現金じゃなかったしね、私がご用意しました」

 百合子がそう言って小切手を差し出すと、逢野よりも早く麻鈴が「ありがとうございます」と金額を確認して懐に入れる。


 百合子は面白そうに言う。

「今頃、一部の身内の皆さんは諦めモードに入った頃かしら? いくら血眼になって銀行口座を確認しても余剰金、相続金など一円も出てこない筈。そのことに、権利を有する親戚一同がっかりしていることでしょうね。目に浮かびます。お金など揉め事になると言って、もともとあの祖父は残さなかったのですから。その息子、この子の父親、半藤さんがこれらを相続するときも一悶着ありましたからね。結局自腹で全てを保管していた。当然売った方が儲かったのにそのままの状態で楽器を残したと思われます。それどころか半藤さんは追加して自分で楽器を増やしてます。人の心ですね。そんな彼の苦労も知らずに、一部の親戚の皆さんはどうでも良い遺産問題で盛り上がって来たのでしょう。もう今回で二度目なので、いい加減に目を覚まして、皆さんも遺産金などないと理解してほしいんですけど……」


 ギターのサウンドホールの謎解きでの借りもあるので、今日のところは、麻鈴の代金預かり業務に、逢野は文句も言えず、その動作を黙認だった。


 一呼吸置いて百合子は微笑むと、机上に置かれた収集楽器部屋の写真を眺める。

「戦後のどさくさで、紫福の祖父は譜面屋から高利貸しに衣替えをしたんです。スコット・ジョプリンの譜面は、処分せずに大切に取っておいた彼の最後の意地のように思いました。彼は成功してお金を手に入れる。自分の夢と引き替えに。それがいつしか親戚皆のやっかみに変わり、身内の間で良い噂になりませんでした。本当は実直な人で、幼少期の戦前はジャズのトランペットを吹くのが夢だったようです。でも時間とお金が自由になったときには、もうそんな夢を叶えられる年齢では無くなっていたそうで、せめてビッグバンドに使う楽器だけでも集めようと思ったとか。それで他の人に真似が出来ないような名器ばかりを世界中から取りそろえて収集を試みたと言うことです。この子の祖母が教えてくれました。でも私もその保管場所が今回までどこなのかは知りませんでした。半藤おじさまは、その祖父の夢を捨てずに受け継いだ、って事みたいですね」


 百合子は自分の知る限りの情報を紫福と逢野に話した。

「いずれにしても、私への遺産はお金で無かったので、お支払いが出来ずにスミマセン」

 紫福の言葉に、

「いいえ、お父さんの置き金の代金と百合子さんからの小切手を頂きましたのでもう十分ですよ。ねえ、あ・な・た」とウインクする麻鈴。一件落着で悪ふざけをする。

「まあ、あなた二号さんではなくて本妻さんなのね。これは失礼しました」

 そのおふざけを真に受けた紫福と百合子は声を重ねた。

 彼女は大きく否定をして「まさか、ただの助手ですよ」と笑う。


 そして彼女はするりと袖机の引き出しを開けると年末ジャンボの宝くじをひと束取り出して、応接セットの大きな灰皿の上に置く。とてもスムーズで自然な流れに誰もが呆気にとられていた。そしてそのままマッチを擦って、その逢野の夢は灰皿の中で煙となって換気扇の外へと流れていった。


 呆気にとられ、ボーッと燃えて灰になる宝くじを見つめる逢野。ふと現実に戻った。

「うおおおぅ」と吠えた。雄叫びとともに彼の不労所得の夢は完全消滅である。

「おええっ」

 次の瞬間、突然仰け反って、苦痛を訴える逢野。


「あまりの気持ちの悪さに吐き気を覚えたのね。可哀想に」

 すっくとまたどこからか現れた小町。報酬支払い日を知っているかのようにここに来たのだ。

「三号さん、介抱して差し上げなくてよろしいんですか? でもあんなものに頼っていては探偵さんも成長できていないのね」

 現れた小町への紫福の言葉に、「だから私はそういう関係では無いわよ。でも仮面ライダーなら三号では無くてV3よ」と返しの言葉を言い放つ小町。どうでもよい情報だ。


 その横で悪ふざけをしすぎた感のある麻鈴は二枚の小切手を眺めながら、電卓をはじいて伝票を作成している。勿論来月以降の逢野の家賃支払いの計画を立てているのだ。そこには探偵仲間の会合の出費もちゃんと盛り込んでいる。

 家賃の方は本業、伯父から預かっている大事な賃貸物件。しっかりと家賃を取り立てて、未払いの無いようにと、彼の仕事も抜け目なく管理しているしっかり者なのだ。


 泡を吹いてソファに仰け反っている逢野の耳元に囁く。まるで百合子の口調を真似するように。


「決して嫌いなタイプじゃ無いのよ。でもね、宝くじに願掛けするような不届き者じゃ、私はまだまだあなたのお嫁さんにはなれないのよ。分かった、ドジな探偵さん」

 麻鈴は逢野との何かを考えているのだろうか? それとも気まぐれ、はたまた何か思惑でもあるのだろうか? 真相は彼女しか分からないが、ただ、今この時点ではジョークにしか聞こえない台詞だ。


 そして勿論、今の逢野にそんな言葉は届いていない。

「おれの……、オレの……、夢の一等前後賞……」

 そんな俗物にどっぷりと浸かった逢野を観ながら百合子と紫福、小町は笑い転げている。

 ソファーの片隅では丸まって、「けっ」とそっぽを向いているのが黒猫のサリー。


『麻鈴、本気でこの男に惚れ始めているな。魔法学校のセンセイが言っていた通りだ。今回はオレ様の脳内日記に記しておいてやるよ。麻鈴の初恋はむさいオッサンだった、ってな』

 サリーは興味なさげに、でも少し興味ありそうにしながら、身体の毛並みを舌でぺろぺろと整える。そして人間たちのくだらない欲と見栄、さらには麻鈴の男の趣味の悪さに苦笑しながら呆れているのだった。

                      了

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時空魔女マリン嬢の回想日記Ⅰ 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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