エピローグ
懐古する日常
○●
「そんなの僕が許さない!これから死ぬだって?僕は?僕はどうなるの?アンタは、母親だろ!産んだからには責任を持てよ!だれが頼んだ?僕を産んでくださいと誰が頼んだ!だれも頼んでなかったのに!アンタが、アンタが自分の意思で産んだんだろ!生まれてくる子どもになんの断りもなく勝手に産んだんだ!それなのに、死ぬだって?」
ねえ いのちは だれのもの?
子どもがテーブルを叩くと、花瓶に活けた彼岸花が倒れてそこは水浸しになった。
そのダイニングテーブルの水溜りに、空虚で、倦んだ母親の顔が映る。女は、微笑みすら浮かべている。
窓の外には、金色の三日月が夜空に架かっている。
「私だけじゃないわ。あなたのお父さんも、責任を放棄したのよ」
「今はパパの話じゃなくて、ママの話をしてるんだよ!」
「私は私の話をしているわ」
子どもの顔は涙と鼻水でまともに見れたものではない。それでも、母親は飄々としている。自分には関係のないことだと言わんばかりに。実際、そうであった。この女は今夜死ぬ。自死すると決めている。決めている限りは、女は既に死人に等しい。死人はこの世界に関与できない。
母親の柳のような態度に、なにを、どう、訴えかけても、すでに時は遅く、まるで無駄なのだと少年は悟る。途端に、その声から威勢が失われてゆく。少年は最後には泣き崩れて、フローリングの上にへたり込んでしまった。
「ママ…どうしてなの?どうして…?僕よりその男が、だいじなの。あいしているの。」
「いいえ?」と、やけにはっきりした口調で、女は言った。「あなただけよ。愛しているのはあなただけ。けれどママはね、あなたより、自分の身が可愛いだけ」
今は午後八時半。少年は虚ろな瞳で思考する。あと何時間?あと何時間、ママはこの世に存在する?ーーきっとあと、四時間もない。三時間、もしくは二時間。少年は、ふっと笑う。消えいりそうな虚ろな微笑みで。
さみしいね。
僕はママの生涯に、なんら関与できないし、なんら影響を、及ぼさない。僕たちは、世界でたった、二人きりの親子なのに。
「愛してるわ。ダメな母親で、ごめんなさい」
あいしてる、ちからのないむすこで、ごめんなさい。
○●
形から離れた世界で遊ぶ、子どもがふたり。空を飛んで、微笑みあって、かつて自分たちが住んでいた町を見下ろしている。
ああ、ここに金木犀が咲いていたね。秋になるといい匂いがしたね。
堤防の桜は白くて美しかったね。春になると、よく家族でお花見をしたわ。
地球を離れ宇宙を渡って、月へゆく。
マルクス・マルクの裁判は済んだかな。
どうだろう、あ、いるよ。ルルが住んでいた家だわ。一人で、項垂れている。
ふふ、ざまあないね。
ふと、二人に気づいたマルクス・マルクが顔をあげる。疲れているけれど、口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。
なかなかイケメンじゃん。
体を失い、人の顔が判別できるようになったルルは、男を揶揄った。マルクス・マルクはそりゃどうも、と皮肉げに笑って見せた。
まだここの職員なの?
ええ。お陰で刑期が伸びちゃったよ。
ざまあないね、ルルは二度も同じことを繰り返した。
可哀想ね、マルクス・マルク。
ありがとう、花の君。訪ねてきてくれて、よかったよ。実はきみたちに、伝え忘れたことがあるんだ。
またどうぜ碌でもないことでしょ?
いいえ。とっても大切なこと。
マルクス・マルクは勿体ぶった口調で言う。まるで内緒話を打ち明けるように。
きみたちに伝えたことはね。ほんとはぜんぶうそっぱち。僕のイタズラさ。だから二人で、幸せになりな。
見え透いた嘘をついて微笑むマルクス・マルクは、たぶん今までで一番、人間らしい。
もちろん。ルルは口角を上げた。
アンタもね。
マルクス・マルクも笑う。
さようなら。よき人生を。
○●
二人はマルクス・マルクと別れて、またお空の旅に出る。
ねえルル。この世界は哀しいね。
でも哀しくてもへっちゃらよ。
手を繋いで微笑み合う。体温はもう、感じないけれど、確かにこの手を繋いでいる。
少年と少女の瞳に涙はない。体を失った二人の関係は、恋ではない。愛でもない。ただ透き通るような、命名し難い感情がある。
そう、哀しくったって、へっちゃらよ。
ルルの真白い頬を、ノノの桜色の唇が口づける。目を丸くした少年の顔は、あどけない。
「へっちゃらよ。ね?」
わたしたちはこの世界が、哀しみと同じくらい、うつくしいもので満たされていると知っているから。
了
『月の街』 われもこう @ksun
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