七日目

And we became the light. (そして僕たちは光になった)



 マルクス・マルクとゴンドラを降りて細長い階段を慎重に下ってゆく。二人で降り立ったときには、あの目の覚めるようなコバルトブルーの光を湛える湖が悠々と横たわっていた。


 果たしてそこに、ノノちゃんはいた。


 三つ編みのお下げを背中に垂らした少女が、紅い橋の中央で、欄干に両手を置き、佇んでいる。

 コバルトブルーの光に包まれたノノちゃんは神秘的だった。まるで一枚の絵を眺めているみたい。僕はしばらく見惚れて、その場から動けずにいた。


 我に返ったのは、隣に立つマルクス・マルクが、無言で僕の肩を突いたからだ。


 そうだ、と僕は、緊張した体を落ち着けるようにすうっと息を吐く。

 左のポケットに入れた、月の街移住証明書。僕とノノちゃんの分。これを渡して、ずっと一緒にいようって、言ってみせるんだ。


 僕達が歩き出すと、ノノちゃんが弾かれるようにこちらを見た。


 黒い瞳が大きく見開かれ、ノノちゃんの顔がさあっと青くなる。まずい、と僕は直感に突き動かされ、走り出した。

 僕の直感は当たっていた。ノノちゃんは赤い欄干に飛び乗ると、そのままコバルトブルーに発光する湖のなかへ、身を投げしてしまった。


 ざぼん、という水音が響いた。この静かな山の麓に。僕は側にいたマルクス・マルクのことなんて忘れてしまうくらい夢中で走った。橋を渡り、確かにノノちゃんがいた場所までくると、欄干に手をかけ、躊躇わずに水の中へ飛び込んだ。



○●



 つめたい、つめたい水が僕を包んだ。たくさんの気泡が水上に向かって立ち昇る。僕は湖底に足を着けると、瞼を開いて、辺りを見渡す。髪の毛が漂って見づらいけれど、その髪と髪の隙間から、ノノちゃんの姿を見た。


 水の中は、いっそ眩しいくらい。

 僕たちが水中で動くことによって、光が乱反射する。すると尚、光の世界にいるみたい。


 神酒の海では、エラもないのに呼吸ができた。僕は水圧を感じながら、ゆっくり、ノノちゃんを脅かさないように、少女に向かって歩いてゆく。

 音のない水の世界で、ただただ、光が瞬いている。その中にたたずむ君は、ほんとうに同じ人間とは思えないくらい綺麗だった。


「ルル?」


 よくやくノノちゃんの側まできたとき、ノノちゃんは鈴が鳴るような可愛らしい声で僕を呼んだ。

 僕は、やっぱり彼女を驚かせないように、目を落として、その小さな手をそうっと包んだ。

 すると、ふわあ、と音がしそうなくらい、僕たちの下半身が、青く青く、光った。


「ああ」


 消える。


 僕は安心して体の力がぬけそうになった。なぜって、これで、もし告白に失敗したとしても、僕はノノちゃんと一緒に消えられるから。僕はどこまでも自己中だ。



 光が水中を舞っている。君の開かれた漆黒の瞳に、コバルトブルーの光が映る。次の瞬間には、ゆらめいて、青く煌めく。投影されるスクリーンみたい。

 僕のなかのなにかが、いいえ、僕の中にあるすべての感情が、この子に伝わりますようにと一度深く祈る。


 「僕はね、」僕の口からでた銀色の泡が、水面に向かいながらふわりと踊る。刹那、耳の奥でママの声が聞こえた。目の奥でママの赤いルージュを見た。僕はわずかに、首をふる。「ーーいいえ。オレはね、ノノちゃん。」


 ひどく、緊張している。


 反対に、これ以上ないくらい、落ち着いてもいる。


「…物心ついたときから、人の顔というものが見えないの。皆がどんな顔をしているのか、実はオレ、知らないんだ。ただぼんやり見えるだけだったから」


 突拍子もない話でごめんね。

 けれど最後まで聞いて。

 きっと君だけにしか話さない。


「そんなカオナシ達の中でね、君の顔だけをはっきりと見た。ねえ、ノノちゃん。君はとっても可愛らしくて、明るい世界で生きていて、オレは君がほんとうに、羨ましくて。それでいて、ずっとずっと、ずっと遠くて」


 地球にいるとき君の後ろ姿をみた。

 両脇にはパパとママがいたね。

 君の横顔は幸せそうだった。


 僕はなんて惨めなんだろうって思ったよ。


 青白い光が胸元まで迫り上がってくる。ノノちゃんは僕の体に巣食う光をみて、さらには自分の体を確認して、驚いている。君のうすく開かれた唇から、空気が漏れ出して、銀色に煌る泡となる。


「こんなに無数の人間がうようよと存在する星の上で、僕はきみだけを認識できる。僕にとってのニンゲンは君だけだよ。そしてね、僕にとっての女の子も、この宇宙に存在する無数の人間のなかで、これまでも、これから先もずうっと、君だけなんだよ」


 ノノちゃん。

 ノノちゃん?


 ノノちゃんの髪を纏めていたゴムがするりと抜けて、コバルトブルーに光る水中に三つ編みが解ける。黒く艶やかな、まるで神さまの眷属の魚みたいに、君の髪が生命を宿して泳いでゆく。


「ノノちゃん、この馬鹿な男の子を赦して。オレの命をあげるよ。すべて君に捧げるから。一緒にいて。傍にいて。君がいないと、この世界で生きる意味がないんだ。」


 利己的な僕を赦して。


 正しく生きられない僕を赦して。


 ねえ神さま。


「赦さないよ」


 それまでかたときも動かなかったノノちゃんが僕の手を振り払う。細かい泡が乱れる中で、君の手が僕の手を優しく包んだ。

 ああやっぱり、君には到底敵わないよ。こんなに冷たい水の中でも、ずっとずっと、温かい。力を込めなくても、力強い。君はまるでまほうつかい。


「赦さないから…」

「…うん」

「赦さないから…忘れないで」

「うん」

「忘れないでいてくれたら、幸せになんてならなかったら。そのときにはきっと、赦してあげる」


 わかっているよ。

 忘れないよ。

 きみをおいて、幸せになんかならないよ。


 ノノちゃんは微笑まない。ただただ、顔を顰めたとおもうと、赤ちゃんみたいに泣きだしてしまった。それを見て僕はとても胸が苦しくなった。

 いとおしい。いとおしい。

 僕は君がひどく、いとおしい。


 眩いくらいの青い光が、僕たちを内側から蝕んでいく。僕のポケットの中にあった、月の街移住証明書が、水中の光に照らされながら漂って、踊り消える。


 するとノノちゃんが、目尻に涙を溜めたままはにかんだ。だいすき。そう口が動いたけれど、もう声は聞こえない。僕たちはそのまま眩いばかりの光になって。手を繋いで水底をゆく。コバルトブルーの砂地の上を歩くと、やがて横穴があって、そこから光が差し込んでいた。影を作らない、あたたかな光。あたたかな感情。あたたかな生命。それは僕たちの知らない世界。けれど怖くないよ、君がいるもの。僕たちは手を繋いで、その光へとびこんでゆく。ひかって、ひかって、僕たちはそうして、ただの小さな、光の子どもになった。

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