わたしがネコになる日 後編
ララエの胸のドキドキと苦しさは眠る時にも収まらなかった。
夕食時、ララエを前にしたロウはやはり無表情だった。基本、ロウはララエに従うが関心がないのでララエを見ていない。だからロウの関心を引きたくてロウの腕に腕を絡めた。
大好きな青い瞳に何かしら色が見つかるかもしれない。無意識にそれを探してララエはロウを覗き込む。
どうしてそんな真似をしたのかララエは分からなかった。明確な考えがあったわけでない。するりと口をついて出た。
「みゃあ」
「………」
ほんの一瞬だけロウの空色の瞳に不可解な困惑を浮かべた気がしたが、ロウは無表情のままだった。
ララエは落胆を隠せず眉を下げた。
ララエは枕を抱き締めた。眠気は一向に襲ってこない。目を閉じれば子猫に優しく笑いかける美しいロウの横顔が浮かぶ。
ベッドの上でジタバタと暫く転げ回ったが、居ても立っても居られなくなって起き上がり部屋を飛び出した。
子猫達はあの時と同じ場所にいた。ロウの上着を下敷きにして3匹は寄り添って眠っていた。子猫達の眠りは深い。ララエが灰色の子猫を抱き上げても無防備に眠ったまま。
小さくて温かい。ララエはその体に頬ずりをした。
ララエはロウの上着に包んで3匹を抱き上げた。途中落としそうになったが自室まで誰に見つからずに運び込むことが出来た。
ベッドの上で眠る子猫達を眺める。ララエがつつくとむずがるように身動きした。驚いたのと可愛いのでララエの顔が輝いた。
子猫を近くで見たのは初めてだった。猫自体ララエはあまり見た事がない。
(なんて可愛いんだろう)
飽く事なく見ていると灰色の子が目を覚ました。ララエに向かって可愛い鳴き声を上げる。差し出したララエの手を小さなザラついた舌で舐められた時は本当に驚いた。
寝室にララエの笑い声と子猫の鳴き声が満ちる。
胸がどきどきしてふわふわとする。その気分のままララエは子猫の鼻にキスをした。
ロウみたいにキスを。
翌朝、ララエの寝室に侍女の悲鳴が響いた。
ララエは目を開けようとして開けられなかった。声も出ない。喉が締め付けられているようで、息が苦しくて頭もぼんやりしている。
「どうしたんだ!?」
「ちょっと、これを見て!普通じゃないわ!!
「!!なんでこんなに顔が腫れあがっているんだっ!?」
「ちょっと見て!猫!!子猫がいるわ!!」
「なんでこんな処に!?大変だっ、お嬢様は猫アレルギーだぞ!早く医者を呼べ!それと子猫はすぐに処分するんだ!!」
「こんな事がバレたら旦那様に殺されるわ」
「信じられない、何してくれてるのよ、もう!!」
「ああ、ロウ!これを今すぐ捨てて来てくれ」
騒がしい声と子猫の鳴き声。朦朧とするララエには少しも理解が出来なかった。すぐにララエの意識は闇に飲まれた。
夢を見た。
ララエは灰色の小さな子猫だった。ミズホの花に埋もれながら兄弟と沢山遊んだ。猫の身には何もかも新鮮だった。人には見ない視界。空の色も花の匂いを何もかも違う。
子猫の体はなんて軽いのだろう。ララエは軽々と飛び跳ねたり駆け回る。風に揺れるミズホの花が面白くて前足でじゃれついた。
不意に誰かがララエを抱き上げた。吃驚して爪を出すとその誰かは痛がった。
慌てて爪を引っ込めて見上げた先にはロウがいた。ロウがララエを抱き上げている。
嬉しくて思わず大きく鳴くとロウの目は孤を描く。
ララエは文字通りロウの腕の中で飛び跳ねた。驚いたロウがララエの体を捕まえる。声をあげてロウが笑った。ララエに向かって。それは想像したよりもずっと綺麗で、ずっとララエの心を一杯に満たした。
(ロウが笑った!!笑った!!!)
嬉しくて楽しくてララエは跳ね回った。
ずっと欲しかったモノ。泣いても強請っても命令しても手にする事が叶わなかった、ロウの笑顔。
ロウの手が優しくララエを撫でる。気持ち良さにゴロゴロと喉が鳴る。
笑うロウの頬にララエはキスをした。
ララエが起き上がれるようになった時、子猫達は何処にもいなかった。誰に聞いても子猫を知らないと言われた。
「子ネコは、どこ?」
ロウに尋ねてもロウは何も言わない。いつもの反応の筈がいつもよりずっと強い拒絶を感じるような気がした。今更なのに酷く辛かった。じんわりとララエの瞳に涙の膜が張ってもロウは無表情だった。
ロウは笑わない。ララエに向かっては絶対に。
猫だったら良かったとララエは思った。猫だったらロウは笑ってくれるのにと、ぼんやり考えた。
それから2週間、ララエは殆どを自室に籠って過ごし、ロウさえも部屋に入れなかった。
ララエは一心不乱に絵を描いた。商人に貰ったばかりの絵具は大いに役立った。出来上がったばかりの絵を見てララエは満足の息をつく。
そこに3匹の子猫達が描かれていた。一番手前の大きく描かれた灰色の子猫は丸い目を好奇心に輝かせて身を屈め、今にも絵から飛び出してきそうだった。後ろの2匹はじゃれあって転がっている。子猫の毛並みは美しくその質感は見る者にその柔らかさを想像させた。淡い光に包まれて躍動感がありながら、とても優しい絵だった。
その絵をララエは廊下に飾らせた。ララエの絵を素通りするロウの目に留まるのを願った。
ある日、絵の前で立ち止まるロウを見た。後姿しかララエには見えなかったからロウがどんな顔をしているかわからない。いつもの無表情かもしれないし、そうではないのかもしれない。
ロウは直ぐに立ち去ったけれど、それでもララエは嬉しかった。猫になったあの日のように嬉しかった。
誰かのために絵を描いたのは初めてだった。絵の右端によくよく見なければわからない、背景と同化した小さな文字が刻まれていた。
『ロウへ、わたしがネコになる日』
いつ来ても不気味な森だとカイトは思った。お使いを頼まれなければ決して来ないだろうと。
北の森は毒の森だ。鉱山開発のせいなのか、鉱物の毒が地脈を汚染して森を穢し毒に変えたと言われている。
こんな場所に住むのは余程の変人だ。カイトが生まれる前、20年以上近く昔にこの地方を救った英雄だと言われてもカイトに言わせれば変人だ。尊敬している領主補佐であるジャスの頼みでなければ近づきもしなかっただろう。
それ程深く森に入る前に壊れそうな小屋が見えて来た。憂鬱を振り切るようにカイトは急いだ。
小屋の扉をノックする。返事は聞こえないが構わず扉を開けた。一部屋だけのこじんまりとした部屋だ。部屋の隅にある使い古された寝台と机と一脚の椅子。それだけの何もない部屋。
カイトは背負った荷物を机に降ろした。部屋の主は直に戻るだろうと椅子に腰かけて待つ事にした。
いつの間には眠っていたカイトを起こす者がいる。肩を揺すられてカイトは顔を上げ、一瞬息を飲む。目の前には顔半分を包帯で覆われた男がいたからだ。
顔だけではない。服で覆われていない肌の上にも包帯が巻かれている。以前カイトが見た時よりも包帯に覆われる部分が広がっている。その理由をカイトは知っていた。
毒だ。鉱山の毒が体を蝕んでいる。男の肌は醜く爛れていた。顔の残りの半分が際立って美しいだけに一層その姿は悲惨だった。
「!ロウさんっ」
「もうすぐ日が傾く。早く帰った方がいい」
会ってそうそうロウは帰宅を急かした。カイトはむっとした。ロウの素っ気無いのは今に始まった事ではなかった。むしろ今は大分扱いがいい。ジャスと初めてここを訪れた時はカイトの存在を綺麗に無視したロウだった。英雄に憧れを抱いていたカイトの憤怒はもの凄く深かった。
「帰るけど、それはちょっと酷くない?」
「酷いのはジャスだろう。一人でお前を寄越すなんて」
「ジャスさんは今王都に行ってるの。一か月は帰って来れないんだよ。これ、ジャスさんから頼まれてた食料だよ」
腹立たしい気持ちで荷物を叩くとロウは包帯に覆われていない方の眉を潜めた。
「俺には構うなと言ってあるんだが」
カイトはその言葉に怒りよりも悲しみを感じた。詳しい事情を知らないがジャスがロウを決して見捨てない事を知っていた。そしてロウは世捨て人のようにここに暮らし、緩慢な自殺を望んでいた。ここ数年ロウの体調は急激に悪化している。
カイトはロウに会いに行く度に憂鬱になる。最近ロウはだんだん穏やかになる。それに比例してロウの死に対する憧憬や死の影は深くなるばかりだった。
カイトが唇を噛む。ジャスがいくら説得をしてもロウは森を離れたがらない。カイトは怖くなる。次来た時には今度こそロウはこの世にいないかもしれない。
この森の何処にロウの強い執着があるのだろうか。ここは人の住める森でない。反乱の直ぐ後にロウは一人ここに住むようになり、人と交わらなくなった。かつての英雄は美しく強い男だったと聞いた。大抵の子供達は彼に憧れて育つ。今は見る影もない。
「………もう、帰るよ」
立ち上がった時に、荷物の中に入れておいた絵を思い出した。そんなに大きな絵ではない。本物でもなく安いレプリカだが、以前ロウが興味を示していたものだから覚えていた。町でみかけて何となく買ってしまったのだ。
取り出した絵をロウに見せた。
「これ、本物じゃないけど。ロウさんの家殺風景だから」
作者不詳のその画家はとても人気が高い。本物は吃驚する程の高値で売買されるから、到底庶民には手が出ないのでレプリカがこうして出回るようになった。
この画家で特に人気が高いのが3匹の子猫が描かれたこの絵だった。レプリカだから本物には敵わないだろうが、十分に良い絵だと思う。
窺ったロウは食い入るように絵を見ていた。驚愕に近い反応をロウはしている。絵を持つ手に不自然に力が入っていた。一言もしゃべらないが、青い瞳はロウの強い感情を宿して輝いている。暫くカイトはその美しさに見惚れた。
どうやら不満はないようだとカイトは胸を撫でおろす。少しばかり誇らしい気持ちになった。
「じゃ、帰るよ」
声をかけてもロウは絵から目を離さなかったが、カイトが出て行く寸前に声がかかった。
「カイト………気を付けて帰れ」
「う、うんっ」
笑っていた?ロウが?あの気難しいロウが?
小屋を出て数歩の処でカイトは立ち止った。
確かにロウの口角が上がっていた。ロウが笑った処など見た事のないカイトは信じられなくて思わず後ろを振り返る。小屋があるだけで、中にいるロウが見える筈もない。
確かめに戻ろうかとカイトは本気で思い悩んだが、再び歩き出した。
ロウとの距離感を図るのは至難の業だ。嫌われるのは何だか嫌だ。ロウは不思議な男だった。包帯だらけの怪物のように醜い姿でもカイトはロウに死んで欲しくないと思う程にはロウを気にしていたし、笑ってくれれば嬉しいと思う程に慕っていた。
あの絵に強い思い入れがあるんだろうか?今度聞いたら教えてくれるだろうか?
ここからの帰りにこんなに気分が良くなる事なんて滅多にない。カイトは弾むような足取りで森を抜けた。
夕日に照らされた森が今は不思議と怖くない。
いつかあの絵の本物をロウに見せれる日が来ればいいと思った。
彼女の罪と彼の過ち たみ @tami2yomu
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