きらめく空気 かがやきの森
いざよい堂書店の閉店時間は、チェロさんが眠くなってきたら。
チェロさんは、十八時に夕ごはんを食べて、二十時にお風呂に入る。もちろんそのあいだ、お客さまが来るかもしれないから、ぼくとは交代しながらだ。
ぼくの家は、森を出た町の、すみっこにある小さなアパート。
仕事が終わったらそこまで歩いて帰るので、最初のころは「お風呂だけは家で入ります」と断っていたのだけれど、結局家に帰ってからわざわざお湯をはって入るよりも、チェロさんのお言葉に甘えるほうがいいかもしれないと心変わりしたのだ。
そんなわけで、この頃はしっかりと、いざよい堂でごはんとお風呂をいただいてから、家に帰っている。
たまにチェロさんがさらに夜更かしをしたくなったときは、さすがに帰りが遅くなるので、いざよい堂の住まいのほうに泊まらせてもらっている。
一回だけ、「しいらくんもここに住みますか、ぼくといっしょに」と誘われたことがある。
このいざよい堂には、チェロさんひとりで住んでいる。
なので、あまっている部屋がいくつかあるそうだ。
でも、そこまでチェロさんにお世話になるわけにはいかない。
ぼくがいっしょに住んだことで、ご迷惑になることがあるかもしれないと思うと、申し訳ない。
だから丁重にお断りしたら、「じゃあ、きみのほうが心変わりしたら、ぜひ申し出てくださいね」といってくれた。
チェロさんは、心変わりする予定はないのだろうか。
だとすれば、優しい。
チェロさんは、本当に優しいんだ。
掃除に関しては、几帳面すぎて、たまに面倒くさいと思うことがあるけれど。
「しいらくん、ちょっとお願いしたいことがあるのですけれど」
「はい。なんですか」
とっくにお風呂から出たチェロさんが、かしこまったようにいってきた。
どうしたのだろう。
こんなに慎重にお願い事をしてくるチェロさんは珍しい。
いつも、気さくにしているチェロさんなのに。
今日のチェロさんが夜更かしモードだったのは、このお願いのためだったようだ。
まだまだ、店は開けるようす。
今日は晴れだったので、夜空もきれいだ。
星がビーズのように散らばって、きらきらと光っている。
「えっとですね。ここから少し歩いたところに、発光するきのこが生えているところがあるんです。シイノトモシビタケという、美しいきのこです。それがそろそろ見れるころなので……写真を撮って来てもらえませんか」
「チェロさんは行かないんですか」
「ぼくは、待っています。店番をしなくてはいけませんから」
「留守番なら、ぼくがしますよ」
「いえ、しいらくんにお願いしたいんです。ぼくは、その……夜食のバナナケーキを焼きながら待っていますから」
「……わかりました。何か事情があるんですね」
すると、チェロさんがあからさまにビクッと肩を震わせた。
なんてわかりやすい、トナカイだろう。
「じゃあ、行ってきます」
「すみません。よろしくお願いします」
ぼくはチェロさんに借りた一眼レフカメラを持って、店を出た。
チェロさんの手書きの地図を頼りに、いざよいの森を歩いていく。
時間は、二十四時。
すっかり夜のまんなかだ。
しかし、いざよいの森に危険なものは何もない。
みんながみんな、お互いを思いやり生活をしている。
なので、ぼくは安心して夜道を歩く。
ゆいいつの心配ごとといえば、おばけに遭遇しないことを願うだけ、なんて子どもみたいなことは、思ってもいわないでおくのが大人だ。
もうぼくも十四歳。
おばけだなんて、言葉にするのも恥ずかしい年頃だ。
足元には夜の闇がたゆたい、行く先はまったく見えなくなっている。
チェロさんは、カメラといっしょにランプも借してくれた。
煌々と照らされた森の道を、ぼくはゆったりと歩いていく。
ほうほう、とフクロウの声がする。
ぼくのなかでは、フクロウといえばホルン先生なのだけど、これは先生とは違う声だ。別のフクロウだろう。
地図によると、いざよい堂書店から西に歩いて、三つめの切り株を左。
それからずっと歩いていくと、大きく開けたところに出る。
そこにシイノトモシビタケが生えているらしい。
どんなふうに光るんだろう。
「灯火」というくらいなのだから、ぽうっと蝋燭みたいに光るのかな。
この、ランプみたいに。
考え事をしているうちに、三つ目の切り株が現れた。
これを左。それから、ずっと歩いた。
しかし、さっきから気になることがある。
たまに、足音が聞こえるのだ。
誰だろう。きつねかたぬき、だろうか。
かれらは、暗闇のなかにひそんで、ひとを驚かすのが大好きなんだ。
だったら、びくびくする必要なんてない。さっさと驚かせておくれよ。
だんだんと、心細くなってくる。
ランプの灯りが、ゆらゆらとゆれて、辺りを炎のようにゆらめかせた。
ぞくり、と背筋が震える。
なぜだか、帰りたくなってくる。
いやだな、ぼくはもう十四歳なのに、おばけなんかがこわいだなんて、チェロさんに笑われてしまう。
「おい」
「うわあああああ」
ついに、ぼくはとても情けない声をあげてしまった。
逃げようとしたぼくの手を、相手がぎゅっとつかんできたので、ぼくはますます叫び声をあらげてしまう。
とても恥ずかしいのだけれど、今だけはどうやっても恐怖にとらわれてしまっていて、どうにも冷静になれない。
はっきりいうと、ぼくは、こわいものが苦手なんだ。
「落ちつけって」
「えっ、きみは」
「まったく。こんな時間になにやってるんだ」
ようやく、それが聞き覚えのある声だとわかった。
とりおくん、とりおくんだ。
かれは懐中電灯を片手に、中腰のぼくを、あきれた顔で見下ろしている。
「と、とりおくん。きみこそ何をしているの、こんなところで」
「こんなところで悪かったね。このへんは、おれんちの近くだよ」
「え」
「あそこだよ、おれの家」
とりおくんは、少し離れたところを照らした。
夜のなかに、うっすらとおしゃれな平屋が見える。
こじんまりとしているけれど、モダンな造りだ。
暗がりのなか、小さな庭もあるらしいのもわかった。
あれが、とりおくんの家。
ぼくはチェロさんが書いてくれた地図を見つめた。
シイノトモシビタケがあるのは、確かに、あのあたりだ。
とりおくんが、ぼくの手元に気づいた。
ぼくが持っていた地図をとりあげ、まじまじと観察しはじめる。
「これ、チェロさんが書いたやつだ」
「あ、うん、まあ」
「なるほど、きみはシイノトモシビタケを見に来たんだ。なんで、きみひとりなの。チェロさんはどうしたの」
「いや、その」
「そういうことか。避けられているんだね、おれは」
とりおくんが、目を伏せた。
ランプや懐中電灯の明かりが灯るなか、夜のとばりを降ろすような長いまつげが、とりおくんの頬にかげを落とす。
ぼくは何といったらいいのか、わからなかった。
チェロさんが、とりおくんを避けるためにぼくをひとりでここに来させたなら、ぼくはどうするべきなんだろう。
とりおくんを励ますのか、チェロさんを軽蔑するのか。あるいは。
わからない。
だって、ぼくにとって恋なんていうのは、小説でしか読んだことのない現実的でない世界だから。
「とりおくん。その、ぼく」
「チェロさんは、なんていって、きみをここにやったの」
「えっと、シイノトモシビタケという美しいきのこがあるから、写真を撮って来てもらえないか、って」
とりおくんは黙って、うつむいていた。
懐中電灯で照らした道を、砂を鳴らして歩きながら、じっとぼくの話を聞いていた。
ぼくが話しおえると、ちょうどとりおくんの家の前に着いた。
シイノトモシビタケは見当たらない。
そう思ったら、とりおくんがぼくの手を取った。
ぐいぐいと引っぱられ、ぼくはどこかに連れて行かれる。
「ここ」といわれて手を離されたのは、とりおくんの家の庭だった。
エメラルド色に輝く灯りが、目にぱっと飛びこんでくる。
近づいてみると、それはたしかに、きのこだった。
地面に、星が輝いている。その幻想的な風景に、ぼくは目を奪われた。
「これは、まさしく地面に広がる星空だ」
「そうか」
とりおくんの顔は見えない。シイノトモシビタケでも、どこでもない、遠くを見ている。
ぼくに、背をむけて。
「チェロさんは、これを見て、きみと同じようなことをいっていたよ。きみたち、仲がいいんだね」
「……とりおくんも、チェロさんといっしょに、これを見たんだね」
「ああ。でも、それからはいっしょに見なくなった」
「どうして」
「おれが、チェロさんに、好きですって、いったから」
それは溶けきった蝋燭に灯った、最後の炎のような、弱弱しい声だった。
はかない炎を消さぬような夜風が吹いて、あたりの木々をさやさやとゆらした。
ぼくは黙って、カメラにシイノトモシビタケをおさめた。
遠くからおさめたそれは、星座のように画面を華やかに彩る。
近くでおさめてみれば、今度は夜を明るく照らす灯火となった。
とりおくんは、ぼくに「こうやって撮れ」だとか「もっと角度を考えて撮れ」だとかうるさかった。
でも、とりおくんのいう通りに撮ったら、たしかにいい写真が撮れた。
「あのさ」
「なんだよ」
「ぼくは、チェロさんになんていえばいいだろう。もっと、きみのことを伝えなくてもいいのかな」
「ばかか、何もいわなくていいよ」
「でも、チェロさんはひどくないかな。きみに対して」
「……そういうもんだろ。気持ちってものはさ」
「そう、なのかな」
「とにかく、きみはそのままでいればいい。おれも、このままでいるから」
ぼくは、とりおくんにお礼をいって、いざよい堂書店への道を戻っていく。
道中、ぼくはいろいろなことを考えた。
とりおくんのこと、チェロさんのこと。
ぼくはチェロさんが好きだ。尊敬している。
でも、とりおくんに対しての態度は、ちょっと優しくないんじゃないかと思う。
チェロさんは、恋愛が苦手なんだ。
でも、ぼくはもっと恋愛のことを知らない。
そんなぼくにできることは、あまりないのかもしれない。
でも、黙ってじっとしているのは、なんだかいやだ。
ぼくの進む道には、灯火が必要だ。
明るく、ぼくの行き先を照らしてくれる、道しるべが。
とりおくんと、チェロさんのためにも。
*
いざよい堂書店では、ほとんどの時間、なにかしらのかおりが漂っている。
朝は、パンの焼けるにおい、香ばしいベーコンのにおり、ふわりとした華やかな紅茶のかおり。
昼過ぎは、甘いアップルパイのにおい、ぴりりとしたジンジャークッキーのにおい、じゅわりとジューシーなハンバーグのにおい。
夜は、ニオイバンマツリの澄んだ甘いかおり。
そして、チェロさんが開く、古本の懐かしいにおい。
最近、ぼくは恋について考えている。
とりおくんのチェロさんへの想いを知ってから、そわそわと落ちつかない。
ぼくは、恋のことを本のなかでしか知らない。
とりおくんは、ぼくが読んだ本のとおりの恋をしているのだろうか。
いや、本のとおりの恋愛だったら、誰だってうまくいくに決まっている。
とりおくんは、チェロさんに想いを伝えてから、避けられているらしい。
それでも、とりおくんは「おれはこのままでいる」と、チェロさんへの想いは変わらないことを、ぼくに教えてくれた。
ぼくは、そんなとりおくんを尊敬する。
ぼくはまだ、誰かを好きになったことはない。
でも、するなら、とりおくんのような恋愛をしたいと思う。
それにしても、チェロさんはちょっと優しくないんじゃないかな。
いくら、とりおくんの想いに応えられないとはいえ、避けるだなんて、あまりにも残酷だ。
たぶん、いろいろなことを考えてしまって、避けるしかなくなってしまったのだとは思うけれど。
四十歳で、トナカイで、オスのチェロさんにとって、十四歳で、人間の、男であるとりおくんは、あまりにも違いすぎるんだと思う。
それでも、伝えるべきことはちゃんと伝えたほうがいいに決まってる。
ぼくにできることがあるなら、何でもやりたいけれど、何があるだろう。
「しいらくん。いちごのサンドイッチを作りました。いっしょに食べませんか」
編みあげトレイに、ぼくとチェロさん、ふたりぶんの紅茶とサンドイッチが乗っている。
ぼくはすぐにうなずいて、店内のカフェスペースに移動する。
いざよい堂書店は、お客さまがほとんど来ないにも関わらず、こうして暇をもてあました、店員のスイーツタイムがたくさんもうけられているので、暇を感じない。
チェロさんのおかげで毎日楽しい。
本もたくさん読めるし、とてもいい職場だ。
これで、お給料もくれるんだから、チェロさんには感謝しかない。
だから、ぼくはチェロさんには幸せになってほしいと思っているんだ。
ぼくはずっと気になっていた。
チェロさんがとりおくんをきっぱりと拒まないのは、何か理由があるんじゃないかって。
本当は好きだけど、さまざまな理由があって、受け入れられないんじゃないかって。
だったら、気にしなくていいじゃない、ってぼくは背中を押してあげたい。
性別だとか、年齢だとか、種族だとか、そんなのはいいじゃない。
お互いがお互いに、すきあっているなら、ぼくは問題ないと思う。
少なくとも、ぼくが読んできた恋愛小説ではそうだった。
うん。そうだ。だからチェロさんに、はっきりそう伝えよう。
ぼくは、ふたりのこと、応援しますよ、って。
「しいらくん。今日はずっと、ぼーっとしてますけど、何かありましたか。朝のトースト、少し焼きすぎましたか?」
「あ、いえ」
「何でもいってくださいね。ぼくはきみの上司なんですから。ぼくにできることなら、何でもやりますよ。きみのためなら、なんだってします」
「そんな。ぼくのことよりも……」
今朝、拭きあげたばかりの窓。
そこに、ミルク色の髪が映った。
それは、ぱっと風に吹かれたかと思うと、一瞬で消えてしまう。
続いて、誰かがどこかへと走り去っていく音が聞こえた。
あれは、とりおくんだ。今、そこにいたんだ。
ぼくはあわてて立ちあがると、ドアに向かって走り出そうとした。
その時、ブチっという嫌な音がした。
何かが切れたような感覚とともに、激しい痛みが身体中を駆けぬけていく。
そのまま、ぼくは立てなくなってしまった。
がくんと床にひざをつくと、チェロさんがあわてて駆け寄ってきた。
「しいらくん、どうしたんですか」
「チェロさん、足が……痛いです」
「すぐに、ホルン先生を呼びます」
ホルン先生は、いざよいの森で一番賢いフクロウだ。
この森のことを何でも知っている、おしゃべり湖の話し相手。
いざよいの森の住人の病気や、ケガの診察もしてくれるのだ。
チェロさんが連絡したら、ホルン先生は文字通り、すぐに飛んできてくれた。
ぼくのふくらはぎを見て、「ふむ」とうなずく。
「筋肉が断裂しておる。肉ばなれ、間違いない。急に走ろうとしたり、ジャンプしたりしたのだろうな」
ホルン先生の見立てどおりで、ぼくは恥ずかしくなったけれど、素直に「はい」と答えた。
「きちんと筋肉を使っていないと、ちょっとしたことで肉ばなれをするようになる。次からは、準備運動を必ずしてから、走りだすように」
ぼくはあの時、とっても急いでいたんだ。
なのに、準備運動をしなければならないなんて、不便すぎるよ。
現実的でなくない?
なんていっても、ホルン先生が取りあってくれないのはわかっているので、ぼくは黙って首で返事をした。
「走ったり、ジャンプしたりするときは、ストレッチ。そうすることで、筋肉が柔らかくなるのである。ケガを防ぐため。必ずするように」
「はあ……」
ケガをした直後、すぐにチェロさんが氷を作って患部を冷やしてくれていたのがよかったらしい。
すぐに治るとはいわれたけれど、今日から二、三週間は患部を固定して、安静にしてなければならないみたい。
ホルン先生は、肉ばなれしたぼくの足を、テーピングと包帯でがっちりと固定して、さっさと帰っていった。
おしゃべり湖の相手があるから、といい残して。
「しいらくん。今日から、安静ですね」
「すみません。ご迷惑おかけします……」
「いえ、構いませんよ。でも、家でひとりだと、食事とか大変でしょう。うちに二、三週間泊まりませんか? 人が増えるぶん、ぼくもご飯をあまらせなくてすみますし」
「えっ、とても助かりますけど、いいんですかね」
「好きで申し出ていることなので、気にしなくていいんですよ」
たしかに、二、三週間、コンビニごはんでなくなるのは、とても嬉しい。
チェロさんのごはんはおいしいし、栄養面もしっかりしている。
でも、あまり動けないぼくのせいで、迷惑をかけるようなことがあったら、嫌だしなあ。
「いえ、やっぱり帰ります。ぼく、家の冷蔵庫に作りおきのおかずがいくつかありますから。それを食べちゃわないといけないんで」
「……そうですか。では、何か必要なものがあればいってくださいね。家に届けますから」
「チェロさん。何から何まですみません。助かります」
「いえいえ。それよりも、しいらくんはあの時、なぜ急に走りだしたんですか。何かを見つけたようでしたけれど」
「とりおくんがいたんです」
チェロさんは、わずかに息をのむと、何かをつぶやいた。
何といったのかは、ぼくには聞き取れなかった。
でも、とても悲しそうな響きだった。
「とりおくん。何か用事だったのかもしれません。また来るかも」
「そうですね」
誰もいないドアを見つめて、チェロさんがいった。
今日、いざよい堂書店のベルは、一度も鳴っていない。
「……しいらくん、痛みませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか。なら、よかった」
本当は、少しずきずきと痛む。
でも、痛いとはいわない。
包帯から、薬とココナッツに似たにおいがする。
新しい、におい。知らないにおいは、なんだか落ち着かない。
とりおくんの足音は、もう聞こえない。
でも、今のぼくでは追いかけることもできない。
とりおくん、また来てくれるかな。
それからのぼくは、まだまだ、ついていないことが続いた。
大好きな『七色キャンディ』を食べようとしたら、喉につまらせそうになったり。
貼ろうとした『ななかまど』の切手をやぶいてしまったり。
『世界の七不思議』という本で、うっかり指を切ってしまったり。
「アンラッキーデーなんですかね……今日はおとなしくしてろってことかなあ」
固定された足をさすりながらぼくがいうと、チェロさんが「アンラッキーセブンですね」と苦笑した。
「アンラッキーセブンって?」
「しいらくん。七色キャンディ、ななかまど、世界の七不思議。ぜんぶ『なな』にまつわるもので、ついていないことが起こっていませんか?」
「ああ、そういえば!」
ついさっきも、近くの本を取ろうとして手を伸ばしたとき、つい指で押してしまったんだ。
それで『ななめ』になった本をむりやり掴もうとして、体勢をくずし、肉ばなれした足をかばったら、肩をつっちゃったんだよね。
本当に今日は、さんざんだよ。
「なーんて、これは考えすぎですかね」
「いえいえ、油断は禁物」
ぼくを気づかうように、チェロさんは『筋肉マニュアル』という本を開いた。
「もむのは厳禁。つったところを伸ばしたり、さすったりするのがいいそうですよ」
「運動不足、ですかね」
「あとは、水分不足。本を取りたいのなら、ぼくにいってくださいね」
「そこまで甘えるわけには……」
「いいから。今だけは、甘えてください。さあ、イレブンジズにしましょうか」
イレブンジズというのは、ティータイムのこと。
十一時ごろに、仕事の気分転換にするものらしい。
ティータイムには、時間帯ごとにそれぞれの名前がある。
チェロさんに教えてもらったことだ。
ふわり、と華やかな香りがただよう。
ばらの香りだ。
チェロさんが、ローズティーを淹れてくれている。
そこにローズジャムを加えると、さらに胸のなかがあたたかいもので満ちていく。
「ピンクのばらには、幸いという意味があります。今日のしいらくんに、欠かせないものでしょう」
「ふふ、たしかに」
「幸せにつつまれながら、読書でもしましょう」
チェロさんが『筋肉マニュアル』を開きながら、カップを口もとに傾けた。
「そういえばチェロさんにしては、珍しい本を置いたんですね。うちは児童書や絵本が主じゃないですか。あとは、グルメや旅行、写真集と、チェロさんの好みの本ばかり。珍しいじゃないですか」
「ぼくがあまり読まないジャンルも置いたほうが、きみも飽きないでしょう」
そういって、チェロさんは幸せの香りをさせながら笑った。
「お客さまと過ごすより、きみと過ごす時間のほうが長いのだし、ね」
「……そう、ですね」
「きみともっと話がしたいですね。いい機会だ、きみの考えていることをぼくにも教えてくれませんか?」
「ぼくの、考えていること……ですか?」
「ええ。きみがふだん、何を考えて過ごしているのか、とか」
最近のぼくは、とりおくんのことばっかりだ。
あとは、チェロさんは恋愛に臆病だなあ、とかかな。
シイノトモシビタケの灯りのなかで、とりおくんはチェロさんに告白をした。
でも、チェロさんは返事をせずに逃げてばかりいる。
ぼくはチェロさんに、とりおくんのことをもっと考えてほしかった。
とりおくんは、チェロさんが四十歳で、トナカイで、オスだから、告白したんじゃない。
チェロさんがチェロさんだから、好きになったんだ。
チェロさんはそれをわかっていない。
ぼくは、誰かに恋をしたことはないけれど、恋愛小説ならたくさん読んでいる。
だから、わかるんだ。
こんなぼくでもわかるのに、チェロさんはどうしてとりおくんの気持ちがわからないんだろう。
ぼくはローズジャムの入った紅茶を飲むと、そっと口を開いた。
「あの、とりおくんのこと、もっと考えてあげてくれませんか?」
「……しいらくん」
チェロさんは、辛そうに答えてくれた。
「ぼくは、とりおくんと恋人になることはありません。ぼくには、他に好きな人がいます」
知らなかった。
チェロさん、好きな人がいたんだ。
だから、とりおくんの気持ちに応えられなかったんだ。
恋をしているチェロさんだから、拒んだときのとりおくんの気持ちが、痛いほどわかってしまう。
とりおくんのために、チェロさんは逃げ続けていたんだ。
「でも、これもいいわけですね。ぼくは、自分が拒まれたときのことを想像して、怖くなっているだけ。自分ととりおくんを重ねて、辛くなっているだけなんです」
バラの紅茶を飲みながら、チェロさんは悲しそうに目を細めた。
カップからのぼる湯気がゆらゆらと、ぼくとチェロさんのあいだをへだてる。
ぼくには、まだ恋がわからない。
でも、チェロさんの気持ちが痛いほどにわかる。
だからいつか、ぼくも恋をしてみたい。
チェロさんやとりおくんのように。
誰かを好きになるって、どんな気持ちだろう。
ぼくも知りたい。
恋を、してみたい。
ばらの紅茶が、そのかおりをぼくに伝える。
なんて甘くて、酸っぱいんだろう。
いざよい堂書店の十二ヶ月 中靍 水雲 @iwashiwaiwai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。いざよい堂書店の十二ヶ月の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。