芽吹き、ぼくたちの気づき
いざよいの森の湖は、とてもおしゃべりだ。
夜になると、湖に月を映して、たくさんのことを教えてくれる。
湖に質問をして、月がゆらりと揺れたら「その通り」。
月が水面から、ぽとりと落ちたら、「そうじゃない」。
森で一番賢いふくろうのホルン先生も「湖のいうことは絶対なのである」って、自分がえらいみたいに、いつもいっている。
いつかぼくも困ったことができたら、湖に聞きに行きたいと思っているのだけれど、なんせ湖は、森の一番奥にある。
しかも、そこまでの道のりがとても大変らしい。
なので、困ったことがあっても、たいていはみんな、ホルン先生のもとへ行く。
おしゃべり湖、話し相手に困っていないかな。
ぼく、教えてもらいたいことがあるんだ。
でも今は、誰にもひみつ。
ホルン先生にも、おしゃべり湖にも、ぼくのひみつは教えられない。
*
春のいざよいの森は、雪解けとともにたくさんの落とし物が顔を出す。
冬のあいだは雪に隠れて見つからなかったものも、春になり、草花が芽吹いてくるころ、ひょっこりと現れる。
あたたかな太陽に照らされて、「ここだよ、早く見つけて」と、持ち主に呼びかけるように。
ぼくがそれを見つけたのは、町へ買い出しに行った帰り道だった。
大きな紙ぶくろと麻のトートバッグをぱんぱんにして、ぼくはよろよろと歩いていた。
何しろ、朝、いざよい堂書店に出勤したとたんに、チェロさんから「しいらくん。町に大きな雑貨屋ができたらしいです」と嬉しそうにいわれたのだ。
恐る恐る「それで……?」と、たずねると、チェロさんは満面の笑みで答えた。
「よさそうなものがあったら、買って来てほしいんです。希望しているものを、メモにまとめておきました。そうだ、あれもほしいな。あ、あと……」
チェロさんは、新緑色のインクをふくませたガラスペンを手に取った。
クラフトのメモ用紙に、さらさらとなにかを書いていく。
「ラタンのお皿もついでに……」
「ぼく、今日食材の買い出し係なんですけど」
「ええ。なのでついでに、お願いします」
トナカイのチェロさんは、にこにことメモ用紙を渡してきた。
うん、これはまったく気にしていないようだな。
ぼくはもう、何もいうまいと、メモ用紙を受け取った。
チェロさんはトナカイだから、そうとうな力持ち。
買い出しのときも、大きなお米の袋を平気な顔をして持って帰ってきたもの。
サンタクロースが運ぶ大量の荷物を乗せたソリを引けるほどに、トナカイは怪力ってこと。
だから、気づいていないんだ。
自分の力持ちが特別だってこと。
チェロさんが書いたメモを見て、注文品の多さに、ぼくは顔を引きつらせた。
「このシルバーのランタン、あたたかくなってくる季節なので、夜更かしも増えるでしょうから、とってもほしいです。なので、大きめのキャンドルもほしいですね、香りつきだと、なおいいです。このモダンなデザインのバスケットもひとつお願いします。あとは美濃焼のキャニスターに、ラタンのボックスに……」
「ああ、わかりました、わかりました」
書いたメモを再び唱えだしたチェロさんをあわてて止める。
チェロさんは読んでいる最中の本にとても影響されやすく、たまにこうして謎の物欲を発揮することがあるんだ。
今回は、おおかた雑貨の描写がおしゃれな小説でも読んだんだろうな。
こうして、いざよい堂書店は本とものにあふれていく。
ものの巣窟みたいになって、ごちゃごちゃの店内になっていかれたら、また掃除が大変になっちゃうよ。
チェロさんは、掃除にうるさい。
「ここの掃除、もう一度お願いします」なんていわれるのはしょっちゅうだ。
店内のレイアウトはいじってもいいっていわれているから、また掃除のしやすいように考えていかなくちゃ。
倉庫のほうも見ておこう。
こうした経緯で、ぼくはチェロさんのわがままを聞き入れて、町の雑貨屋へとくりだした。
とうぜん、雑貨と食材で、帰りは大荷物。
ずっしりとした重さにふり回されながら、ぼくはよろよろと町を出て、いざよいの森へともどった。
雪解けしかけた森を、ざくざくと歩いていく。
森の入り口から、いざよい堂書店へはおよそ十五分かかる。
大荷物を持ってだと、もう少しかかるかな。
コナラの木のむれから、白く咲きみだれるニリンソウ畑を通りぬけていく。
サクサク、サクサクという音が聞こえてくる。
「ほっほう」という、笛のような声も。
ホルン先生だ。
黄色いヘビイチゴの花たちが咲いたむこう側で、シャベルを動かしている。
サクサク、というのは雪を掘っている音だったんだ。
ホルン先生は、ふくろうだ。
森一番の物知りで、ぎょろりとした大きな目は、いざよいの森のすべてを見通している。
いつもは、いざよいの森の一番奥にいる、おしゃべり湖のおしゃべり相手をしているらしいけれど、こんな森の入り口近くで会うなんて、珍しいなあ。
「ホルン先生、何してるんですか」
ぼくがたずねると、ホルン先生はシャベルに足をかけ、一息ついた。
「ごらんなさい。わたしは落とし物を掘り起こしているのです。何しろ、冬開けは落とし物がよく見つかりますから。大変、疲れます」
「何かありましたか」
「ええ。山のように。掘っては、持ち主のもとへ返しています。ですが、問題が」
ホルン先生は、目ぢからのある瞳を悲しそうに細めた。
「わたしは大変、物知りです。たいていのものはすぐに持ち主のもとへ返せます。大変、博識なわたしですからね。ですが、これ、これが問題です。こればっかりは、わからない。なので今、おしゃべりな湖に聞きに行こうとしていたところですよ」
ホルン先生が差しだしたのは、手のひらほどの大きさの、雪にまみれたぬいぐるみだった。
今は真っ白に冷え切ってしまっているけれど、もともとはふかふかのぬいぐるみだったんだろう。
ぼくは、それをじっと見つめた。
気のせいかな。
そのぬいぐるみに見覚えがあった。
冬のあいだずっと雪に埋もれて、かわいそうなすがたになってしまったぬいぐるみ。
でももしかしたら、洗ってふかふかのすがたにもどしてあげたら、この子のことを思い出せるかもしれない。
「ホルン先生。ぼく、この子と知りあいかもしれません。あずからせてもらえませんか」
「おや、本当ですか。なんと幸運なぬいぐるみでしょう。では、よろしくお願いいたします。チェロ氏にも、よろしくお伝えください」
「ええ。まかせてください」
ぼくはホルン先生から、ぬいぐるみをあずかった。
タオルハンカチにくるんで、麻のトートバッグにそっとしまった。
大荷物を背負って、急いで店に帰る。
からんころん、と音を鳴らしてなかに入ると、大急ぎで収穫品を片づけた。
いよいよ、洗面所でぬいぐるみを取りだしたところで、チェロさんが「おや」とぼくの手元をのぞきこんできた。
「しいらくん。ずいぶんと可愛らしいお客さまを連れこみましたねえ」
「そうなんです。でも、今大変なことに気づきました。ぼく、ぬいぐるみのお風呂の入れ方、知りません」
「ふふ。なら、うってつけの本がありますよ」
チェロさんは店の真ん中の棚から、一冊の本を取りだした。
表紙には『あなたが愛するぬいぐるみのための愛しかたBOOK』と書かれている。
チェロさんは楽器を奏でるように、ぺらぺらとページをめくっていった。
「ああ、ありました。『ぬいぐるみのためのお風呂の入れ方』。まず、必要なもの。中性洗剤、洗濯おけ、タオル……」
チェロさんが読みあげていくものを、ぼくはあわててそろえにいく。
買ったばかりのラタンの皿の上に、麻の布を敷いて、ぬいぐるみをそっと寝かせる。
そして、その周りに必要なものを置いていった。
「じゃあ、洗っていきましょう。洗濯おけにぬるま湯を入れて、洗剤を少したらして、溶かしていく。そして、優しく洗います」
真夜中にやっているラジオのパーソナリティのようなチェロさんの朗読を聞きながら、ぼくはていねいに、ていねいにぬいぐるみを洗っていった。
じょじょにきれいになっていく、ぬいぐるみ。
洗うたびに、きらきらと輝きを取りもどしていく、ぬいぐるみ。
同時に、ぼくの記憶も鮮明によみがえっていく。
すぐに、ぼくは、その子のことを思い出した。
「この子、ぼくが子どものころになくした、ハルくんです」
春のぬくもりがこもった土色の、猫のぬいぐるみ。
ハル。
幼いころにいざよいの森に遊びに来て、なくしてしまっていた、ぼくのぬいぐるみ。
ようやく再会できた。
「ずいぶんと、雪のなかで冬眠していたようですねえ」
「うれしいです。また、この子に会えて」
「風通しのいい日陰に干して、春の森のにおいを堪能させてあげましょう」
チェロさんがラタンのハンガーラックを、裏のハーブ畑に置いてくれた。
そこにハルを干してやると、土色のからだをゆらして、嬉しそうにくるくると回っている。
「まさか、お客さまが来ないからといって、ぬいぐるみまで呼んでくるとは驚きです。カフェスペースで、ぬいぐるみ病院でも開きますか?」
その、長いトナカイの口元に手を当てて、チェロさんが笑った。
からかっているのか、本気なのかわからないところが、どきっとするよ。
森には落とし物が多いから、一瞬、それもいいかも、と思ってしまったんだ。
「ハルが嫉妬するから、止めておきます」
「そうですね。また、きみのもとを逃げ出して、冬眠してしまうかも知れませんから」
「ぼくたちは、けんか別れしたわけじゃありませんよ」
「おや、お湯が沸いたようですね。ランチを作ってありますから、手を洗って来てください。きみの手、冬の雪のにおいがします。ハルさんが嫉妬してしまいますよ」
そういえば、ハルを洗っているあいだに、もうお昼を過ぎてしまったようだ。
チェロさんはずっと、ぼくとハルに付き合ってくれていたらしい。
風にゆられて、くるくると回っているハルに手をふって、ぼくは店へと戻った。
*
黄金色の朝日が、いざよいの森を照らしている。
白んだ山並みから、じょじょにのぞく太陽の光が森を鮮やかに染めていくと、ひとたびいざよいの森は麦畑のように輝く。
森の空気をいっぱいに吸いこんで、ぼくはふかふかの地面をしゃかしゃかと踏んでいく。
今日はいざよい堂書店に、お客さまがくるらしい。
なんと、三日ぶりのお客さま。
だから、チェロさんが特別なハーブティーを淹れてさしあげたいといったので、ぼくは店の裏のハーブ畑にやってきた。
チェロさんが育てているミントを摘んで、籐のかごにいれていく。
お客さまがどんなかたなのかは、まだ聞いていない。
トナカイの店主であるチェロさんの、古くからの友人らしい。
トナカイの友人ということは、まさかサンタクロースだったりして。
ぼくはクリスマスの絵本が大好きだ。
店にクリスマスの絵本が入荷するたびに、こっそりと読んでいる。
クリスマスの絵本は何歳になってから読んでも、わくわくするものなんだ。
朝の十時。
いざよい堂書店が開店した。
店のすみのカフェスペースでチェロさんがハーブティーを淹れている。
こぽこぽという音から、ミントの爽やかな香りが生まれてくるようで、ぼくはソファに座りながら、その音に耳を澄ませた。
すると、からんころんとベルが鳴る。
店にお客さまが来た合図だ。
チェロさんが「いらっしゃい、トロンさん」とポットを片手にいった。
トロンさんは、雪だるまにそっくりだった。
十四歳のぼくよりも頭三つ分は大きい、りっぱな白くまだった。
「本を受け取りに来たよ、チェロ」
「ああ、ようやく手に入りました。どうぞ、受け取ってください、トロンさん」
トロンさんの大きな手に渡されたのは、とてもぶ厚い本。
『サンタクロース入門試験問題集』と書かれている。
トロンさんはそれを大事そうに受け取った。
そしてチェロさんから出されたミントティーを一気に飲み干すと、そそっかしく「ありがとう、チェロ」といった。
「さっそく帰って勉強しなくては」
トロンさんは、からんころん、とあわただしくベルを鳴らして、帰っていった。
まるで、天気雨のような、あっというまの出来事。
気まぐれに降った、一瞬の雪のような儚いひととき。
テーブルに、淹れたてのミントティーがことり、と置かれた。
ぼくは「いただきます」といって、すーっとする香りを堪能してから、ゆっくりと一口飲んだ。
ぼくは見送ったばかりの、大きな雪だるまのような白くまの背中を思い出す。
「サンタクロース試験なんてあるんですね」
「ええ。夢なんですよ。トロンさんの、昔からのね。ですが、サンタクロースになれる資格の決まりには『まず人間であること』とあったから、ずっと諦めていたらしいんです。しかし、今年度から『種族は問わない』と変更されたようでしてね。いよいよ、サンタクロース試験を受けることにしたみたいです」
テーブルに、焼きたてのマドレーヌがつまったかごが置かれた。
チェロさんに「おひとつどうぞ」と手のひらに乗せられる。
ぱくりと食べると、じんわりとした甘みが広がる。
ふちは少しカリッとしていて、なかはしっとり。
なんて、おいしいマドレーヌなんだろう。
すると、チェロさんが「ふふっ」と口元に手をあてる。
「やはり、しいらくんのように、ミントティーもマドレーヌもじっくりと味わってくださるかたとお茶をしたいですね。トロンさんはサンタクロースになれたとしても、そうとうなあわてんぼうのサンタクロースですから。えんとつをのぞいたとたん、落っこちてしまいそうですよ」
チェロさんは、トロンさんがさっさとミントティーを飲み干してしまったことを根に持っているみたいだ。
一杯一杯、心をこめてお茶を淹れてくれる、チェロさん。
だからこそ、トロンさんのあっけない飲み方には、がっかりしてしまったんだろうな。
「ぼくは食いしんぼうなので、このかごのマドレーヌ、全部食べちゃうかもしれません」
「おや、それは困ったな。全部食べてくれるのは嬉しいけれど、お腹を壊されてしまっては心配してしまいます」
チェロさんが、マドレーヌのかごをテーブルから下げてしまった。
ああ、あとひとつくらいは食べたかったな。
とはいえ、一応今はお仕事中なのだった。
いざよい堂書店はひまな本屋なので、お客さまは滅多に来ない。
なので、カフェスペースで本を読んで、お茶をして、一日が終わることがほとんどなのだ。
「しいらくん、マドレーヌの歴史を知っていますか」
チェロさんが長い足を組んで、『お菓子の歴史』という本を開いた。
ミントティーを飲みながら、ぱらぱらとページをめくっている。
「ぼく、お菓子の知識はまったくないです」
「マドレーヌは、とある食いしんぼうの王さまのために作られたお菓子だったようですよ。王さまの召使いであったマドレーヌが、故郷で教えてもらったお菓子を貝殻の型にはめて焼いて作ったものがはじまりのようです。それを王さまがとても気に入って、彼女の名前を取ってマドレーヌと名づけられたそうですね」
「食いしんぼうの王さま、ですか」
「まるで、しいらくんのようですね」
トナカイの黒真珠に似た瞳を細め、チェロさんは「ふふ」と鼻を鳴らした。
「あわてんぼうと、食いしんぼう。じゃあ、チェロさんは?」
ぼくがいうと、チェロさんは「うーん」とうなって、ミントティーを飲んで、また「うーん」とうなった。
「さみしんぼう、ですかね」
「お客さまが来ないから、ですか?」
「さあ、どうでしょう」
「……さみしさをまぎらわすには、お腹を満たすのが一番ですよ」
「その通りですね。もう一杯、お茶を淹れましょう。マドレーヌも、まだまだありますよ」
チェロさんが、かごからマドレーヌをひとつとって、ぼくの手に乗せてくれる。
まるで、召使いのように、うやうやしく、紳士的に。
なので、ぼくは王さまのように胸をはって、それを受け取った。
「賛成です」
こぽこぽこぽ、という音からミントの香りが広がっていく。
いざよい堂書店の本棚のあいだから、本と本のすきまから、ゆっくりと時が流れていく。
*
いざよいの森のおしゃべり湖は、博識なかわりに、いらないことをよくしゃべる。
「このあいだ、カモシカのとこの奥さんが食べちゃいけないムラサキシメジを食べて、中毒をおこしたらしい。その前はね、白樺近くに住んでるモモンガのとこの息子さんが、弟をぶってお母さんにえらく叱られたんだってさ」
ふだんは、フクロウのホルンさんとよくおしゃべりをしているらしいんだけど、最近はそれでは物足りないのか、森の奥から、いざよい堂書店のほうまで歩いてくるらしい。
でも、口がない。
だから、人のすがたにへんしんをする。
そうやって、湖からぬけだして、森の住人たちのところへおしゃべりをしにくるんだって。
ぼくはまだ、会ったことがない。
でも万が一、おしゃべり湖に会ったときには、なんて呼べばいいんだろう。
湖さんかな。
それとも、湖くん。
いや、あだ名をつけてほしいっていわれるかもしれないな。
湖くんだなんて、ちょっと味気なさすぎる。
かわいいの、かっこいいの、どっちが好きだろう。
ぼくは、世界中の湖の写真を見るのがすきだ。
どの湖も、とってもきれいだと思う。
だから、おしゃべり湖にも、きれいなあだ名をつけてあげたいな。
「しいらくん。おはようございます。本日もお仕事、よろしくお願いしますね」
チェロさんが、にこっと目を細める。
トナカイのチェロさんの瞳は黒真珠のように神秘的で、ほほえむときにはそれが月のように欠けて、細くなる。
ぼくの瞳は、薄いブラウンだ。
自分で鏡を見てみても、そんなに魅力的な瞳には思えない。
チェロさんのような、真っ黒で宝石のような瞳はとても憧れる。
気づいたら、そんなようなことを、チェロさんに打ち明けてしまっていた。
朝から、なんて陰気なことをしてしまったんだろう。
でも、チェロさんのきれいな瞳を見ていたら、つい、こぼれていたんだ。
ハニーディッパーにからまる、重力に逆らえないはちみつのように、ぼくの愚痴はとろりとあふれて、こぼれた。
チェロさんが、優しい瞳でぼくを見つめている。
ぼくのからだは、まるで百度のサウナに入っているのかと思うほどに、カッと熱くなる。
今すぐにでも、冷たい湖に飛びこみたい。
恥ずかしすぎて、そのまま湖の水に溶けてしまってもいいくらい。
「しいらくん。どうして縮こまっているのですか。きみはいつも、目があうときみから目をそらしてしまう。とてもきれいな瞳なのに、伏せてしまうのはもったいないですよ」
チェロさんが、春風のあたたかさでぼくにいう。
ぼくはそれに逆らうように、ふるふると首を振った。
「ぼくは、ぼくがきらいなんです。だって、何の特徴もないし、物語の主人公になんて、とうていなれないような、存在の薄い、ふつうの人間ですし。だから、見つめられるのは、なんだか困ってしまうんです」
恥ずかしさでお腹のなかが、ぐつぐつと煮えているような気分だった。
ぼくのからだの熱はますます高まっていく。
でも、止まらない。
だって、チェロさんが真剣な顔つきで、親身に聞いてくれるから、ぼくはつい、甘えてしまう。
「この地味なブラウンの瞳も、きたないそばかすも、すぐうねる細い髪も、弱々しい線の細い骨格もちょっと、いやかなり、いやだなって思ってるというか」
だんだんと、申し訳なくなってきて、最後のほうは声が小さくなっていた。
そんな情けないぼくの話にも、チェロさんは静かにうなずき、たまに相づちをうってくれた。
そして、「そうなんですか」といった。
「ぼくは、しいらくんの瞳がすきです。こういっても、しいらくんは信じてくれないでしょうけれど」
チェロさんは、自分のポケットに手をつっこんで、何かを取り出した。
それは小さな袋だった。
チェロさんの大きな手のひらに、中身がころんと転がってくる。
ふしぎな色の石だ。
今朝食べた、いちごくらいの大きさ。
とろけるようなブラウンが、チェロさんの手のひらでちかちかと光っている。
「しいらくんの瞳に、似てないですか」
「これは」
「琥珀という宝石ですよ。アンバーともいいます。とても古い時代の樹木の樹脂の化石です」
チェロさんは店の本棚から、一冊の本をぬきとった。
『宝石の神話』というタイトルの分厚い本だ。
パラパラとページをめくり、『琥珀の神話』という項目を開いた。
「太陽の神の子パエートンが出てくるギリシャ神話に、琥珀が出てきます。身のほど知らずの願いを叶えようとしたすえに、パエートンはエーリダノス川の河口に落ちてしまいました。そんな、パエートンのために流された涙が、美しい琥珀となったといわれています」
「なんだか、悲しいお話です」
「ええ。ですが、そんなパエートンの思いを、琥珀が宿しているとも思えます。琥珀には、持ち主のポジティブさを取り戻す効果があるんですよ。だから、ぼくもしいらくんの瞳を見ていると、元気が出てくる気がするんです」
「それはただたんに、チェロさんがその石を持っているからじゃないんですか」
「ふふふ、そんなことはありません。ぼくはしいらくんの人柄をとても好ましいと思っています。だから、このいざよい堂書店で働いてほしいと思ったんです。きみは自分の容姿に自身がないから、ここで働きたいといっていましたがね」
そうだ。
ぼくは、ぼくの見た目がとてもコンプレックスだった。
頼りない見た目や、たくさんのそばかす、それを隠すために伸ばした長いくねくねの前髪。
心ない人間たちに容姿をからかわれて、ばかにされて、すっかり自信をなくしたぼくは、このいざよいの森に逃げたんだ。
「しいらくん。きみはすてきです。だから、ぼくはきみに、もっと自信を持ってほしいんです」
「チェロさんの琥珀のようには、ぼくはなれません。そんな美しい石とぼくとでは、あまりにも違いすぎます」
それにしても、チェロさんが琥珀を持ち歩いていたなんて、知らなかった。
なぜ、チェロさんは琥珀を持ち歩いているんだろう。
まさか、本当に琥珀の効果を期待して、持ち歩いているのかな。
また本の影響で、持ち歩いているのかもしれない。
チェロさんは、読んでいる最中の本に、とても影響されるんだ。
まったく、ミーハーなトナカイだ。
だけれど、そんなチェロさんをぼくはとても尊敬している。
ぼくはチェロさんから、多くの知識や、感情や、心の豊かさをわけてもらっているから。
「チェロがまた人間をそそのかしている」
それは、水のなかに石を落としたような声だった。
水たまりに雨が波紋を作るような、空気を震わせる、繊細でいて、耳に残るつよい声。
チェロさんが、「おや」と困ったように首のあたりをかいた。
「なぜ、あなたがここに。ホルン先生の目を盗んできたのですか」
「わたしは暇に時間をとられることをきらう。きみが、本に時間を贅沢に使うように、わたしはわたしのしたいことをするのだ」
「それはわかっていますが、今はあなたのおしゃべりに時間をさくことはできないのですよ。なにしろ、ぼくたちは仕事中ですから」
「ばかな。今、おしゃべりをしていただろう。わたしは、耳がよい。この森のすべてに耳を傾けられるほどに」
それに、ぼくはようやくこの人が誰なのかを理解した。
ぼくの腰あたりしかない小さな身長、ぬけるような白髪、幼い顔立ちなのに、しっかりとした口調。
子どもにしては、あまりにもおとなびている。
この人は、いざよいの森のおしゃべり湖だ。
でも、なぜここにいるのだろう。
話を聞くと、暇がきらいなようだけれど。
「それにしても、チェロ。きみはなんと、ひどいトナカイなんだ。とりおをもてあそび、あまつさえ、そこの白樺そっくり少年にまで愛想をふるうとは、春の風みたく気まぐれなやつだ」
ぼくは、おしゃべり湖の早口を聞き取るのにせいいっぱいで、湖が今なんといったのか、理解するのに数秒かかった。
「とりおくんが、なんだって」
「おや、白樺くん。きみはとりおの友人なのか。それとも、観察対象かい。チェロはとりおが本の対価として払った琥珀をいともたやすく、きみに渡そうとしたのだ。とりおがチェロのことを思って、必死に探した琥珀石をね」
ぺらぺらとしゃべるおしゃべりな湖の言葉は呪文のように空間を文字で埋めつくしていく。
ぼくはわけがわからなくなって、おしゃべり湖の両手を取った。
「おしゃべりはそこまで」
ぐっとにぎりしめると、おしゃべり湖がおしゃべりを止めて、「驚かすな」と目をぱちぱちさせた。
「きみの名前は、なんていうの」
「わけがわからない。なぜ今、それをわたしにたずねる」
「話をしようにも、呼び名がなければきみを呼ぶこともできない」
「みんな、わたしのことを名前で呼ぶことはない。なぜなら、わたしは湖だから」
「じゃあ、ぼくが今、きみに名前をつけるよ。ぼくはいつかに、きみを呼ぶ日がくるとしたら、ベルリラと呼びたいと思っていたんだ。どうかな」
おしゃべり湖はぼくに手を取られたまま、固まった。
そして、ぷるぷると震えだす。
「ベルリラ。おお、わたしのなかに、ベルリラの涼やかな音色が響き渡っている。これが、名前をつけられた気持ちか。なんと、心踊る体験だろう。ベルリラ、ベルリラ、ベルリラ」
おしゃべり湖は、何度もその名前をくり返した。
「なんと、唱えるたびに、名前がわたしのなかに染み渡っていくぞ。さっそく、ホルンに教えてくる! わたしの名前のことを!」
そういって、ベルリラは店を飛び出して行った。
チェロさんが、「ふふ」と口元に手を当てている。
「おしゃべり湖は、たまにこうしていたずらをしにくるんですよ。森のすべてを知っているからか、ぼくたちにいらないことまで教えようとしてくるんです。それで関係がもつれることがあるかもしれないというのにね」
「ベルリラが、とりおくんの琥珀だっていったのは……」
「ええ、本当です。でも、ぼくはしいらくんに石を見せようとしただけ。渡そうとなんてしていないのに、勝手にああいって、さわいだんですよ。困った湖です」
ああ、そういうことだったのか。
みんなが知らないことを自分だけは知っているから、早く誰かに伝えたくて仕方がなかったんだ。
だから、ベルリラはあんなに早口でまくしたてたんだ。
ぼくやチェロさん、とりおくんの関係がぐちゃぐちゃになるかもなんて、ベルリラには興味がないことだものね。
ベルリラにあるのは、おしゃべりをしたい、という強い気持ちだけ。
悪意がないことだから、ちょっと面倒くさい。
「また、来ますかね」
「おしゃべり欲が高まれば、また来るでしょうね」
チェロさんは琥珀を見つめてから、ぼくににこりと笑いかける。
「さっきのしいらくん、とてもすてきでしたよ。ぼくも今度からあの子のことは、ベルリラと呼ぶことにします。とても呼びやすい、すてきな音色の名前だ」
チェロさんに褒められると、照れてしまう。
「やはり、きみは琥珀だ。すべてを包みこんでくれる、美しい石だ」
チェロさんはそういって、その場でぼくの瞳に琥珀を重ねた。
ぼくの視界に、琥珀の澄んだはちみつ色が映しだされる。
あたたかなブラウンのとろみが、ぼくを包みこむ。
ささくれだっていた心が、ゆるゆると熱を持って、ほどけていく。
ぐちゃぐちゃだったものが混ざりあって、一体となっていく。
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