一夜だけなら

月波結

一夜だけなら

「一夜だけならいいよ」


 自分でもどうしてそんなことになったのか、全然わからない。

 啓太が実はわたしのことをずっと好きだったと知って、頭の中がスパークルしたのは確かだ。

 高校の時に家が近いことがわかってから、夜遅くなったりする日はさりげなく家まで送ってくれて、お母さんなんか「アンタに彼氏ができる時はきっと啓ちゃんだと思ってたのに違うの?」って言ったし、お姉ちゃんは「啓ちゃん以外考えられない。よく考えてみな」と言った。

 でも啓太はわたしが告白されたと聞いても、付き合うことにしたと聞いても、なにも言わず、劇的ななにかは起こらなかった。


 みんなが期待していたようななにかは起こらなかった。

 他の男の子の話をしても、なんの化学反応も起こらなかった。


 でも今、水飛沫の音が聞こえてる。その啓太がいま向こう側でシャワーを浴びていて、心が震える。

 そこに、啓太がいる。

 脱ぎ捨てたいつも着てるジャンパーが無造作にソファにかかっている。生々しい。

 啓太がいる。


 わたしは真っ白いシーツに潜り込んで、バカみたいに真っ直ぐ上を向いて仰向けに横たわっていた。

 どうしたらいいか、わからなかった。

 初めてだから、とかそういうことではなくて、どんな風に向き合っていいのかわからずに、まだ少し濡れた髪の先を不快に思いながら、天井を見つめて水音を聴いている。


 この天井、何人が見たんだろう?


 そして、何人がわたしみたいに緊張してシャワーが終わるのを待ったんだろう?


 わたしは啓太に相応しい?

 その辺のことを考えると胸がキュッと苦しくなる。

 わたしが啓太を好ましく思っていた時、啓太には彼女がいた。アリサちゃんと言った。

 スラッとした白い腕が夏服のまくったブラウスの下に真っ直ぐ伸びていた。

 二人は手を繋いでいたし、なんなら顔も寄せてたし、一緒にいるのがとにかく楽しいんだ、と聞かなくてもわかるくらい仲がよかった。

 なのでわたしは一歩下がった。誤解されないように。声をかけられることがあっても、適当に濁して逃げてしまった。


 その時になって初めて、自分は本当は啓太のことが好きだったんだなぁとしみじみ思った。

 バカだ、しみじみとか。今更すぎる。

 受験勉強を夜中にしてる時、不意にシャッフル再生していたプレイリストから啓太の好きな曲が流れた。

 泣いてなんかない。

 涙が頬を伝っただけだ。


 大学が変わり、たまに駅周辺ですれ違えば話くらいはした。

「学校どう?」

「まぁまぁかな」

「全然わかんねぇよ」

 そんな取ってつけたような会話をしては少し寂しく感じた。間違いなくわたしたちの間にある距離――。


 でも、噂が流れてくる前から、確かに啓太は見かける度にひとりだった。憶測は憶測に過ぎず、二人がいつ別れたかなんて知る由もなかった。

 ただわたしにわかったのは、啓太が誰のものでもなくなったこと。

 それはわたしにとってすごく大切なことだった。


 回想。

 バカげてる。

 全部過ぎ去ったことで、今は今でしかないんだから。


 ガタンという音がして、ますます焦る。

 いつもならベッドの脇に、やっぱりどうしたらいいのか未だによくわからなくて座ってたりするんだけど、今日はすっぽり布団に入ってしまった。

 この後の展開が全然読めない。

 啓太が髪をタオルで拭く、バサバサという音が聞こえる。いつものペースで歩く足音。

 そこにいる彼は重さを持って、わたしの寝ているすぐ脇にドサッと腰を下ろした。


 ベッドが自然に少し沈む。

「どうしたの? やっぱりやめる?」

 背の高さは普通、少し童顔で髪はいつも適当に流行ってる感じ、そして声は少し鼻にかかって甘い。


 わたしは横に首を振った。

 啓太がそんなわたしを見て微笑む。ああ、いつかみたいだ。

 少し離れてたことを忘れるほど、いつも通りだった。


「瞳さぁ、無理はしなくていいんだよ。やっぱり彼氏いるし、こういうの嫌じゃない? お前の性格に似合わないし······彼氏、別れてないんだろう?」

 そんなにやさしい目で見られても困る。

 そういう風にされても現実は変わらないし、それに、自分で決めたことで。

 後悔はするかもしれないけど、でも、自分の選んだことで。


 指先がゆっくり伸びてきて、ドキリとする。

 わたしを隠していた布団がそっと剥がされる。

 バスローブしか着ていない自分が恥ずかしい。

 まるで準備万端みたいだ。

 顔を両手で覆う。

 啓太の手は、わたしの左手の隣に置かれてわたしの顔を上から覗き込む。合わせる顔がない。


「いつもそうなの?」

「ううん」

「じゃあどうして?」

「······なんか恥ずかしい」


 それを聞くと彼はおもむろに立ち上がり、自分が羽織っていたローブを躊躇いなく脱ぎ捨てた。

 白い背中のS字のライン。

 その気配が濃厚に漂って、どうしようもない気持ちでいっぱいになる。間違えて食べたブルーベリーのような、苦くて酸っぱい。


 そうこうしてわたしが自分のことでいっぱいになっている間に、啓太はわたしの隣にスルリとなんの障害もないように滑り込んできた。

 肌と肌がイヤでも当たる。

 啓太の左手は待つことなくわたしのローブの下に差し入れられ、緊張のあまり鳥肌が立つ。


 触れられてるのを感じる。

 体の割に、細い指、薄い手のひら。

 あの暑い日、アリサちゃんと恋人繋ぎして歩いてた光景が、どうしても目の裏側に浮かぶ。

 緊張が頂点に達しそうになって、無意識に思いもよらない声がこぼれる。


「怖くしないよ」


 上から、やさしいキスが降ってくる。

 額に、頬に、唇に。

 触れ合っている。

 バスローブはとっくにその意味をなくし、ベルトだったものはただの紐になった。


 わたしに触れる手と、わたしが触れる手。

 知り合って三年以上も経つのに、まだ知らないことがたくさんある。

 啓太から溢れる声······。

 ああ、こんな声を出すんだ。全然知らなかったよ。

 もう一度、聞かせて――。


「ごめん、ちょっと待って、混乱してる。上手くできると思ってたんだけど、瞳が男にこんなことするなんて、ヤバイよ」

「······ごめん、イヤだった?」

「いや、その逆。だから余計ショック。いつも彼氏とさぁ、どんなことしてるのか気になっちゃって」


 その言葉が胸をギュッと握りつぶす。

 そうだ、わたしには彼がいるし、こういうことの全部は彼に教わった。

 それは標準ではなかったかもしれないし、女からするのは下品な行為だったのかもしれない。

 シュンとする。

 上手くいかない。


「ああ、もう、我慢できなくなるじゃん。先に気持ちよくなるなんてカッコ悪すぎる」

 上からドサッと覆い被さってきて、無理に唇を割るようなキスを求められる。

 わたしの彼は人望厚くてプライドが高く、自己肯定感が強い。

 今と同じように無理やり求められることには慣れている。

 声を漏らしてしまうことがあっても、喉がつかえそうでもそれに応える。

 涙が滲む。


「ごめん、今日だけならゆっくりやさしく丁寧にしようって、できればいい思い出になるようにって、そう決めてたんだけど」

 そう言いながら啓太は大きなため息をついた。

 彼の興奮の波に圧倒されて、ついて行くのが精一杯になってくる。同じ波に乗りたい。ひとつに重なりたい。


「お前なんで、彼氏なんかいるの?」


 わたしが耐えるように枕を手で強く掴んでいた時、不意にそう訊かれる。

 それは、それは――。


「じゃあ啓太だって、どうしてアリサちゃんと付き合ったの? あんなに仲良くて、わたしは見てることしかできなくて、それなのにわたしのことをなじるの?」


 指の動きが、止まる。

 開かれた足がなんてマヌケ。

 なんのために今、ここにいるんだろう?

 浮気なんて真似をしてまでここにいるのは、どうして?


 こんな話をするためにリスクを背負ったわけじゃない。


 啓太はまたわたしの上に被さってきて、わたしを強く抱きしめた。

「ごめん、本当にごめん。告られて舞い上がって、信じてもらえるかわかんないけど瞳の気持ちは全然わかんなかったし、アイツと俺が一緒にいても笑ってたし、俺······」

 ――お前の気持ち、わかってなかった。

 抱きしめられたその頭に手を当てて、撫でる。


 過ぎたことはどうしようもないんだよ。


「あの頃、きちんと言わなくてごめん。ずっと啓太が好き。変わらない。浮気女はお断りかもしれないけど、それでもさ、ずっと気持ちは同じだったし、今だってどんどん積み重なって」

「忘れてよ、彼氏のこと」


『休憩』は選ばなかった。

『宿泊』はわたしを何度も沈め、浮上させ、不思議な力で身をよじらせ、何度も目に見えない何かが瞼の裏で弾けた。


 確信はなかった。

 本当はただ都合のいい女で、それで都合よく抱かれているのかもしれない。


 それでも汗で滑る肌と肌を合わせるプリミティブな感覚を何度も脳に刻んで、何度も何度も高いところまで――天井抜けて空の上まで――わたしの意識は飛んだ。

 こんなのは初めてだった。


「野暮だとは思うんだけど、気を悪くしないで。彼氏のことが好き?」


 虚ろな目で啓太を見る。すぐ隣にあるその顔の輪郭はぼやけている。

 わたしの感覚器官はすべてバラバラに壊され、また組み立ててくれるのを待っている。


「たぶんだけど、最初から好きじゃなくて、啓太に彼女ができたなら、わたしに彼氏ができることもあるかなって意味のないことを考えて、彼の望むような女にならなきゃって、いつも、そればっかで······」

「告られたんだよね?」

「そうなんだけど、今思えば、大人しそうで意見も言わないし言うことを聞く、そういう女だと思ってるのかもしれない」

「なんでそんなに自分を卑下するの?」

「だって、こういう時だって、次はこう、その次はこれしろって、わたしはいつも人形になった気分で迎えるしかなくて、それで――大事にされてたわけじゃないって、今日、決定的にわかって」


 そんなつもりじゃなかったのに、嗚咽がこぼれ出た。しゃくり上げながら彼氏の悪口を言うわたしは最低だ。

 慰められたがってる、そう思わせるだけだ。


「······ごめん、泣いちゃって。ベッドの中ではそうだけど、他の時はみんなの前でわたしを彼女としてちゃんと扱ってくれてるし、だから······大丈夫だよ」


 なにがだよ、と吐き捨てるように啓太は言った。

 あーあ、本当のことは言ったらいけないのに。

 自分で自分の気持ちはなるべく言わないって、そう決めてたのに。

 結局ダダ漏れになってしまったのは、この一夜限りの甘い夜のせいなのかもしれない。


 啓太はなにも言わなかった。

 時間を惜しむように、この機会を惜しむように、わたしを激しく、やさしく抱いた。

 何度もこの夜を提案した彼の気持ちはわたしの中で深く弾けて、その度にわたしはダメになる。

 息が継げなくなるほど苦しくなって、どれくらいそれを欲していたのか思い知らされる。


 体はもうとっくに悲鳴を上げていて、無理にこじ開けた関節が痛い。

 それでもそれを知られないように、長く長く、この夜を引き伸ばしたかった。

 伸びて使えなくなった髪ゴムのように。

 或いは噛みすぎたガムのように。


 開いた体の上に突然、啓太は降ってきて「ダメだ」と言った。

 わたしは彼のその丸い頭を抱きしめる。

 汗ですべてがしっとりしてる。


「ほんとは、俺を忘れて彼氏と仲良くしてるお前をめちゃくちゃに引き裂きたい。俺はそういう、汚い男なんだよ」


 彼の告白にわたしの思考が立ち止まる。

 わたし? わたしは······。


「わたしはほんとは、嫌な男に区切りをつけられない自分を引き裂いてほしいと思って、ここにいるんだよ。······ごめんね、初めてじゃなくて。初めてでありたかった」

 なにも言わない。耳元にやさしくキスされる。


 始発列車の走る音がここまで聞こえてくる。

 朝は足音を立ててやってくる。

『宿泊』は終わる。

 約束も終わる。


 コートをきっちり着込んで、ストールをマフラー代わりにぐるぐる巻く。

 スカートの下に厚手の八十デニールのタイツを履いて、きちんと並んで所有者を待っていたブーツに足を通す。

 爪先でトントンと床を蹴って、リュックを背負う。


 啓太は疲れたからか、ぼーっとした顔でずっとわたしを見ていた。

 わたしは思う。

 今日だけは、秘密。わたしと彼のシャンプーもボディソープも香りは一緒。

 一夜限りでも、わたしの彼氏だったよ。


「じゃあ、先に出るね」

 そういう約束だった。

「啓太、さよなら」

 そういう約束だった――。


 啓太は急に立ち上がるとドアに向かった突き飛ばすような勢いでわたしを後ろから抱きしめた。

 強く、痛いくらい、強く。


「俺のものになりなよ。もう他の女に目をくれたりしないし、寂しい思いをさせて他の男に抱かれるような、そんな目に遭わせたりしないから。だからさ」

「約束と、違うじゃん」

「いいから。約束は破られるためにあるし、俺にはやっぱり瞳しか考えられないし、その······こんなところでこんなことした後じゃ説得力ないのはわかるんだけど」


 わたしは彼の、わたしの体に回された両手を、片腕ずつ離した。

 そうして向き合うと彼に向かってこう言った。

「タイミング悪いんだよ、たぶん、わたしたち。一夜の過ちに流されたらダメだよ」

 少し背伸びをしてそう言った。

 彼は悲しい顔をした。


「もう一度だけ言わせて。もう泣かせないって約束するから俺のものになって。お前を人形みたいに扱うその男は殴ってやる」

「冗談ばっか」

 はは、と弱い笑いがこぼれた。


「俺のものでいなよ。二人で今度はもっとゆっくり、気持ちいいことしよう」

 今度は思わず笑い声が出てしまう。

 そんな口説き文句ってある?


「もっとゆっくり、気持ちよくなるの?」

「その方がずっと感じない?」

「わかんない。やったことないから」


「じゃあ次はそれを教えるよ。だからさ」


 影が重なる。聞こえてくる電車の走る音が次第に数を増す。

 一日の生活が、いつも通り始まる。

 啓太がわたしの手を取る。

 昔、家に送ってきてくれた時みたいに。

 フラッシュバックに胸が高鳴る。


「今日、何限から?」


 二限から、と答えてふと思う。

 この人、一緒に来る気でいるんだ。

 本当に殴るのかもしれない。わたしは浮気女のそしりを受けるかもしれない。


 まぁいいや。

 気持ちいいことだけ、考えていよう。


 約束を違えて啓太はわたしと一緒に部屋を出た。

 わたしの腰には彼の腕が回されている。

 もしかしたら、二人の間にはすえたような甘い香りが漂っているかもしれない――。

 それはきっと隠しても隠しきれないほど強く香る、熟した恋の香りだ。

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