第17話
コーヒーカップがテーブルに置かれると、それまでも漂っていた芳しい香りが、より一層強くなり、琴葉の鼻腔をほのかに擽る。
カフェ・アンバードロップのコーヒーは、とにかく香りがよくて味が良い。
食欲も、食に関する興味もない琴葉だが、飲食したものを、『うまい』『まずい』と感じる器官は備わっている。
空腹状態によって味覚の感じ方が変化するというデータから見れば、それが普通の人間とどれほど似通っているかは何とも言えないところではあるが。
相良明人を始末した夜から、二晩、明けていた。
時刻はティータイムを少し過ぎた午後の十六時十二分。琴葉はコーヒーを飲みながら、店内をぼうっと見渡していた。
何かを観察してる訳ではなく、ぼんやりと考え事をするためのものだ。
一昨日の夜、芥はあの会場で確かに激していた。
準備の段階から琴葉は一緒に居たが、彼はそれまで怒っては居なかった。でも、明人が欠落者であり、芥が導き出した、およそ最悪の仮定が現実となった時、彼は憤った。
琴葉は、芥が本気で怒ったところを、あまり見たことがない。彼は怒っていても、それを表に出すことや、行動に起こすことが殆どないのだ。
いつでも冷静に、あるべき価値観と照らし合わせて、判断する。
感情的、本能的に動く琴葉の代わりのように、常に客観的に道を指し示してくれる。
何の変哲もない、少し情報収集能力が高いだけの少年が。
普通で、平凡で、欠落者でもなく、魔法使いでもない彼が、あえてこんな危険な世界に身をおいている原因は、自分であることを、琴葉は知っている。
早蕨芥の目的は、鷹ノ宮琴葉を欠落者ではないただの人間に戻すこと。その方法を探しているのだ。欠落者であり、人殺しである琴葉が、いつか普通の人間に戻れるように。普通の人間に戻った時に、取り返しがつかなくならないように。
芥という、琴葉にとってのかつての『日常』が傍にいることで、琴葉が狂気に落ちて、人間としても、欠落者としても、超えてはいけない境界線を越えないようにしてくれている。
けれども、そうして欠落者の事件に関わっているせいで、実際に彼は、過去に何度も死にかけている。
今回だって、何かが一歩間違えば、致命傷を負っていた可能性だって捨てきれない。
そんな酷い目に遭っているのに、彼は琴葉の傍に居続ける。
そんな、優しい人なのだ。
カランッ
店のカウベルが鳴って、琴葉はドアの方を見た。
入ってきた芥が、ほんの少しだけ店内を見回すような仕草をして、琴葉と目が合う。彼は軽く手を上げると、マスターに一言かけて、こちらの席まで来た。
「お待たせ。報告書を出してきて、先生に捕まっていたんだ」
いつもと変わらない穏やかな笑顔を見せた。
「大丈夫?」
琴葉が聞くと、彼は目を少しだけ大きくして「何が?」と応えた。
「一昨日のあなた、とても怒っていたから」
「ああ……」
彼は少し気まずそうに視線を落として、
「恥ずかしいところを、見られたね」
と言った。
「別に恥ずかしくはないでしょう? 感情を露にすることは、悪いことではないわ。むしろあなたは、もっと感情を出すべきよ。抱え込んでしまうと、その想いはどこかで消化不良を起こすわ」
芥の顔は浮かないままだった。
「あれはね、僕の、本当に本当に、個人的な価値観で、感情で……僕が許せなかったから、許せないっていう、自分勝手なものなんだ」
「それでも、彼は一般の人間を殺したわ。何人もね。その時点で、彼はもう、ただの人間じゃない。そうでしょう?」
琴葉の問いに、芥は答えない。
芥の中の後悔が、どうしても彼を黙らせてしまう。
そんな芥に、琴葉は優しいため息をついた。
「言い訳を聞いてあげるわ。あいにく、私は言い訳をしない人間をさほど潔いとは思わない質なのよ。だから、もしも弁明の余地があるのなら、無様であっても言い訳はするべき」
言葉とは裏腹に、琴葉の目は慈愛に満ちていた。
うん、と小さく頷いた後で、芥は小さく話し始めた。
「許せなかったんだ。一番、大事ところで、一番向き合わなくちゃいけない人を、『見ないふり』したのがさ。好きな相手の醜さを否定し、自らの醜さも無かったことにして、自分だけが正義の味方になって……。僕はね、そういうエゴイズムこそが、罰せられるべき悪だと思うんだ。それでなくても『押し付ける』という行為は、争いを生む。宗教だってそうだ。各々に信じて、信仰していれば害はないけど、それを他人にも勧めたところで、一気に危うくなる。勧めるという行為は、やがて強要になる。それは『押し付ける』ことに発展する。押し付ければ、意見の対立が起こることも多い。そうやって、世界の宗教戦争は起きている。宗教が悪いんじゃない。押し付けるという行為が、争いの根源なんだ」
いつもとは違う、強い意志を持つ言葉だった。
強く気高い意志を持ち、そしてそれは概ね正論であり、つまるところの正義であり、真理である。なのに、それを口にする彼の表情は、あまりに必死に言い訳を探しているような、どこか子供めいたものに見えた。
別の圧倒的な答えが、彼の信念を論破してしまうことを恐れているように、そうされない為に全力で守りを固めているような、そんな声と表情だった。芥は確かに正しく、それだけで、誰も彼を否定などできはしないのに。
「人間だから、どんな面だって持っているよ。人に言えないような醜い部分だって。でも、それを見てしまったからって、それを受け入れられないからって、丸ごと『別の何かだった』と、してしまうのは、乱暴すぎる」
「私も、そう思うわ」
「……いや、違うんだ……僕が言いたいのは、きっと……そんな綺麗ごとじゃなくて……」
芥の眉間に皺がより、少し情けない顔になる。
その表情を見て、琴葉は思った。
ああ、この人は、なんて強い人なのだろうと。
彼は今、自分から目を背けないようにしているのだ。弱い自分を見つめようとしているのだ。
一昨日、芥は、相良明人を殺そうとした。その理由はきっと、明人が何人も手にかけた殺人犯で、取り返しのつかない欠落者であるから、ではない。
いや、結果的には大差はなく、殆どの面において、間違いなどないのだが、芥が殺そうとした一番の動機が、そんな『欠落』や『殺人』ではなくて、好きな女の嫌な面を全力で否定したことに関してであったのだ。
そこに猛烈に腹が立ち、その衝動で実に私的に成敗しようと、そう思ったのだろう。そして、彼はそんな自分が未だに許せないのだ。
見過ごしてしまえば良いものを。
相良明人には、裁かれて仕方ないだけの理由があった。それに甘んじて、託けて、多少こじ付けさえしても、自分は最初から最後まで間違いなどなかったと、肯定してしまえば良いものを。
芥はあまりにも律儀に、冷静ではいられなかった自分と、自分の判断と価値観を、なかったことにはせず、こうして立ち向かっているのだ。
恐らく、芥の心の中で、『殺して当然だ』と少しでも言い訳してしまったことすら恥じて、あまつさえ懺悔のようなことをしようとしている。
「十分よ。そう思うだけで、そう考えるだけで。自分に立ち向かう行為は、何よりも崇高で、困難なものよ。それをしようと思った時点で、もう十分なのではないかしら?」
俯いていた芥の顔が、ゆっくりと上がり、琴葉を見つめた。
女性の店員が、芥の前に注文されたコーヒーを置いた。それでも彼は、まるで彼女など見えていないかのように、目の前にいる琴葉の目を見つめていた。眉尻は未だに、情けなく下がっている。
「……重ねたのよね、あの時の自分と」
芥はまた、答えない。
「欠落者になった私と初めて出会った、あの夜のあなたと」
三年前のあの日、芥が琴葉を恐れ、今回の明人のように拒絶していたら。
それは芥にとって、想像するだけで、許せないことだった。自分が見捨ててしまえば、琴葉は、琴葉ではなくなっていたのだから。
芥が琴葉の問いに、泣きそうな、笑いそうな、どちらでもあって、どちらでもない表情で小さく頷く。
「笑ってしまうくらいに、私的な感情だろう」
自らを嘲り笑うような言葉。
「あなたも、少し潔癖すぎるのよ。正しいことが、全てではないわ。それだけ、あなたは人間らしいのだもの」
「それだけじゃあ、ないんだ。今回、僕は明人を信用していた。それが、後手に回る原因にもなった。あれだけ、贔屓はするべきじゃないってわかっていたのに。頭のどこかで『彼は違う』って思いたかった自分がいた。だから、可能性に気づけなかった。本当に甘いよ、僕は」
「そうね、と言いたいところだけど、それは仕方のないことよ。私だって、あなたが相良明人の立ち位置だったら、きっと『虫の擬態』の話もよく調べずに信用していたと思うわ。それに――」
琴葉は息を大きく吸った。
「その『甘さ』が私を繋ぎとめてくれているのだから。それでいいのよ」
やはり、相良明人を、芥に殺させなくて良かった。自分が殺してよかったと琴葉は思った。彼が殺していたら、きっと、芥は『本当に正しかったのか』と何度も自問自答してしまうに違いないのだから。
琴葉が殺せば、彼は琴葉を責めることはしない。つまり、自分を責めることもできない。ただの欠落者の当然の死として、受け入れる他無いのだから。
「……わかったかしら? 芥」
芥は、渋々という感じで頷いた。最後にまた、一瞬だけ強めに眉間に皺が寄った。
「最後に一つだけ」
「なに?」
「醜い部分や嫌な部分も、全部受け止められないなら、それは本当の恋ではないと、僕は思うんだ」
真面目な顔で、芥が呟く。
「……なに、それ」
琴葉は、呆れた口調で、しかしはにかむ様に嬉しそうな顔で、そう口にした――。
欠足虫 灰汁須玉響 健午 @venevene
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます