第6話

 一哉がアパ―トに帰ると、いつもより遅い帰りを怒ってるのか、黒猫が頭の上を踏みつけてタンスの上に跳び乗った。


「いてぇ~、ごめんってば~」


 一哉がタンスの下で猫を呼ぶ。


「おいで、クロ」


 すると黒猫は、「にゃ~」っと鳴いて一哉の腕の中に降りてきた。

 一緒に暮らしている内に定着してしまったあだ名だ。


「よしよし。今、餌をやるからな」


 クロは、待ってましたと言わんばかりに、一哉の出した餌にありついた。

 クロが来て、一哉は変わった。

 他人と関わる事を受け入れ、自分をも受け入れた。

 そして、すばらしい出会いを運んできた。


『黒猫って、魔女の使いだったの、知ってる?

 きっと、わずかでも魔力を持ってるのよ』


 そう言って結未は悪戯っぽく笑った。


(本当に魔法が使えるのかもな)


 一哉はそう考えて、ふっと笑った。

 ふと気が付くと、スト―ヴに火が点いていない。

 今日の部屋は、なぜか妙に暖かい。


 一哉は、机の上に並べて立ててある問題集や参考書の束を見つめた。

 そして、その一冊を手に取り、ペ―ジをめくる。


(こりゃあ、大変だぞ。一からやり直しだ)


 1年前の予備校で大変だった時期を思い出して、笑った。

 今なら何でも出来そうな気がする。

 一哉の心は、確実に時を刻み始めていた。

 その時だった。携帯の着信音が鳴った。


「はい、もしもし」


『あ、すみません。

 黒猫をもらってください、っていうポスタ―を見た者なんですが』


 一哉の心臓がどきりと跳ねた。


『まだ飼い手はいらっしゃいませんでしょうか?』


『パパ~、猫ちゃん飼える? ねえ、ねえ』


『こら、静かにしてなさい。

 パパが今聞いてくれてるんだからね』


 電話の向こうで、娘と奥さんらしき人達の会話が聞こえた。


「あ、はい。大丈夫ですよ」


『本当ですか? 良かった~。

 出来れば、明日にでも受け取りたいんですが、いいでしょうか?』


 一瞬の間があった。


「……はい。こちらは、全然かまいません」


 その後、明日会う時間と場所を決めた。

 電話を切る前に丁寧にお礼まで言われた。


(いい家族じゃないか。

 あの家族に飼われるなら、こいつも幸せだろう)


 クロは、お腹がいっぱいになったらしく、うとうと、布団の上で眠りかけていた。

 一哉は、ふっと微笑んだ。いつの間にか、こんなにも簡単に笑える自分がいる。


「よしっ、今日は晩餐で豪華にやるか!」



 約束の場所は、ファミレスから少し歩いた所にある小さな公園にした。

 黒猫を渡した後で、そのまま午後のバイトに向かえるからだ。


 その家族は、約束の時間より十分も早く来た。

 一哉の予想していた通り、感じの良さそうな家族だ。

 女の子は十歳になるかならないかぐらいだろう。

 猫をもらえるのがよほど楽しみだったのか、待ちきれないというように車の中から跳び出てきた。

 お父さんは、優しそうで頼りがいのある大黒柱。

 お母さんは、跳びはねる子供を叱りながら笑っている、優しい人なのだろう。


(この家族だったら、こいつも幸せになれるよな)


 交渉は、簡単だった。

 クロを抱えて持ってきた一哉は、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる女の子にクロを渡してやった。


「きゃ~♪ かわいい黒猫ちゃん。

 お名前は、もう決めてあるんだよ。

 “エリザベス”って言うの」


 両親は、すみません落ち着きのない子で、と謝った上で改めてお礼を言った。

 黒猫は、初めて見る女の子に抱かれて、なんとか逃れようともがいている。

 でも、時間が経てば慣れるだろう。自分みたいに……っと、一哉は考えた。


 それでは、と言って去って行く3人の家族を一哉は見送った。

 クロが「にゃ―にゃ―」鳴いて、一哉に助けを求めているように聞こえた。


 これでいいんだ、あいつのためなんだ、と一哉は自分に言い聞かせた。

 これから勉強で忙しくなれば、クロの面倒を見るのも難しくなるだろう。

 自分には、医者になるという夢があるのだ。


 3人と一匹は、どんどん一哉から離れて行く。

 お父さんが車のキ―を開けた。


「にゃ~……」


 今にも消え入りそうなか細い声。

 生きる事をあきらめかけていた、ちょっと前までの自分と同じだ。


 クロと過ごした短い日々が一哉の脳裏をよぎった。

 それは、結未と過ごした真っ白な時間を、いつの間にか黒く染めていた。


 1年前のあの日、大切なモノを失った真っ白な世界。

 でも、今一哉がいるのは、黒い世界だ。

 どんな傷や汚れも全て塗り潰してしまう、真っ黒な世界――――。


「クロ!」


 思わず一哉が叫んだ次の瞬間、クロが女の子の腕をすり抜け、一哉の元へと走って来た。

 あっ、と叫んで追いかけようとした女の子の肩を父親が優しく抑える。

 黒猫は、自分で自分の帰る場所を知っているのだ。


 一哉は、しゃがんで両手を広げた。

 クロが勢い余って、一哉のお腹にぶつかる。

 その心地良い勢いに身を任せ、一哉は後ろへと倒れた。


 冬の空を背景に、一匹の黒猫が一哉の視界を覗く。


「お前、俺なんかと一緒でいいのかよ?」


 すると黒猫は答えた。


「にゃ~」



 完

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