第5話
「まあ、散らかっとるが、ゆっくりしていってくれ」
老人の家は、ファミレスから数分歩いた所にあった。
老人が一人で住むのには大きすぎる家だ。
老人は、客間らしき部屋に一哉を案内した。
和風の部屋で、池のある日本庭園が見渡せる。
老後を過ごすのに最適な場所だ。
「大きい家ですね。お一人で暮らしてるんですか?」
「いやいや、女房がいてね。ミケってんだ」
「みゃ~」
見ると、襖の隙間から“ミケ”らしき猫が現れて、老人の膝の上に座った。
「はっはっは! 後妻ってやつだな。
前の女房は、ず~っと昔に逝っちまいやがった」
「すみません……」
「なあに、謝る事はない。
命あるモノには必ず死が訪れる。
それが遅いか早いかだけの違いだ」
老人が笑う度、その顔に深く刻まれる皺の一本一本が全てを物語っているようだ。
この人にとったら自分など生まれたばかりの赤子と同じだろう。そう思った。
老人は、とても気さくでユ―モアに溢れた人だった。
話によると、昔ここで自分の病院を開いていたそうだ。
頭とは別に、身体がそれに反応する。心がそれに戸惑う。夢はやはり夢なのだ。
しかし、今の一哉はその気持ちの納め方を知らない。
不思議な空虚感を覚えた。
「あれは、君の役に立ったみたいじゃな」
ふいに老人が呟いた。一哉の目を見ている。
「あれって……猫の事ですか?
そう言えばこの前、俺にはこいつが必要だ、って言ってたのは、一体どうゆう意味なんです?」
「目さ。君の目が何かを探してた。
掴み所のない目をしとった」
「目? 探してたって、何を?」
「さあな、それはわしにも解らん」
だがな、と老人は続けた。
「とても大事なモノだ」
その瞬間、一哉の心の中で何かが弾けた。
一年前のあの日から、心に空いた穴を塞いでいたベ―ルが風に舞った。
恐怖感はなかった。ここでは時が穏やかに流れ、春のような暖かさが傷を覆う。
学生の頃よく通っていた保健室を思い起こさせる。
一哉は次の言葉に自分自身で驚いた。
「…………大切な人を、失ってしまったんです」
2回しか会った事のない老人に、自分は何を話しているのだろうか。
老人は、黙って一哉の言葉を聞いていた。
「俺の事を誰よりも心配してくれてたのに。
俺が傷つけて、手放したんだ」
医者になるという夢があった。
でも、自分の不甲斐なさに怒りと腹立たしさを覚え、彼女の明るい未来に嫉妬した。
そして、全てを放棄したのだ。
一哉の心は1年前のあの時、11月22日から宙に浮かんで地の着かない状態のまま、時が止まってしまっていた。白く汚れのない世界に、いつまでも留まっていたかったのだ。
見続けているのが辛くて背を向けた、結未の顔が浮かんできた。
自分の醜い自尊心が彼女を傷つけたのだ。
「そのせいで、そのせいで、彼女を死なせてしまった……!」
(本当に心から愛していたのに……!)
老人は、顔を俯けた一哉の頭を優しく撫でた。
「大丈夫、君には未来がある。
それに、もう君の目は何かを見つけたようだ」
一哉には、老人の言った言葉の意味を理解出来なかったが、心が平穏と安心感に満ち溢れた。
ファミレスの蒸し暑い厨房から出て、外の冷気を浴びた時のようだ。
「さあ、いつまでもしけた面してないで、笑って生きていこうじゃないか」
老人は一哉の肩を叩き、笑った。
一哉は、この老人がこんなにも強く穏やかに見える理由が少し解ったような気がした。
一哉が顔を上げると、自分の頬が涙で濡れている事に気付いた。
慌てて服の袖で涙を拭うと、老人が笑いながら言った。
「そんな泣きべそかいてたら、あの世で彼女が恥かくぞ」
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