第19話 『正義』の勇者

 陽の光は徐々に傾き始め、東の空は群青色に染まる。夜の気配を含んだ風が、アレンの汗を冷やす。昼と夜の境目で、大きな岐路に立つ男は来客を待っていた。

 開けた大地に、足音がやってくる。淀みなく、規則的で、少しずつ近づいてくる。

 アレンが振り返ると、ミランダは立ち止まり、アレンと右手に握られたそれを交互に見遣った。

「今さら、そんなものを持ってどうするつもりだ?」

「できることをする。それだけさ」

 不敵に笑って見せるアレンに、ミランダは怒りと、僅かな憐れみを向けた。

「……後悔するぞ」

「かもな」

「たとえここで私に勝っても、お前はあの女が通った道を辿るだけだ。最後は、自分に絶望する」

「かもな」

 最後に見たセシリアの後ろ姿が脳裏にちらつく。己の招いた結末に心を蝕まれ、望んだ場所には辿り着けなかった戦士の後ろ姿。

 理想を追う勇者ではなく、ただの殺しの道具に成り果てた、哀れな彼女の道を辿るのかと思うと、手が震える。だがそれでも、アレンは自身の体を奮い立たせる。

「それでもか?」

「ああ。それでもだ」

「なぜ?」

「あんたが殺そうとしている少女を、守りたいと思ったからだ」

「将来、あの少女が戦争の火種になるとしてもか?」

「そうだ」

「それはお前の自己満足でしかないとわかっているのか? 戦争になれば、また数えきれないほどの死人が出るぞ」

「そうならない道を探す。彼女は言ったんだ。只人も、魔族も、当たり前の日常を、当たり前に過ごせる世の中にしたいって」

「それは理想論、あるいは綺麗事だ。わかっているだろう?」

 自分と全く同じ感想に、アレンは可笑しくなってクスッと笑った。

「そうだな。あんたの言う通りだ。でも……」

 アレンは懐かしい記憶を思い出していた。

 八歳の頃、夏に入った暑い日。空は曇り、曇天を埋めるように黒煙が立ち上る。故郷を焼く炎の中、泣き叫ぶ子供の前に立つ一人の戦士の背中。

「それでも彼女の想いは、きっと正しい」

「……」

 その戦士と少女はよく似ていた。敵だとか味方だとか関係なく、ただ一人の命を尊び、慈しみ、守ろうとする。

 綺麗事や理想論という言葉は、実現が難しく、けれども誰もが正しいと思えるものを指す言葉であって、決してその想いが間違っていることを示す言葉ではない。

「彼女はセシリアと同じだ。綺麗事を実践し、現実に抗おうとしている」

「あの娘は無力だ。自分自身の未来を決める力すらない。そんな奴の語る絵空事に付き合って何になる?」

 ミランダは正しいし、イリア自身それを理解している。でも、彼女は言ったのだ。無力だからと何もしなかったら、何もできないと。

「俺もそうだった。だが、セシリアが俺を助けてくれた。何もできなかった俺に道を示してくれた。だから、今度は俺の番なんだ。セシリアに返せなかった恩を、やっと返す機会が来た」

「……結局はそれか」

 ミランダは盛大にため息をつく。

「お前は結局、あの女への執着からその選択をしようとしているだけだ」

「ハハッ、そうだな。だけど、それの何が悪い?」

 開き直って口角を上げるアレンに、ミランダは顔を顰めた。

「他人のために必死になって、自分がボロボロになっても突き進む。そんな人が報われないなんて嘘だろ。あんたが言う綺麗事をセシリアが実践したから、俺は今ここにいる」

 せめて彼女には報われてほしい。彼女自身が報われることはなかったとしても、せめて彼女の娘には違う結末が待っていてほしい。

 彼女が自分の前に立ち、その背中で守ってくれたように、今自分の後ろにはイリアがいる。

 ならば、やるべきことは明白だ。

 自分の番が来た。そういうことなんだ。

 恐怖はある。分不相応だという自覚もある。

「何より……」

「何より、なんだ?」

 だが何より、単純明快な想いが、子供のように無邪気に叫ぶのだ。

 彼女の、勇者の背中を初めて見た時の、胸の内に湧いた感情。

 憧れ。

 彼女のようになりたい。そのたった一念。

 決め手は確かに、セシリアに救われたあの時だ。けど、始まりはずっと前だった。

 英雄譚に出てくる、御伽噺の勇者。

 理想を追い求め、他者を救い、優しく、気高く、強い勇者。

 御伽噺を読んで、他の子供たちと同じように、目を輝かせていたあの時から。

 根底にあったものは、ずっと同じだった。

『子供の頃、あなたは何になりたかったの?』

 なあ、セシリア。どうやら俺の夢は、最初から変わっていなかったみたいだ。

「俺は昔から、勇者ってやつになりたかったんだ」

「……ッ」

 剣の柄を握り、一呼吸で引き抜く。

 『正義』の剣が鞘から解き放たれ、白銀の輝きを放つ。

 かつてセシリアと共に戦場を駆け、彼女を苦しめた白銀の剣に、アレンの顔が映り込む。

 剣身の先では、示し合わせたようにミランダが『真実』の剣を手に迫ってくる。

 次の瞬間、『正義』の剣身は真紅の光を纏う。まるで意志を持つようにうねる赤は、右手を伝い身体中に纏わり付き、アレンの視界を埋める。

「……ッ……あ、うあ……」

 立て続けに、猛烈な痛みが身体中を襲う。全身を針で貫かれ、骨を軋ませ、肉を裂き、内側にあるものを丸々作り替えようとするような、暴力的な何かが体を蹂躙する。

 勇者の剣からなだれ込む力だ。あまりの痛みにアレンは意識を失いかける。視界は赤から白と黒に明滅するようになっていた。

 唇を噛み、前を向く。ミランダは既に地面を蹴って肉迫する。アレンは千切れそうな腕で、お構いなしに剣を振り抜いた。

 『正義』の剣が、剣閃を描く。

 鼓膜をつん裂くような、鋼のぶつかり合う音が響く。

 『真実』の剣と、『正義』の剣。人魔戦争を席巻した二本の剣が衝突する。

 それは、新しい『正義』の勇者が誕生した瞬間だった。

「はあああああああッ」

「……!」

 鍔迫り合いの末、アレンがミランダを押し退けた。流れ込む『正義』の剣の力は、『真実』の勇者に力負けしない膂力を与える。

 アレンはすぐさま追撃する。地面を踏み込み、蹴る。地面が弾け、そこにいたはずの男の姿は瞬間消える。

 ミランダは驚愕を顔に貼り付けながらも、視界の端に辛うじてアレンの姿を捉えていた。

 一瞬でミランダの背後を取ったアレンは、地面を滑りながら減速し、伸び上がるように剣を振り抜く。

 ミランダは体を反転させ、すんでのところで剣を受けた。強烈な衝撃に、『真実』の剣の諸刃が自身の体に食い込む。

 アレンの速度はさらに上がる。筋肉がしなり、そこから爆発的な速さと威力で剣は走る。

 頭から爪先まで、血管の端々に至るまで何かが流れ込んでいるのがわかる。アレンはその感覚に身を任せて加速する。

 肉体と同じように五感も研ぎ澄まされていく。およそ常人の域を逸脱した速度の戦闘で、アレンはしっかりとミランダを捉え続ける。何も入ることがなかった器が満たされ、器は器としての本来の価値を発揮していた。

 ミランダは防戦一方となり、後退を繰り返す。飛び退いた後の地面を『正義』の剣が砕く。砕けた地面の破片がミランダにぶつかる。ミランダは腕で破片を払うが、視界が一瞬遮られた瞬間にアレンは死角に回る。

 ミランダの反応が遅れ、アレンの剣がミランダを捉えかける。剣が胸を掠める。衣装が破れ、胸元がはだける。傷口から薄く傷が走る。

 アレンが続け様に放った回し蹴りが、ミランダの体を捉える。みしみしと両者の骨が軋む。アレンの一撃はミランダを吹き飛ばすと、彼女の体は弓矢のように宙を貫き、体で木々を薙ぎ倒しながら減速する。

 奇しくも、先ほどのミランダとアレンの立場が逆転していた。アレンの猛攻を、ミランダが懸命に凌ぐ。

「まだまだぁ!」

 アレンは自らを鼓舞し、さらに速度を上げる。雷のごとく大地を疾駆する。

 勇者同士の剣戟は、もはや天災と言っても過言ではなく、剣を振る風圧だけで木々が揺れ、両者が斬り合った後には砕けた大地と幹から折れた木々しか残らない。

 瞬きのうちに四回の斬撃がミランダを襲う。アレンの連撃は、ミランダの防御を崩していく。だが、ミランダを完全に捉えるには、まだ足りない。

 さらにギアを上げようとした、その瞬間だった。

 アレンの膝から力が抜け、危うく転びそうになる。

 ミランダは攻撃の緩みを見逃さない。

 彼女はすぐさま反転攻勢に出る。アレンは攻撃を受けるが、身体中の骨と筋肉が悲鳴を上げ始めていた。

「急激な負荷に、お前の身体が追いついていない」

 ミランダは容赦無く迫る。さっきまで手加減していたのではないかと思えるほどの攻めを耐え忍ぶも、アレンの体は錆びついた歯車を無理やり動かすように軋む。

 意識ははっきりしている。むしろ今までで一番クリアになっている。それまで視界の隅に捉えるのがやっとだったミランダの動きを、眼球は明確に捉えていた。追いつける、反撃できると思考は言うが、身体がそれに追いつかない。

「すぐにこれだけ動けるのは大したものだ。正直驚いているよ。だが本来、勇者の力は何ヶ月もかけて徐々に身体に慣らすものだ。いきなり全部の力を使おうとするとそうなる」

 アレンの動きが遅れる。次の一手で、また遅れる。その小さな遅れが蓄積し、やがて決定的なものとなる。

 振り上げられた『真実』の剣が落下してくる。アレンは全身から汗を噴き出す。不味いとわかっていても、身体が反応しない。垂直落下する剣先はアレンの右胸を深々と抉る。

「……っ」

 声も出ない。傷口からパッと噴き出る自分の血と、崩れ落ちる膝も、やけに遅く、しかしはっきりと知覚している。

 失敗した。それだけは理解した。やはり、自分は心身ともに勇者たり得なかったのだと、現実を突きつけられる。

(だせぇなぁ、ちくしょう……)

 ゆっくりと崩れ落ちていく最中、アレンの視界が微かに霞んだ。出血で意識が揺らいだのか、汗が目に入ったのか、あるいは自らの情けなさに涙したのかはわからない。

 ふと、点滅する白光の奥に、一人の女性の後ろ姿を見た。

 自分を助けた背中。ずっとそばで見続けた憧れの背中。

 彼女は肩越しに振り返ると、薄く微笑んだ。

『あの子を、お願いね』

 崩れ落ちかけた足が、すんでのところで踏みとどまる。

 途切れかけていた意識が覚醒する。痛みに抗い、力づくで意識を自分の体に縫い付ける。

 彼女の姿は既になかった。今のは幻だったのか。一瞬の疑問はすぐに消える。

 そんなことは関係ない。耳にした彼女の懐かしい声が、そして『正義』の剣を抜いた自分自身が、前に進めと叫ぶ。

 弱音なんか吐いている場合じゃない。諦めている場合じゃない。

 綺麗事を叶えるために。憧れた勇者の背中を追うために。

「あああああああああああああああああああぁッ」

 軋む四肢に鞭を打つ。精神力だけで盛り返したアレンは、再び剣を振る。

 勝敗は決したと思われたところからの反撃に、ミランダは瞠目する。勝利を確信した一瞬、油断が生じた。

 『正義』の剣は『真実』の剣を弾きあげ、ミランダの身中線を切り裂く。

 痛みに顔を歪めるミランダは空中で体勢を崩し、派手に地面を転がった。

「……全く、これだから死に物狂いの相手は嫌なんだ」

 ミランダは不愉快そうに吐き捨てるが、アレンには聞こえていない。

 少しでも気を緩めれば、再び意識が遠のきそうだった。アレンは肩で呼吸をしながら、剣を構えた。

 馴染んでいない勇者の力を無理やりに出力するアレンの身体に、赤い筋が走る。そこから今にも身体中が張り裂けんばかりだ。

「典型的な副反応だな。下手すると死ぬぞ」

 子供が無茶苦茶に叩くドラムのように、不規則で、異常な速さの心拍の音は、ミランダの忠告が誇張ではないことを示している。

 だがそれでも、アレンは『正義』の剣を下ろす気はなかった。

「……なるほど。綺麗事に命をかけると言うのは、あながち冗談じゃなかったらしい。なら私も『真実』の勇者として、それなりの今を守るとしよう」

「故郷も両親も奪われて、腹に穴あけられた女の子が、私は大丈夫だって言い張らないといけない世の中をそれなりとは言わねえ」

 時間がない。アレンは確信していた。長期戦になればなるほど、こちらの勝ち目はなくなる。そして自らの敗北は、イリアとマルギットの死と同義だ。

 ただ一人の女の子を守る。その綺麗事で、同時に当たり前を成し遂げるために。

「……力を貸してくれよ。セシリア」

 勝つ。勝つんだ。

 アレンは胸いっぱいに空気を取り込み、熱で朧げになる意識を集中させる。

 次で、全部決める。

 背筋を伸ばし、剣先と自分とミランダの中心線が合うように構える。ミランダは男の並々ならない集中力の高まりを感じ取り、決着をつけようとするアレンの意志を汲み取った。

 ミランダは大きく深呼吸をして、向かい合った。ミランダからすれば、次さえ凌げば勝利は確実なものになる。だがもちろん、ミランダは防御に徹するつもりはなく、むしろ全力で来るアレンを、正面から叩きのめすつもりでいた。

 そうしなければ、この不愉快さを清算できないという確信があった。

 アレンのことをとやかく言っていたくせに、自分もまたつまらない感傷で最後の斬りあいに臨もうとしている。そんな己自身に呆れつつも、ミランダは考えを変えることはない。

 魔王の後継者を守る男を。再びの戦禍を招きかねない危険な男を。自分の差し出した手を払い、かつての女を見続ける男を。勇者としての一歩を踏み出した愚かな男を。ただただねじ伏せたいのだ。

 束の間、あたりに静寂が戻る。風もなぎ、鳥の囀りもない。両者の息遣いを除いて音が消え、その息遣いでさえも、目前に迫る決戦に備えてなりを潜める。

 全てが無音に帰った次の瞬間、二人の勇者は同時に地面を蹴った。

 極限の集中、一心不乱の一撃。

 剣身は熱を帯び、比喩抜きに光を放つ。拡散することなく、剣を模って収束する二つの光は剣閃を彩り、そして両者の中央で交わる。

 耳鳴りにも似た衝撃音をぶちまけて、二本の勇者の剣は衝突した。

 途端、収束していた光は弾け、周囲を呑み込む。

 膨大なエネルギーの爆発に周囲の木々は幹からしなり、大地が揺れる。

 剣から放出される光はアレンの身体を強烈に叩く。肉を裂くような鋭い熱に晒される。

 お互いに放出されたエネルギーを真正面から受け、衝撃で意識を失っていた二人の勇者は、パリンと、ガラス細工が割れるような音をきっかけに意識を取り戻す。

 その音が果たしてどちらのものか理解するよりも前に、両者は歯を食いしばり、足を踏ん張って前傾する。目の前にいる勇者を打倒するべく、互いの剣を振り下ろした。

 そして今度は、先ほどとは比べ物にならない激しい破裂音と共に、鋼の欠片が宙を舞った。

 鋼を彩るのは赤い雫。スローモーションのようにはっきりと見てとれる赤と共に、鋼の欠片、つまり真っ二つに折れた剣の上半分が地面に突き刺さる。

 そして同時に、ミランダが膝から崩れ落ちた。

「……くっ」

 ミランダは球の汗を浮かべながら、深い傷を負った右腕を押さえた。握力が消え、腕から伝わり落ちた血で真っ赤になった掌から『真実』の剣がこぼれ落ちる。上半分を無くした剣が、カランと音を立てて地面に転がる。

「…………………………っはあ」

 アレンは止めていた呼吸を再開させ、肺に酸素を取り込む。眩暈がして、彼もまた地面に膝をついた。

 視界の隅で、一人の女がこちらを見て微笑んだかと思うと、どこかに去っていった。

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