第18話 きっとそれは覚悟
先頭を歩いていたアレンは、ふと足を止めた。山道の先を見ると、太陽を背にして、垂直に伸びる黒い影が見えた。眩しさに目を細めるが、アレンは影の輪郭でそれが誰かはすぐにわかった。
細長く、すらっとした四肢。長い髪がマントと共に風にそよぐ。威圧的とも言えるほど堂々とした立ち姿は、無言のままアレンたちを迎えた。
来るべきものが来た。来なくて良いものが来た。今、最も会いたくない相手を前にして、アレンは意外にも落ち着いていた。
どうしてここにいるのか、などという問いは愚問だ。諦観の念と共に、アレンは目の前に立つ女の存在をすんなりと受け入れた。
「久しぶりだな、ミランダ」
「……ああ」
アレンの後ろで硬直するイリアたちを感じながら、アレンはかつての師と再会を果たした。陽光を吸って光り輝く金髪を風に靡かせる美しい女性は、目を奪われるほどの美しい容貌に、過剰なまでの畏怖を纏っていた。
何と形容したら良いのだろうか。血、死、理不尽、冷酷、そういったものがまとわりついて、彼女の周囲だけ空気が澱んでいるかのようだ。
「『真実』の勇者……ッ」
イリアが歯を剥く。およそ十歳そこらの少女がしてはいけない、憎しみと怒りに満ちた獣のような顔でミランダを見据える。普通の大人なら気圧されてしまいそうな露骨な憤怒も、しかしミランダにとってはありふれた、今まで何度となくぶつけられてきたものでしかない。
ミランダから返ってきたのは、冷たく、鋭く、明確な、純然たる殺意だった。
誇張なく、ただ一瞥されただけだった。にも関わらず、肌を刺す強烈な拒絶をひしひしと感じる。イリアの恐怖が怒りを上回り、一歩たじろいだ。
これが、本物の勇者の放つ威圧感だ。
こちらを見下ろす女の目は、アレン、イリア、マルギットと、順繰りに値踏みをするように一瞥し、またアレンに戻ると、大した挨拶も旧交を温めるような会話もなく、簡潔に尋ねてきた。
「お前は、その子供の素性を知っているのか」
「ああ」
「その子の母親のこともか」
「……ああ」
「そうか」
感情の起伏を読めない平坦な声と表情に、彼女は間違いなくミランダだと再確認すると同時に、ここから始まる避けようのない状況を察し、マルギットに手信号で指示を出す。
『先に行け』
シンプルなものだったが、それで十分だった。
「一つだけ確認したい」
「なんだ?」
「お前は、その子供を大人しく渡す気はあるか?」
その答え次第、次の一言で自分の命運が分かれるという確信は、これがアレンでなくても感じたであろう。『真実』の勇者に、嘘や誤魔化しは効かない。今の自分の心からの返答を要求されている。
アレンは背後を振り返り、恐怖と怒りで前にも後ろにも行けない少女を見やった。ついさっき新たな契約を結んだ依頼主はアレンの視線に気づくと、その視線に何かを感じたのか、急に不安げに眉を寄せた。
「アレンさん?」
「早速だ、イリア。今が走る時だ」
「え?」
イリアが口を挟む間も与えず、アレンはミランダに向き直り、一つ呼吸を置いて、彼女からの問いにはっきりと答えた。
「ない」
「そうか」
それだけだ。その二つ三つのやり取りが、戦いが始まるまでの全てだった。御伽噺のような長い口上などなく、事務的に敵かどうかを判別するやり取りが終わった瞬間、ミランダは抜剣し、地面を蹴って襲いかかってきた。
アレンの体が、本能的に『雷光』を纏った強化状態に移行する。死を直感した生き物が見せる反応と同様の、生存本能のなせる技だった。
辛うじて反応したアレンも抜剣する。瞬きの後には、両者の間にあった距離が一瞬で消滅し、ミランダは肉迫していた。
ミランダの一撃を受け止める。およそ女性の、というより人間のものとは思えない甚だしい膂力に吹き飛ばされそうになるのを、歯を食いしばって踏みとどまる。
突然の展開に瞠目するイリアとマルギットに、アレンは吠えた。
「行け!」
そしてミランダの腕を掴み、自分の体ごと山道の外に飛んだ。急勾配の坂道に身を投げる。
ミランダは全く動揺する素振りを見せず、無表情のまま地面を数秒転がると、アレンの胴体を蹴飛ばして引き離した。ミランダは難なく体勢を整える。
ミランダは視線をすぐに坂上、イリアたちに投げた。今にも坂を駆け上がりそうなミランダを阻止すべく、アレンは勇者に飛びかかった。
地面を滑るようにミランダに接近し、振り抜いた剣を『真実』の勇者は難なく受け止める。彼女の殺意のこもった一瞥に臆することなく、アレンは続けざまに剣戟を繰り出す。
返す剣で斬りつける。受け止められた剣を滑らせ、突きを放つ。そのいずれもミランダはいなし、代わりに剛拳が飛んでくる。
アレンは左腕を畳んで防御姿勢をとるが、岩のように硬い拳はガードの上から十分以上の威力を見せる。アレンの骨が軋み、体が浮き上がる。たたらを踏んで、二歩三歩と後ろづさる。
頭上では、状況を見守り、未だ動かないイリアたちが固唾を呑んでこちらを伺っていた。
「何をしている。早く行けって!」
「でも」
「言っただろ。これが俺の仕事だ。マルギット!」
アレンは共に修羅場を潜ってきた女性の名前を叫んだ。この場で現実的に、何を優先するべきか、細かいことは言わずとも彼女ならわかるはずだ。
そして、こういう時は彼女が期待通り、頼りになる。
「……行くよ」
状況をすぐに理解したマルギットは、イリアの手を取って、坂を駆け上がる。その道を行けば、あとはマルドレイクまで一本道だ。国境を越えれば、『真実』の勇者からは逃げ切れる。
それまでの時間を稼ぐ。アレンは今自分がやるべきことに意識を定め、ミランダに再度向かっていく。
相手は勇者。その実力もよく知っている。ペース配分など無意味だ。一瞬でも気を抜こうものなら、それが自分の最後の瞬間になるだろう。常に自身の最速を叩き出す必要がある。
呼吸をする間すら惜しい。一呼吸の間に、叩き込めるだけの斬撃を繰り出す。全力を出そうとも、勇者の表情に焦りは見られず、余裕を持って捌き切る。分かりきっていたことだ。動揺する必要はない。
倒すことなど考えない。この場に可能な限り縫い付ける。
アレンの息が限界に近づき、肺が酸素を求める。呼吸をしようと、体の動きが一瞬緩慢になる。
ミランダはその瞬間を見逃さない。それまで防御に専念していたのが一変し、途端にアレンの懐に踏み込んでくる。ゾッとするアレンは、呼吸を切り上げ、再び無酸素運動に入る。
勇者にとってはジャブのような、手数重視の攻めであっても、受け手にとっては全てが必殺のストレートに見えてしまう。鋭い剣筋を見極め、刃を添えていなす。
一撃、二撃、三撃。アレンは今まで培ってきた剣技を最大限発揮し、勇者に追従する。右下からの切り上げを受け止め、次いで顎めがけて飛んできる肘の一発を左の掌で受ける。視界の大半を制限し、その隙に足元を斬りつけてくる。
培ってきたのは技術だけではない。かつて、ミランダと訓練の一環で何度となく手合わせした時の、彼女の攻撃の癖を記憶から掘り出してくる。使えるものは何でも使う。
足元を狙った斬撃をアレンは跳躍してかわす。そして、体重と落下の勢いを乗せた一撃を振り下ろす。
ガツンと激しい鋼の音が響き渡る。『真実』の剣を横に倒して受け止めたミランダの足が、衝撃で地面にめり込んだ。『真実』の剣の下から覗く彼女の表情が、その時微かに揺らいでいた。彼女には珍しく、怒りが滲んでいた。
ミランダは力任せに剣を振り払うと、掌をアレンに向ける。
「『
短い祝詞と共に、掌に魔力の光が宿る。光が炸裂すると、鋭い一陣の風が走る。局所的な暴風は、魔法の中では最も単純な部類であったが、勇者が使えばそれは最上級の攻撃魔法に変貌する。
アレンは剣と腕を畳んで防御姿勢を取るが、体全身を巨大なハンマーで殴打されたような一撃に体が吹き飛ぶ。
「グッ」
背中を打ち付けながら派手に地面を転がるが、本能に促されるまま、すぐに立ち上がる。
頭上には追撃をかけてくるミランダの影が落ち、アレンは咄嗟に飛び退く。『真実』の剣が直前までアレンがいた地面を粉砕する。
ミランダの視線は真っ直ぐアレンを見据える。地面から引き抜かれた『真実』の剣は、アレンを狙い続ける。
アレンは何度となく勇者と切り結ぶ。それは常人ではなし得ない偉業と言ってもよく、大いに健闘していた。息継ぎすら最低限に留めた全力疾走とはいえ、勇者と拮抗できる者は滅多にない。だが、無理をしての拮抗は一時的なもので、全力疾走は長くは続かない。
息が切れ、動きから徐々に精細さや力がなくなっていき、形勢は徐々にミランダに傾く。絶え間なく繰り出される連撃を、玉の汗をかきながら退けていたアレンだったが、剣を弾き上げられ、こじ開けられた懐に勇者の蹴りが突き刺さる。
鈍痛が走る。肺に残っていたわずかな空気は口から短い嗚咽と共に飛び出していき、体は空気が抜け出した風船のようにひゅるひゅると宙を舞って地面に落下する。
一瞬だけ刈り取られた意識を戻すと、アレンは飛び起き、目一杯に酸素を取り込んだ。肩で息をするアレンは、しかし戦闘体勢を崩さない。
まだ負けていない。そう言っているアレンの態度に、ミランダは立ち止まり、首を傾げた。
「認めたくないが、腕を上げたな。常人で私の相手をして、ここまで保った者はいない」
「お褒めの言葉とは嬉しいね。滅多に言われたことがなかったけど」
「褒めるほど上出来ではなかったからな」
「人間、死に物狂いでやれば、それなりのことはできるってことじゃないか?」
本心である。全身全霊全力を絞り出し続ける。それができていたからこそ、いっときとは言え、勇者と拮抗することができる。
「それより、どうしてあんたが先回りしているんだ?」
呼吸を戻す時間稼ぎがてら、気になっていた疑問をぶつける。てっきり無視して襲ってくるものと思ったが、彼女は意外にも答えた。
「お前たち、街で奴隷を買っただろ? 奴隷商がお前たちのことを教えてくれた。あとは、ギルドが普段使っている抜け道に当てをつけて追ってきただけだ」
「この道を知っていたのか。迂闊だったな」
「逃亡中に奴隷商と一悶着起こす方がよほど迂闊だな」
「それはごもっとも」
大方、あの子供が無茶をしたのだろうと、ミランダは付け足した。
「そもそも俺が依頼を受けたことはどうやって知った?」
「ギルドの連中が快く教えてくれたぞ」
通常、ギルドが国家やそれに準ずる組織に情報を渡すはずもない。勇者になどもってのほかだ。
「……そりゃ随分と手荒なことをしたな」
勇者がギルドから情報を聞き出すまでに行われたであろう光景が容易に想像つき、アレンから苦笑が漏れる。
「で、呼吸は戻ったか?」
「いや、もうちょっと時間が欲しいな」
ミランダの強烈な前蹴りで、アレンの体が再び飛ぶ。
「……まだだって言ってんだろうが」
しぶとく立ち上がってくるアレンに、ミランダは首を傾げた。
「解せないな。なぜそこまでして、あの子供を助けようとする? あの子が『正義』の勇者の娘だからか?」
「はは。俺は相手が誰だろうと、金次第で誰でも助けるさ」
軽口を叩いた代償は、強烈な横一閃。胴体を両断しようとする斬撃を受け止めるも、勢いに負けて、剣ごと宙に放り投げられる。『真実』の勇者に、冗談は通じない。
「なぜだ?」
再度の詰問。今度はきちんと答える。
「もちろん、あの子がセシリアの娘だってこともある。でも、それだけじゃない」
「なら、他に何がある?」
「ただ気に入らないんだよ。まだ彼女は何もしていないのに、生まれのせいで勇者に家族を奪われ、追い回される。こんな理不尽をどうして勇者がやる?」
「勘違いするな。これこそ勇者のやるべきことだ。あの子供は魔王の血だけでなく、魔族に寛容だった『正義』の勇者の血まで引いている。彼女の出自が、魔族の残党にとってどれだけ都合が良いか、言わないとわからないお前ではあるまい。そういった不安要因を徹底的に排除するのが私たちの役目であり、勇者の『真実』の姿だ。それはお前が一番よく知っていると思っていたがな」
「あんたの、そういうわかったようなこと言って、淡々と切り捨てるところが嫌いだった」
「わかっているのに、気に入らないからと目を瞑った奴よりはマシだ。目を開いている分な。そういうところは、最初の師匠から悪い影響を受けたな」
セシリアのことを言っているのは、すぐにわかった。
「……彼女は目を瞑っていたわけじゃない。目を開いていたからこそ、苦しんでいたんだ」
「だが結局、奴は『正義』の剣を持って逃げた。何をするでもなく、勇者というあり方から目を逸らした。そして最後は、辺境の村であっさりと命を落とす。憐れだな」
これは挑発だ。わかっている。意図的に、こちらの調子を崩すために、彼女を貶めている。
「あんたがやったんだろうが!」
わかっているにも関わらず、カッと頭に血が昇り、アレンはミランダに飛びかかった。冷静さを欠いている。落ち着け。理性の声が制止するが、体はすでに前のめりだ。
アレンが剣を振るう。受け止めたミランダの体が地面から浮き上がる。アレンは続け様の斬撃でミランダを一歩後退させる。外野から見れば、アレンが攻勢に出て、ミランダが圧されているように見えるが、その中でミランダは不敵に笑った。
アレンの力任せになった大ぶりを見逃さず、ミランダは反転する。獲物の仕留め時とばかりに、目つきが変わる。
背筋に走る冷たい感覚。心臓に手がかかるような気持ち悪さに、咄嗟にアレンは急制動をかけて半歩後ろに引く。
だが、ミランダの剣先は鋭く、アレンの体を捉えた。踏み込みすぎていたのだ。
アレンの肩口から腰に斜めの斬撃が走り、一瞬の後に傷口が開く。
鮮血が舞う。すんでのところで致命傷は免れたが、はっきりと均衡が崩れた瞬間だった。
ミランダは一気に攻勢に転ずる。最初の打合いと同じか、それ以上の苛烈な攻撃にアレンは防戦一方を強いられる。後を考えない全力でやっと五分であったアレンだが、今の一太刀で完全に勢いを失った。
ミランダは剣の腕も一流だ。そうでなければ勇者は務まらない。アレンの防御を掻い潜った斬撃が、少しずつ、だが確実にアレンの体に傷を作っていく。
「変わらないな。あの女のことになると冷静さを欠く」
「うるせえ!」
図星を突かれて、返す言葉も乱暴になる。
時間を稼ぐと言っておきながら、ムキになって手痛い反撃を食らっている。生き方だけでなく、戦い方まで中途半端だ。
自分は、セシリアが姿を消したあの日から、何も成長していないのだろうか。
気づけば、アレンの四肢は切り傷で溢れ、血がべったりと肌に張り付いていた。
剣を地面に突き刺し、膝をついていた。
満身創痍のアレンを前にして、ミランダは立ち止まり、剣を下ろした。
「これで最後だ。もう一度、私の元に来い」
アレンは呼吸を整えながら、驚いた顔を隠さずにミランダを見上げた。
アレンが知る限り、ミランダは一度敵になった相手に容赦などしない。その彼女が、手を止めた。
「あんたが、この期に及んでそんなこと言うとは思わなかった」
「私も、自分を一度振った男にこんなことを言うのは初めてだ」
語弊がある。面白い冗談が言えるようになったのかとアレンは鼻で笑ったが、ミランダの顔に微塵も笑顔はない。そうだった。『真実』の勇者は冗談が嫌いだ。
まさか勇者に誘いを受けるとは。多少は認められているのだろうか。それに彼女の素性を一旦脇に置いて、これほど美しい人から誘われれば、正直悪い気はしない。我ながら単純だ。
「なぜ、そこまで俺に固執する?」
「お前は強い。それに、お前は正しい」
「え?」
「現実は御伽噺ではない。故に私たちは、勇者であって勇者ではない。だが、だからこそ、勇者のあるべき姿に戻す努力が必要だ。二人の勇者を間近で見てきたお前には、それができるはずだ」
正直なところ、ミランダの言葉とは思えなかった。それどころか、ミランダはそうしたものを惰弱だと切り捨て、勇者の役割というものを冷徹なまでに割り切っていると思っていた。
「なおさら、らしくない言葉だな。ならどうしてあんたは、今も魔族狩りを続ける? どうしてイリアの命を狙う? 子供の命を奪う勇者を、人々が求めていると?」
「求めているのは時代の方だ。個々人の意思ではない。人魔戦争を完全に終結させるためには、情け容赦ない今の勇者が必要だ。だが、この後の時代は違う」
「この後の時代?」
アレンは顔を顰めた。ミランダの選ぶ言葉の端々から、彼女の意図を感じ取れる。
「そうだ。お前には、次の時代の勇者になってもらう。今の勇者たちで全てを清算して、お前のいう、あるべき姿の勇者としてな」
アレンは呆気に取られて、ミランダの顔を覗いた。
全てを清算する。その言葉の意味は、さっき彼女自身が言っていた通りだろう。不安分子となる全ての勢力を排除する。つまり、魔族狩りを完遂することだ。
「魔族狩りが終わり、次にやってくる時代では、戦争の産物でしかない私の居場所はない。過去の勇者たちの代わりに、次の時代を象徴する存在が必要だ」
「俺に、それになれと?」
「そうだ」
驚くことに、彼女は全てを終わらせた後に、自分に全く新しい『真実』の勇者になれと、そう言っているのだ。御伽噺のような、理想の勇者に。
その話を聞いた時、アレンは無性に可笑しく、同時に悲しくなった。
魔族狩りを完遂させ、全てを清算する。そして次の時代を全く新しく始めることができるとしたら、今よりはマシな時代にできるかもしれない。
それが、彼女の信念だった。
セシリアやアレンに甘いと言っておきながら、彼女もまた、叶うかわからない理想を掲げ、その実現に向けて突き進んでいた。
彼女もまた、己の理想に殉ずる勇者だったのだ。
だが彼女の理想は、敵となる全ての存在を根絶やしにすることでしか、殺すことでしか実現できない。そのことが、無性に悲しくなった。
それが、彼女にとっての勇者の『真実』なのだ。
「セシリアを殺したのも、その清算のためか?」
ミランダの表情が微かに歪む。
「別に、辺境でひっそりと暮らしていただけであれば、気にする必要はなかった。だが、魔王の血脈を継ぐ子供を産み、その娘に『正義』の剣を託そうとなれば話は別だ。奴はこの時代にとって害悪でしかない」
「彼女は戦争を起こすつもりなんかなかった。ただ勇者から離れて、普通の生活がしたかっただけなんだ」
「たとえ本当にそうだったとしても、関係はない。言っただろ。そうなる可能性がある。大事なのはそこだ。可能性は全て絶つ」
徹底していて、揺るがない。いかにもミランダらしいと思った。
「もし、私があいつを手にかけたことを気にしているのであれば、そんな感慨は捨てろ。自分の理想のために、そんな私情は邪魔でしかない」
「そんな簡単に割り切れたら、苦労しない」
「あの女も、勇者になった時から覚悟はしていたはずだ」
確かに、セシリアもことあるごとに言っていた。自分はいつか、今までのツケを払う時が来ると。イリアを授かった時も、きっとその思いは変わらなかっただろう。
だが、それでも彼女は欲しかったのだ。安らかな生活も。家族も。
「……知ったような口を聞くな。あの人は、報われるべきだった。全てが上手くいったわけじゃないけれど、彼女はいつだって最善を尽くしていた。勇者だからって、魔王の血縁だからって、家族を奪われていい理由にはならないだろうが」
それをそんな淡々と、仕方がないと言い切られてたまるものか。
アレンの目の色を見てミランダは何かを理解し、心底残念そうに、大きなため息をついた。
「気持ちは変わらないと、そういうことか?」
「ああ。変わらない」
「……そうか。本当に残念だよ」
ミランダの瞳から、再び感情が消える。右手に握った『真実』の剣を高らかに掲げた。次の瞬間には自分の頭上に振ってくる憎たらしいほどに美しい剣を見上げる。
もうちょっと話を引き伸ばすべきだったか。またムキになってしまった。呼吸は整い切っていないし、足も生まれたての子鹿のようにふらふらだ。今も剣を杖代わりにして立とうとしているのに、足が言うことを聞かない。
今思うと、全てが中途半端だった。勇者にもなりきれず、罪滅ぼしのように魔族を助けて、少しはまともになったかと思ったが、所詮はこの程度だ。
せめて、イリアが無事にマルドレイクに入ってくれていれば、最低限の仕事はこなせたと言える。新しい依頼を受けた直後に不甲斐ないが仕方ない。
今頃どのあたりにいるのか。もう少し時間が稼げれば良かったが。
最後に思い浮かぶ彼女の表情は険しく、年不相応の、まるで決死の覚悟を決めた戦士の顔だった。そこら辺の子供と同じように、笑った顔を想像できないのが、本当に残念だ。
輝く銀髪が風でばらけ、陽光を反射する。額に浮かぶ汗まで、やけにリアルな質感があった。ふと、彼女の右手に何か握られていることに気づく。
あれは、閃光弾?
「目を瞑って!」
鋭い声に、アレンは思考を挟まずに瞼を閉じた。
次の瞬間、鼓膜をつんざくような爆音が空気を貫き、瞼ごしにでもわかる強烈な閃光が瞬いた。
耳の中にキンキンと残響音がこもる中、アレンの腕を誰かの手が取った。アレンは力を振り絞って立ち上がり、その手に身を委ねた。直後、足元にあった地面の感触が消え、バランスを失ったアレンは倒れ込む。急斜面になっているのだろう。アレンは地面を転げ落ちていく。
再び平地になると、アレンは瞼を開けた。すると、目の前には荒い息遣いをするマルギットがいた。焦茶色の髪は葉っぱや土がついてボサボサになっていた。
すぐ横には、逃したと思っていたイリアが立ち上がって、「こっちです」と指差した。
「お前たち、一体何を」
「お説教はあと。とっとと逃げましょう」
マルギットに遮られ、差し出された手をアレンは取った。
ミランダに斬られた傷が痛んだが、泣き言は言っていられない。一目散に走った。後ろを振り返るが、ミランダは追ってきていない。どうやら閃光弾が直撃したようだ。
勇者といえども、無警戒の状態から至近距離で閃光弾をくらえば、身動きは取れない。あれは人間の五感や、本能に働きかける武器だ。勇者といえども人間だ。視覚と聴覚が潰されれば、そう易々と動けない。
「ここまで来れば、一旦は大丈夫でしょう」
しばらく走ると、マルギットは雑木林の中で足を止めた。息を整えると、すぐにアレンの元にやってきて、治癒魔法をかける。
小さな傷口の血が止まり、みるみる内に傷が閉じていく。
一番深い傷も、完治とまではいかないが、出血は止まった。マルギットはすぐにポーチから青く透き通った液体が入った瓶を取り出し、蓋を開けてアレンの口に流し込んだ。
街で買った回復薬だ。治癒魔法のような傷口への即効性はないが、体力回復には大いに役立つ。喉に流し込んだ回復薬が、身体中の血管を巡る。
「おい、お前たち」
さあ、お説教だと口を開くと、マルギットがすかさず遮る。
「まず言うことは?」
「……ありがとう」
「よろしい」
「で、お前たちはどうしてここにいるんだ? 先に行けと言っただろう」
「ええ。そうね」
「どうして戻ってきた? 俺が何のために残ったと思っているんだ。せっかく時間を稼いだってのに、これじゃ全部無駄だ。全員仲良く殺されるだけだぞ」
「それもごもっとも」
マルギットは決まりが悪そうに頭をかいた。
「私が無理言って引き返したんです。マルギットは、アレンさんの思いを無駄にするなと、先に進もうと言っていました」
話を継いだのはイリアだった。アレンは厳しく、詰問するようにイリアを睨んだが、イリアは狼狽えなかった。毅然とした態度で、アレンと向かい合う。
「自分が助かるためにあなたを犠牲にしたら、きっとこれから先、胸を張って生きていけなくなる気がしたんです」
「言っただろう。それが俺の仕事だ」
「だとしてもです。私は、あなたに死んで欲しくない」
「はっ、出会ってから数日しか経ってない奴の命に、そこまで執着するか?」
「それ、めちゃくちゃブーメランですよ」
イリアの鋭い切り返しに、アレンは黙り込んだ。
「あなたが私を命懸けで助けようと思ったのは、きっと母さんに理由があるんですよね?」
「……」
「私もそうです。あなたのことを話す時、母さんは嬉しそうに話していました。昔の話をする時であんな風に笑っていたのは、あなたの話だけです。あなたはきっと、母さんにとってとても大事な人だったんだと思います。母さんの大切な人を、私は見捨てたくない。それに、昔の母さんのこと、あなたからたくさん聞きたい」
「知らなくていいことだから、君の母さんは黙っていたんだと思うぞ」
「今は違います。私は知りたい。知らなくちゃいけない。この世の中のことも、勇者のことも」
少女の言葉には、はっきりとした意志があり、力強い声にアレンは気圧された。これが十代前半の子供のものなのか。
自分も、自分の周りも、誰一人として傷ついて欲しくない。自身の理想を掲げ、そのために精一杯のことをする。
同じような人を、アレンは一人知っている。
「ぐっ」
すると、イリアは突然顔を苦痛に歪めて、膝をついた。
「どうしたの?」
マルギットが慌てて駆け寄ると、腹部から出血しているのを見つけた。
「ちょっと、これ」
「さっき、逃げる時にやられちゃいました」
傷からして、何か刃物が腹部に刺さっていたようだ。ここまでの道中で抜け落ちたのか、あるいは自力で抜いたのか、いずれにせよ相当量の出血があった。
やったのはミランダに違いない。恐らく投げナイフの類だろう。あの状況で、目や耳は使い物にならなかったはずだが、直前の声と閃光弾が炸裂した位置から、大まかに当たりをつけて投擲したのだろう。長年、勇者として戦ってきたものの底力だ。
しかし感心している場合じゃない。マルギットはアレンにしたように、イリアにも治癒魔法をかける。イリアの傷は若干の回復を見せるも、完治には程遠い。マルギットも連続して治癒魔法を使ったせいか、顔には疲労が伺える。
「私は大丈夫ですから。先を急ぎましょう」
「大丈夫なわけあるか」
無理に起きあがろうとするイリアを、アレンとマルギットが止める。
「でも」
「でもじゃない。君にもしもがあったら、それこそ何の意味もない」
イリアの傷口に布を当て、止血をする。マルギットはポーチから回復薬をもう一つ取り出し、イリアに飲ませる。
イリアの額に汗が滲む。腹に穴を開けられれば、大人であっても悶絶し、泣き叫んでいてもおかしくない。強がっていても、相当苦しいはずだ。
「……ごめんなさい。助けに来たつもりで、結局また足手まといですね」
彼女は悔しそうに顔を歪める。歯を食いしばり、目にはうっすらと涙が滲む。
「私は、本当に弱い。今も、ナターシャさんの時も、村が襲われた時も、自分じゃ何もできない。マルギットやアレンさんに助けられてばかりだ」
自分の非力さに憤る少女の姿は、子供の頃、魔族に村を襲われて一人泣き喚くことしかできなかったアレン自身の姿に重なった。
「それがわかっていて、どうして来たんだ? どうして、他人を助けようとする?」
アレンが尋ねると、イリアはアレンの目を真っ直ぐと見据え、悔しさを押し殺すと、肌身離さず持っている『正義』の剣をぎゅっと握った。
「それでも、何かしなくちゃって思ったんです。何かしなくちゃ、何も変わらないから。悲しい結末を、ちょっとでも変えたいと思うから。だから、私はこれからも、わがままで居続けます」
少女の言うことには具体性も実効性もなかった。気高いが、想いだけだ。
想いだけじゃ何も変わらないと、一喝する自分がアレンの中にいた。
だが、そうではない自分もいて、そいつは別のことを言うのだ。
想いだけじゃ何も変わらない。けど、想いがなければ何も為すことができないじゃないか。
何かを為す人は、その始まりに強烈な想いがある。想いがあるから、人は背中を押され、前に進む。
それはきっと、セシリアも、そしてミランダも同じなのだろう。
荒唐無稽。非現実的。綺麗事。絵空事。理想論。
純粋すぎる想いを嘲笑する言葉など、山のようにある。それでも、己の想いを実現するために、馬鹿みたいに進んでいく奴が世の中にはいる。
「そっか」
自分の呟く声が、妙に嬉しそうなのを自覚して、アレンはおかしくなった。
昔、自分にも同じような想いがあった気がした。
家族を失い、孤独になった自分を救ってくれた人への強い憧れ。
簡単になれるとは思わなかった。だけど、それでも憧れしまったのだ。
ああいう人になりたいと願ったいつかの自分の姿が、そこにあった。
「なあ、イリア。教えてくれ。君は何を望む? 君の思う理想は何だ?」
アレンは少女の真意を問う。魔王の血と、勇者の血を引く少女は、苦しそうな呼吸を整えることなく、腹の底から湧いてきた言葉を、そのまま絞り出す。
「魔族も、只人も、みんなが普通に暮らせる世の中であってほしい。家族を奪われることも、自分の命を奪われることも、理不尽に泣くこともない。生まれ故郷で、家族と一緒にパンを焼いて、普通に笑って暮らせる世の中にしたい」
それは彼女にとって、あったかもしれない、けれど叶うことのない夢。
誰もが手に入れることができ、でも誰かは決して手に入らないものだ。
「それは、まさしく理想論だな」
アレンが笑うと、イリアは恥ずかしそうに顔を赤らめ、そっぽを向いた。自分でもそんなことはわかっていると、言外に示していた。
「だけど、まあ、そうであってほしいよな」
続くアレンの呟きを、彼女が聞こえたかはわからない。
「君の母さんも、同じものを目指していたよ」
「そうでしょうか?」
「ああ。俺はそんな彼女に憧れたんだ」
アレンの中で、柔らかな熱を持った意志が膨れていく。
「さて、お前が助けた男は、それなりの仕事をするってところを見せないとな」
気の抜けた調子で言う男に、イリアもマルギットも目を丸くした。
「いいの?」
マルギットの口調は静かで、その瞳はアレンの覚悟を問うていた。
「こうなったら、もう仕方ないだろ。イリアを逃すためには、もう賭けるしかない。分は悪いがな」
アレンは回復しきっていない体で、ゆっくりと立ち上がる。聞かれているのは、そう言うことではないとわかっていたが、アレンは答えをはぐらかした。
「これ、ちょっと借りていくぞ」
「……はい。どうぞ」
イリアは短く、簡潔に答えた。
「母の形見ですから、必ず返してくださいね」
「ああ。わかってる」
アレンは小さくため息をつき、背中越しに手をひらひらとさせて、その場を離れる。
その右手には、一振りの剣が握られていた。
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