第15話 かつて勇者と呼ばれた女
「やっぱり、アレンさんには、母さんのこと話さない方が良かったのかな?」
アレンが席を立ち、イリアは早くも後悔し出していた。
「いや、いつかは言わないといけなかったと思うよ」
焚き火に手をかざしながら、落ち着いた様子で答えるマルギットに、イリアは首を傾げた。
自分たちは彼の助けを必要としている。彼の助けがなければ、きっとあっという間に勇者に捕まるだろう。先ほどの告白は、彼にとって衝撃的だったろうし、彼からの信頼を大きく損なったかもしれない。
なのに、マルギットは動揺する素振りは見せない。アレンは後で帰ってくるし、このまま依頼を完遂してくれると確信しているようだ。それが不思議で仕方がなかった。
「ねえ、アレンさんとは、どういう関係なの?」
そういえば、イリアは今までマルギットとアレンの関係を詳しく聞いたことはなかった。ふと気になったイリアの質問に彼女は、
「男と女」
「……今はそういうのいいから」
「どういう関係って聞くから」
アレンの気持ちが少しだけわかった。ちょっと、いやだいぶイラッとくる。
マルギットは「こういう時こそ冗談で空気を緩めようってんじゃない」と両手を上げて、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。
「まあ、一言で言えば腐れ縁ってやつね。十年前からの」
「そんな長いの?」
「アレンが軍を辞めた理由、話したでしょ?」
なぜ今そのことを聞くのかと、イリアは不思議に思いながらも頷いた。
「うん。自分を助けてくれた魔族の村が、只人の軍隊に襲われたって」
「そう。で、私、そこに住んでいたのよ」
「……え?」
「あいつが言っていたでしょ。一人を除いて、村人は全て殺されたって。その唯一の生き残りが、私」
「え?」
イリアは目を丸くして驚いた。話している内容と態度の違いに、イリアは聞き間違いを疑った。
「そんなこと、一度も聞いたことないよ」
「そりゃそうよ。一度も話したことないから」
イリアはマルギットを姉のように慕っていた。口の減らないところはあるが、頼りがいのある年上の女性のことを、自分は誰よりも知っているつもりでいた。
「村が襲われた時、母さんが私を逃がしてくれて、私は山の中に隠れたの」
「よく無事だったね」
「アレンの手助けもあったからね。身を潜めていたところを、アレンが見つけて、戦闘区域から逃してくれたのよ」
「アレンさんは、どうしてマルギットが生きているってわかったの?」
「私の死体がないことに気付いたんだって。それでだいぶ探したらしいよ」
マルギットはいつもと同じように飄々と話す。イリアはその時の二人のそれぞれの気持ちを想像しようとして、やっぱりできなくて、返す言葉に詰まった。
「そんなこと、アレンさんも言ってなかった」
「言う必要ないと思ったんでしょ。言ったら、イリアが変に気をつかうと思ったのよ。あんたの顔見て、やっぱり正しかったと思うよ」
そんなにわかりやすく顔に出ていたかと、イリアは自分の顔に手を当てた。
「その後は、どうしたの?」
「あんたも知っている通りよ。私は只人のふりをして大陸中を旅して、世の中のことを色々知った。村の外で魔族がどんな風に見られ、扱われているのか、とかね。私も子供の頃は村から出たことなかったから、社会見学をしようと思ったの」
ちょうど、今のあんたと同じようにね。と、マルギットは付け加えたが、そうは思わなかった。自分は今、マルギットとアレンに守られながら何とか旅をしている。だが、彼女は自分一人の力で生きてきた。
わかっていたことだったが、自分には知らないことばかりだ。いや、思っていた以上に自分は村の外のことも、そこで生きてきた最も身近な人たちのことも知らないのだ。
「アレンさんのこと、憎んだりしなかったの?」
「そりゃ、あんたが来なければって、最初は憎んだりしたよ。八つ当たりもした。でもあいつ、何も言い返さないし、殴られてもじっとしているんだもん。なんか虚しくなってさ。それに、その後自分でも調べて、軍が来たのは本当に偶然で、あいつとは関係なかったってわかって、仲直りしたんだ」
「じゃあ、アレンさんとはそれ以来、十年ぶりに会ったの?」
マルギットは「いいや」と首を振る。
「私は旅先で色んなことに首を突っ込んでいたからね。何度か痛い目見て、そんでたまーにアレンに助けてもらってた」
彼女の言いぶりからして、恐らくたまにではない。それはともかく、アレンがマルギットを助けてから、と言うよりマルギットと村人がアレンを助けてから、十年以来の付き合いだということだ。
「十年間、アレンのことをずっと見てきたからね。文句を言いながらも、あいつは助けを求められたら絶対に断らなかった。あいつの、魔族も只人も助けたいって思いが口先だけじゃないのは知っている。もちろん私に罪悪感を覚えていることもあるだろうけど、それだけじゃないと思う。つまり……」
「誓い?」
アレンが使った言葉が、イリアの脳裏に残っていた。マルギットは我が意を得たりと「そう。それ」と人差し指を向けた。
「だから、この依頼も同じ。あいつは絶対にあなたを見捨てたりしない」
マルギットは静かに、しかしはっきりと断じた。お調子者の彼女が静かに語ると、妙な説得力を感じる。
「でもね、かっこいい風に言っているけどさ、結局あいつは、ずっと過去を引きずっているだけなのよ。私の村のことも、セシリアのこともね。どっちも、あいつのせいじゃないのにさ。だから、この仕事が一つの区切りになればいいと思ってる」
「区切り?」
「そう。前を向いて、自分の思うままに生きるきっかけ。ほら、あいつ、仏頂面で性格もアレだけど、良い奴だし、何より頑張ってる。頑張ってる奴は、やっぱり報われてほしいじゃない?」
「……そうだね」
「だからさ、あいつが戻ってきたら、ちゃんと話してほしいの。あなたや、あなたの家族のことを、ありのまま」
マルギットの微笑みに、イリアは数秒黙り込んだ後、彼女の目を見て大きく頷いた。
アレンは少しでも頭を冷やそうと、川の水で顔を洗った。水面に映る自分の顔は青ざめ、自分で見てもみっともないくらいに動揺していた。風に揺れる水面は、次には子供の顔を映し出しそうで、アレンは苦い思いで立ち上がった。
イリアがどうして『正義』の勇者に興味を持っていたのか、ようやく理解できた。母親のことだからだ。彼女の知らない母親の姿を知りたいと願うのは、不思議なことではない。
セシリアを最後に見た時の年齢は、確か二十五くらいだったか。既に大人ではあったが、まさか子供ができるとは思わなかった。アレンがイリアの知らない勇者の姿を知っているように、イリアはアレンの知らない母親の姿を知っている。
彼女が母親をしている姿は、はっきり言って全く想像ができない。ズボラだったし、怠け者だったし、何より彼女と結婚できるような相手がこの世に存在すると思っていなかった。よほどの器量を持った男だろうとは思ったが、魔王の弟ともなれば、器量はあるかもしれない。
魔王の血縁と勇者の婚姻だ。きっと色々な試練があっただろうと勝手に妄想して、それらを乗り越えてイリアがいると思うと、なぜか落ち着かない気持ちになる。
『正義』の勇者としての彼女を最後に見たのは、十三年前になるだろうか。時は人魔戦争の終盤、勇者を筆頭とする只人の軍勢が勢力を盛り返し、戦局が大きく動いていた。
仇敵である魔王を討つべく、激しい侵攻が行われていた。
セシリアとアレンは、その最前線にいた。
アレンは今のイリアと変わらない歳で、セシリアに付き添って戦場を共にしていた。今思えば異常なことだが、当時はそれが当然だと思っていた。
セシリアは求められるままに戦い、全ての戦いで勝利した。堅固な要塞を攻略し、交通の要所となる街を陥落させた。
だが、戦場で彼女が笑ったところを、アレンは一度も見たことがなかった。黙々と戦い、時折虚な目で後ろを振り返る。
彼女が切り開いた道には、瓦礫と魔族の死体が転がり、美しかった街並みも火炎の中に沈んだ。雪崩込んだ只人の軍勢は、情け容赦なく魔族を殺していく。
混沌と理不尽が溢れ、目を瞑りたくなるような蛮行も起きた。まさしく地獄だった。彼女はその光景を生気のない目で見続けた。彼女にとって目の前で起きている地獄は、彼女自身が招いたものだった。
その寂しく、弱々しく、哀れな後ろ姿は、どれだけ夢見がちな子供でも、現実というものを理解するには十分すぎるものだった。
「勇者はね、魔族にとっての魔王なのよ」
セシリアの言葉が如実に物語っていた。自分が憧れていた、強く、優しく、苦しむ人々を救う戦士などいないことを痛感した。目にしている光景は、強いという一点を除いて、全てが正反対だった。
それでも彼女は戦い続けた。自分が戦うことで、戦争が少しでも早く終わることを信じて。
だが、無理は長続きしない。限界が来る。彼女は目に見えて疲弊し、口数は減り、覇気をなくしていった。
その限界が来た。それだけのことなのだろう。
ある日、彼女に与えられた命は要塞都市の陥落だった。他の勇者たちの活躍もあり、各地で魔族は敗走し、生き残りが集結して背水の陣で待ち構えていた。
「ねえ、アレン。あなた、いくつになった?」
戦いが始まる直前、セシリアは藪から棒に聞いてきた。
「十五だけど」
「もうそんなか。あんたさ、『正義』の勇者、やる? 私さ、ちょっと疲れちゃった」
勇者になることを望んで、今まで訓練をしてきたのに、どうしても答えることができなかった。ちょっと前まで、いつでも『正義』の勇者を継いでやると息巻いていた子供は、現実に直面して尻込みしていた。
「そんな弱気なこと言うなよ。セシリアは勇者なんだからさ。俺も一緒に戦うから、大丈夫だって」
励ましたつもりの台詞は面と向かって言うことができず、そのせいで彼女の表情を窺うこともできなかった。
「私ね、勇者じゃなかったら、パン屋になりたかったのよね。好きなのよ、パン」
「は?」
「両親がパン屋だったから、二人をよく手伝ってたんだよね。家族で食べたパンの味がね、忘れられないんだよね」
「あっそ」
俺は家族ではないのか、と不貞腐れるアレンの頭をわしゃわしゃと撫で回される。彼女の元に来てから、ことあるごとにこれをやられる。
「あんたは、勇者以外で何かなりたいものってあるの?」
「ないよ。俺は勇者になるために今までやってきたんだ」
「それは家族を亡くしてからでしょ。その前は、何かなかったの?」
「さあね。あったかもしれないけれど、忘れた」
「そっか。そうだよね」
セシリアは少し前から、悲しそうに微笑むことが増えた。その表情が苦手で、彼女の顔を真っ直ぐに見られなくなっていた。
「今さら、俺に他の道なんかないよ」
鬱陶しくなって、半ば八つ当たりのように俺は彼女の手を払った。子供の癇癪だった。
だけど、セシリアにとっては言われたくない言葉だったようで、彼女は俺を背後からぎゅっと抱きしめた。
「な、なんだよ」
「そんなことないよ」
「は?」
「あなたには、勇者以外の道だってあるの。忘れないで」
彼女の鍛えられた腕も、柔らかい胸の膨らみも、体の暖かさも、何もかもが落ち着かなかった。うまく言葉にできない違和感に、少年は黙って彼女の腕に手を置いた。
その違和感に自分がもう少し上手く応えてあげられたら、あるいは違う結末もあったのだろうか。激しく動く戦況に自分自身も余裕がなく、未来への不安を必死に飲み込むことに精一杯だった。
そして大方の予想通り、戦場は苛烈を極めた。後がない魔族はそれこそ死に物狂いで戦い、異常な士気は数で上回る只人の軍勢を押し返すほどだった。
どちらが優勢なのか、それとも均衡しているのかすらわからないほど、無秩序に繰り広げられる戦いで、指揮官たちはそれまでと同じように、通り一辺倒の手段に出る。
セシリアに状況の打開を命じ、激戦地に放り込み、後は任せる。
考えることを放棄した指揮官たちの希望に、彼女もまたいつも通り答えた。
敵を圧倒し、要塞までの道を開き、只人の軍勢が、彼らの心の中に巣食う悪意とともに雪崩れ込む。
暴虐で、悪辣で、残酷な悪意が街を襲う。制圧というには、あまりに過剰な行い。
アレンはセシリアと逸れていたが、彼女の後を追って街に入った。悲鳴のする方に走っていくと、只人の兵士たちが、明らかに兵士ではない丸腰の魔族たちを襲っていた。
「くたばれ、魔族ども!」
文字面は怒りに満ちていても、そこにあったのは快楽だった。兵士たちは笑っていた。ただ楽しそうに、剣を振り下ろす。慈悲を求め、泣き叫ぶ魔族たちを容赦無く殺す。
そして傍では、若い女性の魔族を痛めつけ、服を脱がせ、陵辱し、そして甲高く笑う男たちがいた。
込み上げてくる吐き気と不快さに、アレンは自然と足が伸び、盛りのついた畜生同様に腰を振る男の背中を叩き切った。
「ぎゃあッ」
「なんだ?」
息が荒い。訓練と肉体改造を経て、強化された体がそれしきのことで疲れるはずもないのに、体は酸素を求めていた。ここではないところの酸素だ。
「何しやがるんだ」
「見てわかんねえのか」
地面に倒れている畜生の仲間が、いきり立って剣を抜いた。この状況で何をしやがるなどとわかりきったことを聞くのも、自分達がそうされることに全く想像がいかないのも、反吐が出るほど愚かだ。
「早く立って逃げろ」
今の今まで最低最悪な体験をしていた魔族の女性に、背中越しに言った。
どこに逃げろというのか、という問いに対して答えはない。ただ逃げろとだけしか、アレンには言えなかった。彼女の顔を真っ直ぐ見ることもできはしない。
背後で、怯えた声を出す女が、状況を察するや否や慌てて駆け出す。必死な足音が徐々に遠ざかっていく。
「このガキッ」
兵士の一人が斬りかかってくる。自分よりも二回りほど小さな子供に、問答無用で剣を振るう。だが、仮にも勇者になるべくして育てられてきた人間は、たとえ子供であろうとも、相応の力は備えている。
アレンは真正面から、力任せに剣を振り下ろし、男の肩口から腰にかけて剣ごと両断した。
兵士は断末魔を上げることもなく、地面に倒れ込んだ。
「こいつ、ただのガキじゃねえぞ!」
「おい、思い出したぞ。このガキ、勇者の連れだ」
「てめえ、なんだって味方に剣を向けるんだ」
「こんなクソみたいなことを面白おかしくできる奴らを、味方に持った覚えはない」
「クソって、はあ? 何言ってやがる。こんなこと、どこでも起きるだろうが。俺たちは戦争しているんぜ?」
「だからって、何をやってもいいってわけじゃないだろうが」
「ガキが。きれいごと抜かしてんじゃねえ」
「きれいごととか現実とかって言葉をとりあえず使えば、何でもかんでも許してもらえると思うなよ。クソジジイ」
胸の辺りの不快感が、口から漏れ出ている。気をしっかり保たなければ、今にも決壊しそうな憤りを、なんとかコントロールしようとする。
「正義ヅラしやがって。……いや、仕方がないか。何せ、『正義』の勇者様の従者だもんな」
「……ッ」
「お前のご主人様も、強いだけでなよなよしてるし、耳障りのいい御託ばかり並べやがる。正直うざったいんだよ」
だが、嘲笑の矛先が彼女にまで及ぶとなれば、話は別だ。
彼女が一体どんな想いで戦っていると思っているんだ。
彼女がその名前に、どれだけ押しつぶされそうになっていると思っているんだ。
湧き上がる怒りのまま、アレンは兵士たちを睨みつけ、今にも斬りかかってやろうと意気込むが、ふと視界の奥に捉えたものに足を止めた。
火の手が上がる道の奥から、一つの人影が現れた。鍛え上げられた体、炎よりもずっと暗い紅蓮のごとき赤髪の女。その手には、忌々しい白銀の輝きを放つ剣があった。
「偉そうに言っているお前たちの方が、俺たちよりよほど殺しているんだ。この町をこんなにしたのも、お前の大好きな勇者様のおかげだろうがよ」
彼女が近づいてくることに、男たちは気づいていないのだろうか。コツ、コツと、こんなにはっきり足音が聞こえるのに。静かで、重い、嫌な音。
どうするべきか、必死に考えていた。どうしたらいい。そもそも、なんで何かしないといけないと思うのか。動揺が顔に出てしまったのか、沈黙したことで男たちを調子付かせてしまったのか、彼らは馬鹿みたいに饒舌だった。
「それになあ、俺たちは『正義』の勇者と同じ側にいるんだ。ってことは、俺たちがやっていることも『正義』ってことだよな?」
「ちげえねえ。ガハハ」
頼むから黙ってくれ。そして、考える時間をくれ。金縛りにあったように、アレンは立ち尽くしていた。
「これはよ、魔族に自分達のものを奪われた俺たちの、正当な権利なんだよ。わかるか? それが正しく行われているってわけ。他でもない、我らが『正義』の勇者様のおかげでな」
「最後のところだけは、全くもって同感ね。これは、私のせい」
平坦で、無機質で、知っているはずなのに知らない声だった。抑揚のない声なのに、奥にあるものを明確に感じ取れる。声を張っていなくても、よく通る声に、兵士たちもびくりとみじろぎした。
彼女は兵士たちの真後ろに立っていた。きっと彼女のものではない、真っ赤な血で鎧を染め、氷のように冷たい表情をした出立ちに、その場の全員が本能的な恐怖を感じた。
「あんたたち、アレンに剣を向けていたわね」
「い、いや、勇者様。これは違うんですよ」
兵士たちは反射的に剣を下ろし、なんとか取り繕おうとする。先ほどまでの威勢は消失していた。
「ちょっとした行き違いがありまして……」
「これが私のせいなら、最低限の責任は果たさないとね」
「へ?」
「セシリア、まっ……」
一閃。
彼女は剣を横に振った。定規で線を引くように、すっと、滑らかに剣が空中を滑る。
そして直後、ぼとっと質量のあるものが地面に数個転がり、そしてまた数秒して、脱力した兵士たちの体が地面に倒れた。さっきまで頭部があったところに、血だまりを作る。
『正義』の剣から、鮮血が滴る。
セシリアが近寄ってきても、アレンは動けなかった。彼女が手を伸ばし、少年の頬に触れる。緊張で体がこわばると、彼女はそこで手を引っ込めた。
「大丈夫だった?」
「あ、ああ」
「そ。よかった。まだ、何人か強い魔族が残っているから、それっぽいのに出くわしたら、すぐに逃げなさい」
セシリアはそれだけ告げると、アレンの横を通り抜けていった。
「ちょっと、セシリア」
思わず裏返った声で呼び止めると、セシリアは立ち止まり、振り返った。
何かを言わないといけないのに、何を言ったらいいのかはわからない。いつもそうだ。池の中で餌を待つ魚みたいに、口をぱくぱくさせるだけ。
セシリアは苦笑すると、燃える街並みを背にして、
「ねえ、これでもまだ、あんたは勇者になりたい?」
それだけ言い残すと、アレンが答えるのも待たずに、彼女は再び歩き出し、瓦礫と化した街の中に消えていった。
それが、彼女との最後の会話になった。
彼女の最後の問いかけに答えることはできなかったが、今こうして傭兵になっている自分が物語っていた。
彼女にとって勇者という役割が、正義という言葉がどれだけ重荷になっていたかを、自分は薄々勘づいていたはずなのに、何もしなかった。そして、耐えきれなくなった彼女は自分の前から姿を消した。
俺はセシリアが好きだった。ひだまりのような温かさを持ち、気高い彼女が大好きだった。
俺は勇者が嫌いだった。大切な人を苦しめ、奪っていったその名前が大嫌いだった。
そして何より、馬鹿みたいに幻想を抱き、大切な人が苦しんでいることを知りながら何もできなかった自分が嫌いだった。
セシリアに救われた時から、何も変わっていなかった自分に失望した。
だが魔族からすれば、自分と、嫌悪したあの兵士たちに大した違いはないのだと知るまで、さらに数年もかかったのだから、我ながら学ぶのが遅い。
振り返ると、少し離れたところで、イリアが川辺の岩に座っていた。今はマルギットと何やら話している。彼女の膝には、『正義』の剣があった。
セシリアの腰にあった時と何一つ変わらない、荘厳で、美しく、そして嫌悪するべき勇者の剣だ。それが、イリアがセシリアの娘であることを裏付ける証左となっていた。
セシリアもアレンと同様、家族を失い天涯孤独の身の上だった。彼女に本当の家族ができたということは嬉しくもあり、そしてちょっと寂しい気持ちもあった。これが少女への嫉妬だとは思いたくない。
全く忙しない数日だ。魔王の姪を拾ったかと思えば、奴隷を買い、魔王軍の残党と一悶着して、ここに来て少女がセシリアの娘だと来た。
イリア達が事実を黙っていたことは、正直腹は立つ。杓子定規に嵌めて考えれば、依頼主として不誠実だ。
とはいえ、隠し事をしていた点については自分もまた同じだから、彼女ばかりを責められない。行き場を無くしたモヤモヤとした思いが、自分の元に返ってくる。
セシリアへの思いも、セシリアを通して見るイリアへの思いも、まるで整理できていない。できていたつもりで、実のところは見ないようにしてきただけの、小さな感情の気泡のようなものがぶくぶくと溢れてくる。それらを一つずつ整理していたら、きっとここから一歩たりとも動けない。
いや、違う。整理してこなかったから、今こうして足を縫い止められているのだ。
「ふう」
アレンは何度か深呼吸をして、吐く息と一緒に雑念を一度外に追いやると、イリアたちの元へと戻った。
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