第13話 イリアの秘密
アシリパ山脈は、オルレント皇国とマルドレイク帝国の国境沿いに、南北に伸びる切り立った山脈だ。大の大人でも踏破するのは難しい。十二の少女にとっては尚更だが、今、アレンたちがマルドレイクに入るには、そこが最善の道だった。
もちろん、マルドレイクに入る道は他にもある。商人たちが使う真っ当な陸路、つまり整備された街道をそのまま進み、関所を通って国境を越える道もある。
ただ、これまた当然だが、国境手前でほぼ確実に待ち伏せ、あるいは検問が敷かれているはずだ。勇者から逃げるために、国境に向かうことは向こうも想定している。
他にも迂回路はあるにはあるが、国境を跨ぐために手順が必要なため、時間がかかる。勇者に追われている中で、悠長に待っているわけにもいかない。
日が天辺に登る頃までは整った街道を行っていたが、道を逸れると、途端にゴツゴツとした荒れた地面を歩くことになった。木の枝をかき分けて、やっと人が一人通れるくらいの幅の道を進む。
舗装などされておらず、所々ぬかるみ、目では見えにくい凹凸があちこちにできている。慣れていないと、こういう道は歩きにくく疲れやすいものだが、しかし、思いの外イリアは苦もなく歩いた。
「村の周りも舗装された道なんてありませんでしたから」
良い意味で想定外だった。どうやら、この少女のことを見くびっていたようだ。
「なるほどな。それも持たなくて大丈夫か?」
アレンが指差したのは、イリアが肩からかける細長い布袋だ。相変わらず歩きにくそうにしている。答えは何となくわかっているが、聞いてみる。
「大丈夫です。これはどうしても自分で運びたいんです」
「よほど大事なものなんだな」
「はい。母の形見なんです」
「そうか。それは大事なものだ。大切にしないとな」
イリアは大きく頷いた。思った通りの答えだったが、アレンもさして気にすることなく前に向き直った。彼女からさらっと母親の話が出たあたり、多少は彼女との関係も良くなったと喜ぶべきか。
「それにしても、本当にこの道なの? というか、これは道って言っていいの?」
「隠れ道なんだから、道っぽかったらダメだろ」
「こんな道、なんで知ってるの?」
「ギルドが受ける依頼の中には、今回みたいに表の道を使えない警護依頼もあるからな。いざとなった時に国外へ抜ける道をいくつか用意しているんだ。ここはそのうちの一つだ」
「さすがギルドね。清濁合わせてなんでもありね」
とはいえ、ここはまだ前座だ。獣道を行くが如く、ガサガサと騒がしい音を立ててしばらく歩くと、開けた場所に出る。
背の高い木々は途切れ、開けた視界には延々と山道が続く。砂利ついた道には大小様々な石、というより岩というべき大きさのものが散乱し、勾配はきつい。色味があるのは、岩の間にぽつぽつと生える程度の草木だけだ。
そこがアシリパ山脈の入り口だった。
まるで線引きされたかのように綺麗に区分けされ、先が見えない険しい道を前に、イリアは声には出さないものの本音は明確に顔に出ている。
「うえ〜、しんどそう」
「お前は黙って登れ」
そして、声にも出すのが彼女の頼れる姉貴分だ。
十分にタフさを見せてきたイリアだが、ここでガクッと速度が落ちた。さすがに整備されておらず、人が歩くことを想定していない山に分け入るのは格別の体力が必要だった。
アレンやマルギットの胸あたりまである段差もしょっちゅうだが、イリアはその度に両腕両足を使って、一生懸命に体を引っ張り上げる必要があった。近くの岩を足場にして、時折マルギットにお尻を押してもらいながら、イリアは山道を登り続けた。
流石に子供の足で登るのは一苦労だ。休憩を多く取りながら、アレンたちは着実に進んだ。もう少しペースを上げることもできたが、その分身体的にも、精神的にも余裕がなくなる。
その余裕の無さは、この道の最難関門においては致命的になりかねない。
「あの、ここを通るんですか?」
その関門に差し掛かった時、案の定イリアが冗談でしょという顔をしてこちらを見てくる。そう思いたい気持ちはわかるが、残念ながら冗談ではない。
巨大な山にできた裂け目は、天変地異でも起きたかのように、圧倒的な自然の力を感じさせた。あるいは魔王と勇者がここで戦ったと言われれば、さもありなんと思える。
眼下に広がる巨大な峡谷は見渡す先、地平線まで続いていた。イリアは下を覗き込み、米粒ほどに見える緑の斑点が、今自分の真横に聳え立つ、イリアを縦に四人積んでようやく同じ高さの木々と同じものだと知り、足をすくませた。
アシリパ山脈は山岳地帯と、峡谷地帯の大きく二つに分かれる。峡谷地帯を作ったのは、地震でも雷でも勇者でもなく、水と時間だ。アシリパ山脈を水源とする河川が、気の遠くなるほどの長い時間をかけてゆっくりと大地を削り、切り立った崖を作り上げている。
これから進もうとしているのは、その岸壁に作られた細い道だった。
小道は崖から人一人分だけ迫り出しているような狭い道で、そこから足を踏み外すと、何百メートルという崖下に真っ逆さまに落ちていってしまう。欄干などない岸壁から下を覗いてみると、ずっと下に川がゆったりと流れている。
イリアも一瞬たじろいだが、グッと踏みとどまって、覚悟を決めて顔を引き締めた。
「大丈夫か?」
「はい。行きましょう」
三人はアレン、イリア、マルギットの順番で、互いの体をロープで繋いで命綱とし、ゆっくりとした足取りで道を進み始めた。「足元をよく見ろ」などと注意する必要もなく、彼女は足元を凝視しながら一歩ずつ進む。
会話はなし。イリアの集中を削ぐつもりもなく、アレンはロープの張り具合と、時折後ろを見ながら歩くペースを変えた。だが、気を張り続けるのは限度がある。
少し進んだところで、崖の内壁が削れて窪みになった場所に出た。この道を使う際は、必ず使う休憩場所だ。アレンは「休憩しよう」と後続のイリアを促した。
足元に意識を集中し、今までの人生で一番気を遣って歩いたであろうイリアは、休憩という言葉にぱっと頭を上げて、息を吐いた。
その一瞬。
一瞬だけ緊張が解けた、その時、イリアが足を出した場所に突然亀裂が走る。
「イリア!」
アレンが叫ぶが、異変に気付く間も無く、イリアは脆くなった地面を踏み抜いてしまう。
「……!」
イリアはバランスを崩し、崖側に体が傾いた。空中に放り出され、彼女の顔面が青ざめる。
アレンとマルギットの両者は咄嗟に駆け出してイリアの手を掴もうとするが、イリアの手がすり抜けていく。アレンの額に汗が吹き出す。体に張ったロープがピンと伸び、アレンは自分を引き摺り下ろそうとする力に、両足を踏ん張って抗う。
アレンは努めて冷静を保とうと一つ深呼吸をすると、体勢を崩さないように崖下を見下ろした。
イリアは宙ぶらりんになって、左右に揺れていた。
「イリア!」
マルギットが叫ぶ。
「大丈夫だ。今すぐ引っ張り上げる」
「待ってください」
ロープに手をかけたアレンを、イリアは止めた。
「なんだって?」
「荷物が」
イリアの視線は上ではなく、下に向けられていた。視線の先には、細長い布袋が、岸壁の突起に引っかかっていた。彼女がずっと大事そうに肩から下げていた、あの布袋だ。
「それは後で取ってやる。まずは君を引っ張り上げる」
そう言っているうちに、袋は徐々にずり落ちていき、今にも崖下に真っ逆さまに落下しそうだ。イリアはそれを見ると、アレンにとっては最悪に面倒な行動に出た。
体に巻かれた命綱を外し始めたのだ。
「おい、何やっている。やめろ!」
アレンは声を荒げて制止するが、イリアは聞かなかった。ロープは緩み、一気に引っ張り上げることもできない。ついさっきまで一歩足を踏み出すのも怖がっていたのに、急に肝が据わったようだ。
奴隷の一件といい、どうやら彼女は決心と実行にタイムラグがないらしい。
イリアは崖の突起に器用に手足をかけて体を支え、完全にロープを外した。
「あの馬鹿。お前からも何か言ってくれ」
「……」
アレンはマルギットを促すが、彼女は険しい顔をしたまま何故か黙っている。そして、それだけでなく、今後はマルギットまで降りて行こうとしている。
「全く、なんだってんだ」
「私が連れて戻る」
そう言って、「俺が行く」と言う暇もなく、彼女はさっさと崖を降り始めた。
二人の間にいたイリアがロープを解いたことで、マルギットとアレンの間を繋ぐ命綱はもうない。アレンまで降りてしまうと、イリアがロープを取る選択肢がなくなる。
だが、イリアにそのつもりは毛頭ないようだ。彼女は袋が引っかかっている突起のところまで降りていって、左手を離した。
「馬鹿、やめろ!」
不安定になった体が頼りなくふらつく。アレンの警告を聞かず、イリアは布袋に手を伸ばした。
「イリア、それも回収するから。今はそこでじっとしていなさい」
後から追いかけていったマルギットが、イリアに近づいていく。
だが、実際布袋は肩から下げる紐が辛うじて引っかかっている状態で、いつ落下してもおかしくはない。
それを分かっているのか、イリアは体を目一杯に伸ばして、袋を掴もうとする。岸壁を掴む彼女の右手の指先がぷるぷると頼りなく震え始める中、ついに彼女の指が布袋にかかった。
「……やった」
しかし、それと同時に、彼女の右手が限界を迎えた。
するっと、石鹸が手から滑り落ちるように、彼女の右手が岸壁から外れる。「あっ」という少女の声がアレンの耳に鋭く刺さる。
瞬間、アレンは身を乗り出し、自らも崖を蹴って飛び降りる。条件反射で体が動いていた。
しまった、などという余計な後悔を一瞬で思考から追い出したアレンは、落下していくイリアを追った。風を一身に受け、空気のうねりが耳を打つ。
袋はイリアと一緒に落下していく。彼女はこんな状況になっても、必死に袋に手を伸ばすがすんでのところで届かない。
しかし、彼女の背後、いや上から腕が伸びてきて、彼女と袋をキャッチした。
「捕まえた」
それはアレンとほぼ同じタイミングでイリアを追ったマルギットだった。彼女はイリアと袋をがっちりと掴んだ。
「『春を運び、花を揺らし、時に散らす風の精よ。優しく、時に激しい、気まぐれな汝の力を貸したまえ』」
祝詞を唱え始めるマルギットの周りに、風の気流に乗って僅かに発光する光の粒子が出現する。その一瞬の後、アレンが二人に追いついた。
「……全く。イリアを離すなよ」
アレンは空中でマルギットの背中から右腕を回して脇に抱えると、すぐさま体勢を整え、左手を岸壁に伸ばした。
突っ込んだ手が岸壁をごりごりと音を立てて削っていく。勢いが殺され、落下速度が徐々に落ちはじめるが、三人分の重量に落下のスピードも加わっていて、簡単には止まらない。指の皮膚が裂け、アレンの顔に細かい血が飛び散った。アレンは歯を食いしばり、次に左足も使って壁面を捉える。眼下には凄まじい勢いで地面が近づいてくる。
「『我らの行先を占え。我らの行先を祓え。我らの行先を汝の慈愛を持って吹き抜けろ』」
マルギットの詠唱が終わる。アレンは、勢いを限界まで殺すと、壁を蹴って跳躍した。壁面から離れたアレンは、眼下の光景が砂と小石から水面に変わるのを確認する。川べりの硬い地面を越え、その先にある川に落下地点を変えた。
「『風のまにまに』」
アレンは空中で二人を抱き締めると、自分の体を下にする。マルギットが祝詞を紡いだ途端、体に当たる風が一瞬和らぎ、背中から押し上げられるような強い浮力を体に受ける。
それは不思議な感覚で、浮力と落下が同時に作用する、文字通り、浮きながら落ちていく感覚。
落下の速度はしかし相殺しきれず、アレンは水面に突っ込んだ。水深はそれほど深くなく、アレンは大きな水飛沫を上げながら川底に体を打ちつける羽目になったが、それでもマルギットの魔法によって衝撃は大きく和らいだ。と思われる。なにせ生きているのだから。
アレンは痛みに顔を顰めながらも、すぐに川底を足で蹴って、川面に顔を出す。
「ゴホッ、ゴホッ……痛ってぇ……。大丈夫か?」
「私は大丈夫。あなたが守ってくれたから……イリアは?」
「ゲホッ、私も大丈夫です」
「君の大事なものは?」
「こっちも大丈夫です」
びしょ濡れになりながら川辺に上がったイリアの手には、例の布袋が握られていた。
「そりゃ重畳」
アレンは強打した背中の痛みを堪え、重い足取りで川べりにたどり着いた。岸壁を掴んだ左指の皮が剥がれ、べったりとした血が指先についていた。
「そこに座って」
マルギットは川縁に転がる岩にアレンを座らせる。
「『苦痛を払い、健やかなる安息を。
彼女の掌に淡い緑の光が灯り、そっとアレンに触れた。ほんのりと暖かな熱を持った光がアレンの体へと溶けていく。指先の血が止まり、背中の痛みが少し和らいだのを感じた。
「全部治るわけじゃないけど、少しは楽になるわ」
「随分楽になる。流石だな」
「それはこっちの台詞よ。本当に助かったわ」
「仕事だからな。とはいえ……」
只人の治癒魔法とは比べるべくもない効能にアレンが感心していると、びしょ濡れになったイリアが、しおらしく縮こまっていた。
「……ごめんなさい」
イリアは申し訳ないと何度も頭を下げる。やはり相当怖かったのか、足は震えている。流石に反省はしているらしいが、そうでないと困る。
「全く、俺でなかったら死んでいたぞ」
「本当にごめんなさい。アレンさんの方は……」
「俺の身体は特別頑丈でね」
勇者になるべく繰り返した訓練と、苦痛でしかなかった施術がこんな形で役立つとは。アレンは上を見上げると、今自分達が落ちてきた岩壁の高さに嘆息した。左手の皮が少し剥がれたのと打ち身程度で済んだことは、幸運としか言いようがない。
「大事なものだとはわかっていたが、さっきのは異常だぞ。その袋は自分の命より大事なのか?」
「……そうかもしれません」
自分の命とどっちが大事かと質問をした時は、質問者はほぼ間違いなく自分の命だという答えを想定しているから、しおらしく、素直に、簡潔にそう言われてしまうと、案外どうしたらいいか困ってしまう。
保護者兼、彼女の頼れる姉貴分を横目で伺うが、彼女も呆れたような顔こそすれ、イリアをこっぴどく叱ろうとする気配はない。
「なあ、教えてくれないか。その袋の中に一体何が入っているのか。そこまでする理由はなんだ?」
依頼人が大事にしているところにはなるべく立ち入らないようにしたいが、ここまで来るとそうも言っていられない。反省はしていても、同じことが起これば彼女はまたやるだろう。
袋を大事そうに抱え込んだまま、イリアは黙り込んだ。マルギットと目線で何かやりとりして、彼女がゆっくりと頷くと、イリアは瞑目し、そして意を決したように、袋の紐口を解いた。
袋がするりと落ち、中から現れたのは一振りの剣だった。純白の鞘に、金色の柄が乗っかっている。鞘には、柄と同じ金色の筋で旋風のような流線が描かれていた。
アレンは口を挟まなかった。というより、言葉を失っていた。
その剣の全容を見た時、アレンはそれが何なのかに気づき、息を呑んだ。
その剣を、かつて見たことがあったのだ。忘れるわけもない。
今から十年以上前、アレンが追いかけ続けた戦士の腰にぶら下がっていた。
その剣が美しい線を描き、数多の魔族を屠ってきた光景を、何度となく見てきた。
どれだけ時間が経とうとも、見間違えるはずもない。
これは、セシリアの剣だ。
数秒間、止まった思考がようやっとそこまでやってくると、アレンは思い出したかのように、喉から小さな声が漏れた。
「『正義』の剣……」
勇者が勇者たり得るための武器。勇者の力を剣身に宿し、人魔戦争の象徴となった剣。『正義』の勇者が失踪した時に、一緒に行方知れずとなった至高の一振り。
アレンは剣を凝視し、そして剣を持つ少女に視線を移した。
どうして君がこの剣を持っているんだ。
確かにこれは大事なものだ。
追手の本当の狙いはこっちではないか。
などと、言ってやりたいことはたくさんあるが、一拍置いて、一つ目の疑問には、ちょっと前に彼女自身が答えていたことに気づく。
これは、母の形見なんです。
脳が焼けるようだった。
「なあ、君の母親の名前を聞いてもいいか?」
恐る恐る、自分でもわかってしまっている答えを、確認のために少女に尋ねる。
「……母の名は、セシリア・レンフレッド。人々から『正義』の勇者と呼ばれていた人です」
「……………………………………………は?」
どうやら、着水の時に強く頭を打ったようだ。
頭の中で鐘を鳴らされているように彼女の声が反響し、視界が白黒に明滅する。
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