要石悪尉現れる

増田朋美

要石悪尉現れる

その日、杉ちゃんと蘭は、久しぶりに遠出をしようと言うことで、山梨の善光寺で行われている写経会に参加した。身延線で、3時間近くのって善光寺へ行き、無事に写経大会にも参加し、お土産も買って、さあ帰ろうと言うことになった。本来は普通列車に乗って帰るつもりだったが、10分後に特急富士川号が発車すると、駅員から説明を受けて、二人は特急券を買って、駅員に手伝ってもらいながら富士川号に乗った。駅員のススメというかほぼ強制的に、二人は特急富士川号のセミコンパートメント席に乗せられた。いわゆる特等席と呼ばれる超高級な席であったが、障害者がそういうところに乗せられるというのは、やっぱり安全を考えてのことだろう。ちなみに、セミコンパートメント席は、普通の座席と違って、四人向かい合わせになって乗るようになっている指定席で、料金はやや高くなるが、4人だけしか乗車しないというものである。杉ちゃんたちはとりあえず、駅員に車椅子から降ろされて、座席に座らされた。車椅子は乗務員が預かるという。更に、余った座席には別の客が乗ってくる可能性もあるというので、杉ちゃんたちは、なんでこんなに、不便な電車なのだろうと文句を言っていた。

電車は、甲府駅から出て、南甲府駅に停車した。ここから乗る客はあまり多くないけれど、何人か客が、乗車してきた。まあ多分、このセミコンパートメント席であれば、あまり乗客は増えないかなと、杉ちゃんたちは言っていたのであるが、

「失礼します。お隣に座ってもよろしいですか?」

と、しゃがれた男性の声がして、杉ちゃんたちはびっくりする。

「は?だってここは指定席だったはずでは?」

思わず杉ちゃんがいうと、

「はい。指定席を取るにはこちらの座席を取るようにと言われましたので。足が悪いので、確実に座れる座席をと申し上げましたところ、ここしか空いていないということですから。座らせてください。」

と、その人は、杉ちゃんの隣に座った。杉ちゃんは思わずその人の顔を見て、笑いだしてしまう。なぜなら、その人の顔が、能面の一つである、要石悪尉のような顔だったからである。つまり、髪は殆ど無いハゲ頭で、大きくぎょろりとした目に、かぎ鼻のような高い鼻、そして、唇を覆うようにシワでたるんだ頬、更には、鼻と口には白いひげをはやしている。ちなみに、要石悪尉とは、能の「要石」という曲で使用される面のことで、何でも海の神様を現している能面であるが、多分、見ただけでは神様とは思えない面だった。

「こりゃおどろいた。要石悪尉みたいな顔だな。なんか、能面にそういう顔いそう。お前さんは、芸人とか、漫才とかそういうやつか?」

杉ちゃんがそう言うと、その男性はにこやかに笑って、

「人によく言われますが、違います。」

とだけ言った。杉ちゃんの方は、更にゲラゲラと笑いだしてしまって、

「本当に、能面そっくりだから、役者にでもなれそうな顔だと思うけど。」

という始末。

「杉ちゃん見かけで判断してはいけないよ。どうもすみません、失礼なことを言ってしまって。」

蘭は杉ちゃんにそう注意したが、

「ごめんごめん、お前さんの顔が、本当に要石悪尉に見えたから、笑っちゃったの。そういう面白い顔をしたやつが、本当にいるんだなと思ってね。」

と、杉ちゃんは、笑うのだった。

「まもなく、東花輪駅に到着いたします。お降りのお客様はお支度をお願いします。」

特急と言っても、身延線は単線であるし、山岳地帯を走るためにスピードが出ないこともあり、特急富士川号であっても、3時間近く乗ることになる。なのであまり役に立たない電車と言われることもあるが、観光客からの需要はあり、存続しているのだった。

しばらく東花輪駅に停車して、特急富士川号はまた走り出した。ここから、市川大門駅、鰍沢口駅と停車する。その後は、しばらく、山道を走ることになり、中には秘境駅ではないかと呼ばれる駅に停車することもある。最も、特急富士川号が停車する駅は、ある程度、観光地として人が来るところになっているけれど。

鰍沢口駅に停車して、富士川号はまた走り始めた。通過する駅の中には、こんなところに駅を作って何になるんだと思われるほどの山道にある駅もあった。まあそのうち、富士宮駅にたどり着けば、また元通り、賑やかな駅になるのであるが、それまではある種のブラックホールに突入したように山道が続くのであった。

杉ちゃんたちは、甲府駅で買った駅弁を食べながら、山ばかりの身延線沿線風景を眺めていた。例の要石悪尉に似たおじいさんは難しそうな本を読んでいた。すると、いきなり車内アナウンスが、こんなふうに流れてきた。

「お客様にお尋ねいたします。現在、二号車付近で具合の悪い方がいらっしゃいます。皆さんの中にお医者さんがおられましたら、至急乗務員までお知らせください。」

「はあ、ドクターコールか。どうしたんだろう。誰か体調を崩された方でも出たのか?」

蘭がそうつぶやくと、例の要石悪尉に似たおじいさんは、本を読むのをやめて、カバンを持ち直した。すると、別の車両から、車掌さんが随分逼迫したような顔で、

「本日、具合の悪いお子さんがいらっしゃいます。皆さんの中にお医者さんがおられましたら、至急お知らせください。」

と、言いながらやってきた。

「そんなに、大変な客が乗ってたのかな?」

杉ちゃんと蘭は顔を見合わせた。

「車掌さん。」

不意に、要石悪尉に似たおじいさんが、そういった。

「普通の内科医ではありますが、私で良ければ、他に適当な人がいない場合に限ってお役に立ちたいです。」

「はあ、要石悪尉はお医者さんだったのか。」

と、杉ちゃんが思わずいうと、要石悪尉に似たおじいさんは、車掌さんと一緒に隣の車両に行った。車掌さんが隣の車両のドアを閉めなかったので、隣の車両の声が聞こえてきた。多分患者は、小さな子どもさんであることは、間違いなかった。その泣き方が普通ではないので、なにかトラブルとか、ワガママで泣いているわけではないことがわかった。要石悪尉さんは、車掌さんと真剣に話しているようで、その内容は、杉ちゃんたち素人にはわからない、医学の専門用語ばかりだった。ただ聞き取れたのは、もしかしたらグリオーマとか、そういうものかもしれないから、できるだけ早く、総合病院に運び込みたいということであった。そうなると、この辺りでは、山道過ぎて、そのような施設があるところは、どこにもなかった。そうするためには、富士宮駅まで待たなければならない。すると、要石悪尉さんは、西富士宮駅で臨時停車し、できれば救急車で彼を病院につれていきたいと言った。

「お客様にお知らせいたします。本日具合の悪い方がいらっしゃいますので、この電車は、西富士宮駅に臨時停車いたします。お急ぎのところ、皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。」

と、車内アナウンスが入り、電車は西富士宮駅に緊急停車することになった。そのとおり、電車は、西富士宮駅で停車した。多分、要石悪尉さんが車掌を通して要請したのだと思うが、担架を持った救急隊員が待っていた。そして、お母さんに抱っこされて、小さな男の子が、電車を降りて担架に乗った。多分、強い頭痛でも訴えたのだろう。それを見届けたかのように、電車は、また走り出した。同時に、要石悪尉さんも戻ってきた。

「とんだ事になっちまったな。それにしても、お前さんが、そういう人だったとは思わなかった。」

と、杉ちゃんが言うと、

「いえいえ、大した事ありませんよ。ああいうことはよくあることですから。」

さらりと、要石悪尉に似たおじいさんはそう答えるのだった。

「それにしても、グリオーマとかそう言ってたけど、あれはなんだよ。」

杉ちゃんという人は何でも知りたがるくせがあり、今日も、そう聞いてしまうのであった。

「はい。脳にできる悪性の腫瘍のことですよ。子供さんに発生することもたまにあるんですよね。手術で取れるというより、化学療法のほうに期待するしか無いんですが、短い人生しか与えられないかもしれないけど、頑張って生きてほしいですね。」

要石悪尉さんは、そう説明した。

「つまり、頭に悪いデキモノができるってことか。よくある事と言えば、そうなのかもしれないが、大変な症状だったんだね。」

杉ちゃんは、平気な顔をしてそう言っているが、蘭は、よくそういう重大な病気を見抜いたなとある意味では尊敬の念を持ってしまった。

「もしかしたら、脳神経外科の権威とか、そういう人だったんか、お前さんは。」

杉ちゃんが言うと、要石悪尉さんは、

「いいえ違いますよ。私は、ただの開業医で、富士市内で、診療しているだけですよ。」

と、にこやかに言った。

「はあ、そうですか。富士市内なんですね。富士に、そんな医者がいてくれるなんて知りもしませんでした。」

蘭は、そう話している間に、あることを思いついた。しかし、それと同時に、

「まもなく、富士、富士に到着いたします。お降りのお客様は、お支度をお願いいたします。」

と、車内アナウンスがなってしまった。そして、電車は、富士駅に停車した。要石悪尉に似たおじいさんは、お世話になりましたとだけ言って、電車を降りてしまう。蘭たちは、駅員に手伝ってもらうのを待たなければならないため、同時には降りられなかった。蘭は、自分が歩けないことを、このとき本当に嫌だなと思った。その要石悪尉に似たおじいさんが出ていってから、蘭たちも駅員さんに手伝ってもらって電車を出たが、蘭たちが出ると、もうホームにそのおじいさんはいなかった。蘭はせめて、名前だけでも聞いたほうが良かったと思った。

その後、二人は、タクシーで自宅へ戻ったが、蘭は、思いついたことを繰り返し考えるばかりで、杉ちゃんの話も上の空だった。何を話していたのかわからないまま、蘭は運転手に手伝ってもらって車を降り、家にはいった。妻のアリスはでかけていて留守だった。そのほうが都合が良かった。蘭は、すぐに、自分のしごと場に行き、パソコンを開いて、富士市内の開業医を引っ切り無しに調べ始めた。あの医者は、特徴的な顔つきだから、もしかしたらすぐに見つかるかもしれない。そう思って蘭は、開業医のホームページを片っ端から検索し始めた。

一方。旅行から帰ってきた杉ちゃんの方は、翌日、お土産をたくさん持って、製鉄所に来訪した。製鉄所と言っても、名前はそうなっているが、別に工場でもなんでもなく、ただ居場所のない人たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸している施設である。利用者は、ほとんどの利用者が二時間とか、三時間とか時間を決めて利用しているが、中には磯野水穂さんのように、間借りをしている人もいた。

杉ちゃんは、製鉄所に着くと、すぐに利用者一人ひとりに信玄餅を渡した。すぐ食べてしまう利用者もいれば、家に持って帰って食べる利用者もいいる。それは様々であるが、一人の利用者が、縁側に座って、信玄餅を食べていると、憚りに行っていたのか、水穂さんが彼女の近くを通りかかって、彼女に声をかけた。

「信玄餅ですか。うまいですか?」

すぐに利用者は、水穂さんに言われて、

「ああ、ごめんなさい水穂さん。確か、信玄餅食べられないんでしたよね。それでは、私が食べていたらお辛いでしょうね。」

と、急いで信玄餅を、カバンにしまおうとしたが、

「いえ、大丈夫ですよ。あなたが悪いわけではありませんから、どうぞ召し上がって結構です。僕はたしかに一度も食べたこと無いですけど、でも、きっと美味しいんだろうなと思います。」

と水穂さんがいうので、すみませんと言って、一口で食べてしまった。でも食べ終わってすぐに、本当にすみませんと言った。ところが、返事の代わりに返ってきたものは咳だった。水穂さんは布団に座ることは成功したのであるが、それと同時に偉く咳き込んでしまったのだった。利用者はわあどうしようといったが、すぐに杉ちゃんや他の利用者が来て、水穂さんに薬を飲ませるなどして、発作を止めた。咳き込むのが止まると、水穂さんは、どうもすみませんと言って、布団に倒れ込むように横になった。そのまま多分眠ってしまうのだろう。薬には眠気を催す成分があるに違いない。

「やれれ。また眠っちゃったか。ご飯を食べる前に薬が切れてくれると良いんだけどな。そうしないとまたご飯を食べなくなる。それでは体力つかないよ。」

と、杉ちゃんが言うと、他の利用者たちもそれが心配だといった。

「本当にごめんなさい水穂さん。私が悪いことをしてしまったんですね。」

信玄餅を食べていた利用者は、そう言うが、

「いやあ、お前さんのせいじゃないよ。みんなできることとできないことがあらあ。だからできることをやればそれで良いのさ。」

杉ちゃんはカラカラと笑うが、利用者の中にはそういう踏ん切りがつかない人も多く、その辺りの切り替えを教えていくのが難しかった。でも、いずれは学んで行かなければならない技術でもあった。どこかで自分には関係ないと思う事を身に着けないと世の中は生きていかれない。ときに、他人のことを自分のことだと考えてしまう人がいるが、それはあまり高評価されるべきではなく、かえって他人に迷惑をかけることにもなることを忘れてはいけないのだった。

すると、玄関のドアがガラッと開いた。誰が来たのかと、利用者が、玄関に行ってみると、いたのは蘭だった。それに一緒にいたのは、あのときの要石悪尉みたいな顔をしたお医者さんだった。杉ちゃんが驚いて、

「どうしたんだよ。なんで、要石悪尉を連れてきた?」

と蘭に言うと、

「いや、鏡石先生だ。鏡石良太先生だよ。この先生なら、水穂のことを見てくれるんじゃないかと思って連れてきたんだ。」

と、蘭は得意げに言った。

「要石と鏡石か。似たような名前だな。その鏡石さんが、何のようなんだよ。」

杉ちゃんが言うと、

「だから、水穂を見てくれるというので連れてきた。一体どこにいる?もしかしたら、どこかへでかけたりしているの?」

蘭は杉ちゃんに言った。

「呆れたなあ。水穂さんなら、体調が悪くて寝ているよ。起こしたって起きないんじゃないの。薬で一度眠っちゃうと。」

杉ちゃんに言われて蘭は、そうなのか?と思わず言ってしばらく動作を止めてしまった。

「そんなに悪いのあいつ。」

やっと蘭はそれだけいう。

「そんなにって、大変だったんだよ。もうちょっと、お前さんも、水穂さんのことを考えような。なんでも、思い通りになるわけじゃないぜ。」

杉ちゃんは、蘭の顔を見て呆れた様に言った。すると、鏡石先生が、

「ちょっと中へ入らせて貰えないでしょうかな?」

と、言った。杉ちゃんは、まあ、見るだけならどうぞと言って、鏡石先生を中に入らせた。製鉄所の廊下は鶯張りになっていて、人が歩くとキュキュと音を立ててなるのである。その音が、いい音と取る人もいるしけたたましいと取る人もいる。当然のことながら、蘭は後者のほうだった。

要石悪尉みたいな先生、つまり、鏡石先生は、音を立ててあるきながら、水穂さんのいる四畳半へやってきた。杉ちゃんが、水穂さんの体を揺すって、医者が来たから起きてくれと話すと、水穂さんは目を半開きにして、布団の上に起きた。そして初めましてと言おうとしたが、代わりに咳き込んで挨拶をした。

「宜しくおねがいします。」

やっとそれだけ、咳き込みながら水穂さんは言った。水穂さんの着ているものは、いつでもそうだけど、銘仙の着物である。そればかりというか、本人が周りからの嫌がらせなどを怖がってそれしか着用しない。たまに洋服などを着せようとしたこともあったが、いずれも本人が身分がバレると嫌だからと言うことで、着ようとしなかった。

咳き込んでいる水穂さんの口元から、赤い液体が漏れてきたので、鏡石先生もわかってくれたようだ。腕組みをして、そのシワだらけの顔で、鏡石先生はなにか考えていた。

「そうですね。そういう事情があるとまた別ですよね。」

と、鏡石先生はいった。

「今でこそ、有効な抗生物質などあるんですが、それを入手するのが難しいのでは無いでしょうか。その銘仙の着物ですと、経済的に不自由であることもわかりますよ。」

「そうだけど、この前電車の中で、子供さんにしてあげられたことを、水穂さんにもしてあげるというわけにはいかんのかなあ?」

杉ちゃんがわざとらしくそう言うと、

「そうですが、そういう身分というか、差別的に扱われてきた方は、なかなか医療機関では、扱いが難しいのでして。この前の、大地震のときもそうだったんですけど、銘仙の着物のようなものを身につける方は、救助するのを避けていたこともありましたよね?」

鏡石先生は言った。

「とりあえず、薬を出して置きましょうか。大変な方であることはよくわかりますから。それでよろしくおねがいしますね。」

「そうじゃなくてさあ。お前さん、要石悪尉みたいな顔してるから、もっと徳のある人物だと思っていたんだけど、違うのかよ。要石悪尉と言ったら、海の神が姿を変えた面だよ。お前さんも似てるんだから、そうなれないのかよ。それなら、僕達は大損したということになるな。」

不意に杉ちゃんがでかい声で言った。水穂さんが、杉ちゃんに、無視されるのは自分の場合当たり前だというと、

「でも、本当は、医者に見てもらって、助けてもらうのは、当たり前のことだと思うがな?」

と、杉ちゃんは、話を続けた。

「水穂さんのことを、他のやつと違うなんて言わないで、見てやってくれるわけにはいかないもんかな。お前さんは要石悪尉に似てるんだぜ。それなら、なんとかしようよ。」

「わかりました。」

と、要石悪尉は、そういった。でも、肝心なときに、水穂さんは、もう疲れ切ってしまったようで、布団に倒れ込んでしまった。要石悪尉が、一生懸命咳き込んでいる彼の背をさすってやっているのを眺めながら、杉ちゃんは

「要石悪尉も人間だな。」

というのだった。一方、車椅子であるために、製鉄所に入れなかった蘭は、なんであいつがと悔しそうに呟いていた。



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