ワン・インシュー

矢坂 楓

疫病学者の災難

 ワン・インシュー


(数年前の手記)

 日本の南方に、本土の人間からとうに忘れられつつある島があった。その島の文化はおおよそ明治から大正あたりで止まっているし、およそ電気というものが通っていない(ここまでがインタビューで明らかになった)ので、外部からの情報らしいものがなかった。翻って、外部にも情報が漏れることはなかった。

 なので、近年にいたるまでその島――浜御前はまごぜん島は遭難した者や海で迷った者の迷信だとばかり思われていたのだ。なにせ『孕み男がいる島』などと言われれば、まず間違いなくなにかの見間違いか船酔いでみた夢だと想うだろう。

 だが、人工衛星が専ら利便性をあげた近年に於いては『存在しない島』が隠れ続けることはかなわない。その内情はともかくとして、存在することが判明したならその地に向かい、きちんと情報を得ねばならぬのが国というもので、向かうのはやはり各種の専門家達なのである。

 果たして、ヘリポートや広場が存在しない浜御前島に向かう為に海路が採られ、更に切り立った崖を登らねばどこからも内部に入れないというおまけがついてきたのであった。

 地理学者のA氏、各種疫病学を収めた私、文化人類学者のK氏、そしてディレクターS氏を筆頭とする映像スタッフ……計15人体制で島内部へと突入した我々であったが、一同揃って余りにも、未知の文化というものに無防備にすぎた。

 まずS氏が犠牲になった。なんとか崖を登りきり喉が渇いていたのは事実であるが、近くにあった水瓶に一も二もなくとびついたのだ。水筒はあっただろうになぜそんな暴挙に走ったのか理解に苦しむ。

「%=#$”!?」

 全く理解できぬトーンと単語の羅列でもってまくし立ててきた浅黒い肌の男は、次の瞬間物凄い勢いでS氏に近付くとその首筋にナイフを突き立てた。どこかで拾ったものなのか、サビが浮いてボロボロだ。あれでは破傷風は免れまい……それ以前に、致命傷だ。助かるまい。

「ま、待ってくれ! その水瓶が大事なもの、ええとそうだ『神様のものだったなら謝る』! 水なら弁償できるがそれなら出来ないな、許してくれ!」

「…………?」

 そこでK氏が必死の思いで声を張り上げなければきっと、あわれ全滅の憂き目にあっていただろう。だが、どうやらその男は日本語が聞き取れるらしい。暫し考え込んでから「神様、捧げる、飲む水」とカタコトで教えてくれた。

 ここで互いに意図した敵意がない、と明らかになった両者は、そのままがっちりと握手を交わした。いくらなんでも話が早すぎるだろうか? だが、文化の交流とはそういうものである。

「外の、人間、言葉覚えた。殺し、謝る。飲んだなら、神様、捧げる、よかった」

「どうかな。あのガサツな男を神様は欲しがるだろうか?」

 K氏と村の男が道すがら話している横で、カメラマンはしきりにK氏に耳打ちする。「大丈夫なんですか!?」「犯罪ですよ!」と。だがK氏は事故だとして取り合わず、私含めて他の一同も余り深く追求することはなかった。少なくともK氏は郷に入っては郷に従えを徹底するつもりだったらしいし、日本語が通じたのは奇跡的な僥倖であったのだ。

 なんでも、あそこは神に捧げられる人間が過ごす場所で、水もそこで飲むためのものだという。雨水に島で集め、煎じた特製の液を注ぐことで、そこに住む者達を『男女の別なく』神様の子を孕ませるのだという。

 そう屈託なく説明してくれた第一島民も、島の人々も、多くの割合で異形の足を持っていた。私はそれが『象皮症』という病気で、寄生虫によるものだとすぐにわかった。

「少しの間は居てもいい。村の水は私達島民と浜御前……神様との契約のための水。外部の者が飲んではならない。外の者はひと月たたず狂い死ぬ」

「特に死んだ男が飲んだ水は特にダメだ。あれは特別な水であるから」

 複数名の合議制からなるためか、村長格の数名は日本語が達者であった。もともと日本語にルーツを持つ方言だったから、馴染みがあるのもあろう。外部から来た者達は、そのタブーを瞬く間に破り死んでいったと言う。

「我々も水は持ってきました。ですがそうしたら、水がなくなった時はどうすれば……?」

「草の葉の露、降り注ぐ雨、それらは許される。我等は流れる水はそのまま飲んではならないし、島に流れる水はないのだ」

「確かに、周囲が絶壁で山もなければ、川はないな」

 私の咄嗟の質問に流暢に返答する長老の言葉を聞き、A氏はしまったというふうに頭を抱えた。川があれば多少は水が確保できたのだ。流速が早ければ、そうそう寄生虫の心配もなかった。私は思わず聞いてみることにする。

「長老、お言葉ですが……水を沸かして飲んでいますか」

「神の恵み物にそんなことはできない。外部のものが、外部か流れ水を火にかけることは、止められない」

 長老の言葉にやはりか、と察した私は、急ぎ彼等を通じて象皮症の島民を何人か集めてもらうことにした。

 ……そこからは大変だった。

 ある程度用意した水と食料が尽きるまでの間に、私は持ち込んだ調査機器で彼等を調べた。『浜御前に捧げる者』がいなかったのが悔やまれるが――否、被害者が居なかっただけマシなのか?――彼等の症状とその水に相関関係が在るのは誰の目からも明らかで、しかし彼等は長い習慣、因習といってもいいそれに囚われていることが明らかだった。

「あなた方の足、そして神への捧げ物になる人々は病気に罹っているだけです。この水を火にかけ、沸かしてから冷ますだけでいい。そうすれば時間はかかりますが、子供達は長生きできるようになります」

「だめだ、それは出来ない。浜御前の祟りが」

「皆さんはもう少し長生きできるんだ! 今短命なことがそもそも祟りのようなものなのですよ!」

 長老方と私の交渉、そして説得は数日に及んだ。その間にK氏は村の人々の独特のアクセントにすっかり慣れ、流暢に話せるようになっていた。彼から聞いた話だと、やはり昔も色々と気をもんでくれた人々はいたらしい。

 だが決まってろくな目には遭わなかったと。だから今でもこの風習がのこっているのだ……そう教えてくれたという。

 心を尽くして会話を尽くし、結局引き上げる日になってしまったけれど、私は彼等にその誠意が伝わったと信じている……。

(手記引用ここまで)


 数年後、私は学会で発表した内容をもとに製薬会社の協力を取り付け、浜御前島へと向かっていた。前との違いは、虫下しや消毒剤を始めとする医療機器を十分な量用意したこと、ほぼ医療スタッフで固めたことだ。

「いやあ先生! 先生の学会発表は素晴らしかった! あれだけの検体があれば虫下しは十分な量が手に入りました! あとは島民の方々の了解を得て水瓶の消毒や貯水施設の整備を進めれば、あの島は安全に暮らせますよ!」

「ありがとう。君がついてきてくれると聞いて飛び上がる思いだ。長老達はきっと分かってくれるはず。さあ、早く会いにいこう」

 助手としてついてきてくれた彼も、感染症対策については一線級の成果を持つ。こんなスタッフに囲まれて私は幸せだ――幸せ、だった。


「センセイが水を沸かせというので沸かした。変わらなかった」

「もっと沸かさなければ許されないと思った。変わらなかった」

「火にかけて減り続けたから水が足りなくなった」


「足りなくなったから、死ぬ者から水をもらうようにした」

「浜御前が捧げ物を孕ませる理由がとうとうわかったんだ――」


 そこには地獄絵図が広がっていた。

 彼等には、長期的視点がなかった。

 私は説得のために「子供達の世代では」「孫の世代では」と言い添えていなかったことに気づく。

 つまり、彼等は水さえ沸かせばすぐにでも解決すると思っていたのだ。万病の長になると。

 だがちがう。違うのだ。

 それによって沸かし、蒸発させ、目減りした水に耐えきれなくなった者達はとうとう、『神にはらまされた者』、つまり腹水の溜まりきった罹患者の腹水を抜いてすら飲用に当てようとしていたのだ。

「センセイも、水を持ってる」

「あ、ああ! ちゃんと水は用意してきた! 十分な」

「違う」


「血」

 ――果たして、『浜御前』という存在し得ない神のため、という単一課題ワン・イシューでかろうじて均衡を保っていた浜御前島の人々の理性は崩壊し、私含む医療チームは全滅した。

 島民も、遠からず全滅するだろう。これこそが祟りだというなら、確かに……。

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