リユニオンの果てで
12階に到着してエレベーターを出ると、一本の廊下がずっと奥まで続いていた。そして廊下の両側に、いくつものドアが並んでいる。僕は古ぼけた絨毯を踏みしめながら、ひとつひとつ、確実にドアを辿っていく。そしてたどり着いた、部屋番号1225。鍵を回すと、重い音の先でドアが開いた。
ワンルームの質素な部屋は寒く、ベッドと小さなテーブルが備え付けられている。テーブルには青い花が一輪、控えめに飾られていた。そして彼女は、ベッドにぼんやりと腰掛けながら、俯いていた。
「どうしたの」
ドアが開く音に気付いて、彼女は顔をあげる。息の切れた僕をよそに、彼女は落ち着き払った声で呟いた。
「やっとまた会えた」僕は早口で叫ぶ。
「またって?昨日も今日もずっと、私は航の隣にいたつもりだったけどな。私だけか」
「ちゃんと生きてる、触れ、る」
僕は目尻に力を入れて、こぼれ落ちそうな涙を堪えながら呟く。
「うん、生きてるよ。元気だよ、ここで」
彼女は苦笑しながら、僕が伸ばした手を握り返してくれる。その手は冷たいけれど、温かさの名残が確かにあった。
そして彼女は急に、僕を抱きしめた。甘い、懐かしい彼女の香りが僕を包んでゆく。
「こんなに寒いところまで会いにきてくれてありがとう」
耳元を撫でる、吐息混じりの柔らかな声。血が通った温もり。
「本当に寒いね」僕も小さく呟く。
「寒い。でもね、この場所は時間が止まってるから、私、いつまでも綺麗なままなんだよ。ケアしなくたってずっと肌もピカピカだし」
腕の中からするりと抜け出した彼女は、立ち上がってはらりと回る。真っ白なワンピースがくるりと舞って、粉雪のような美しさが部屋に満ちていく。
僕はいよいよ泣いていた。溢れ出した涙が頬にあたたかな筋をつくる。
「綺麗だよ」流れる涙。
「知ってる」
彼女は振り返って、悪戯に笑った。彼女の瞳が、光の中で潤っていく。彼女もまた、涙を堪えているみたいだ。
「ねえ、座って」僕はベッドを指さす。
「うん」
ショーを終えた彼女は、花びらが水面(みなも)に舞い降りるようにそっと、音もなくベッドに腰かけた。それはとても素直で、爽やかな身のこなしだった。
僕はしばらく見惚れたあと、思い出したように言葉を紡ぐ。
「今日は伝えたいことがあって、会いにきた」
「うん」
「あの日、俺はなんか大切なことを忘れてて、そのまま、あんなことになっちゃって」
「うん」
「凪紗。ごめん、本当にごめん。あの、俺は、あの日――」
「ねえ、いいよ。その先は言わないで」
「ずっと凪紗と一緒にいて、俺、それが当たり前になってた。二人で過ごしてきた時間に寄りかかって、ぜんぶ知ったつもりになってた。目の前にいる凪紗のことを見て見ぬふりして、ずっと自分のことばっかだった」
「二人で見た冬の花火とか、そんなものもいつの間にか忘れて――まっすぐ見つめるのが、怖かったんだ。消えてしまいそうで。いつも俺は、よそ見ばかりしてた」
「でも、でも、俺は凪紗とこの先もずっと、一緒にいたいって思ってて、でもずっと一緒にいすぎて、うまく言葉にできなくて」
「あの日、本当は――この先もずっと一緒にいようって、ちゃんと言葉にしようって、そう思ってたんだ」
横たわるしばしの静寂を破ったのは、彼女の低い声だった。
「――やめてよ」
「え?」
「航、そんなこと伝えに会いにきたの?ありえない」
「え?」
「そんなこと聞いたら、そんなふうに言われたら」彼女は言葉を詰まらせる。
「もっと――もっと生きたくなるじゃん」彼女の綺麗な瞳から、涙が溢れ出した。
「でも、無理なんだよ」
「やっと、やっと慣れてきたのに。完璧で、どんなものも美しいままのこの部屋に、やっと慣れてきたんだよ、私。いくら待っても明日が来ないこの部屋に。いつもひとりだし、寒いし、正直最悪だよこんなところ!私だってまだ、まだ――」
「航と一緒にいたかったよ。また、ちょっと機嫌悪くなっちゃったりして、喧嘩とかしたいよ。でも、あの時なんでもなかったことは、もう永遠に、帰ってこないんだよ」
「だから――だからもう出てって。もう忘れて。航のせいじゃない。自分のせいだなんて思い込まれたら、こっちが困るよ。もう、住む世界が違うの。航の時計は回るけど、私の時計は止まったままなの」
「行こう」
僕はまっすぐに彼女の目を見つめて言った。
「一緒に行こう。外の世界へ、時計がちゃんと回る、季節が巡る世界へ」
「でも」
「いいから」
僕は彼女の手を無理矢理掴み、ベッドに腰かけていた彼女を引き連れて、ドアノブをぐいと回した。ドアが勢いよく開き、豪勢なカーペットの感触が、柔らかく足裏を包む。ばたん!ドアが閉まり、僕は後ろを振り向いた。
「凪紗――」
彼女は、もうそこにはいなかった。どうして?僕はドアノブを握り、ドアを開けようとした。そのとき、鍵を忘れたことに気づいた。ノブは硬く、ピクリとも動かない。自動施錠は残酷に、優しさの欠片もなく再び、二つの世界を冷たく隔ててしまった。
ぎしり。廊下の突き当たりから、だれかが歩いてくる。徐々に近づいてくるその人影は、あのフロントの男の姿だった。
「ダメじゃないですか、困りますよ」
彼は落ち着き払って、呆れたようにメガネをあげると、こう呟いた。
「フジタさん、どうして」
僕は唖然として、そう言うしかなかった。
「凪紗をどこへ!」
「部屋の中は、流れる時間とは切り離された、思い出の世界なんです。そこでは、時間が綺麗なまま凍りつくんです。寒かったでしょ?」
「そして人は、どうしても、違う時間を跨ぐことはできない。どんなに思いが強くても、どちらかの世界でまた、一緒になることはできないんです」
「だから、人はいつの時代も、もう会えない人たちへの祈りをつづけてきました。もう会えない人と束の間、会うことのできるこの場所もまた、祈りの場所なんです。愛があっても、もう一緒になることはできない。時間は残酷です。その残酷さを思い知った時――」
「もう忘れろと。フジタさん、あなたはそう言うんですね?」
「いや、まだ続きがあります。最後まで聞いてください」
「時間は残酷で、共に生きることができない私たちの間には――どうしても越えられない壁があります。けれど、その壁を越える方法があります。そしてそれは、とてもとても簡単です」
「え?」
「忘れないことです。思い出すことです。いつもじゃありません。普段は忘れていてもいいんです。忘れていなきゃ、生きていけませんから。でも時々、ふとした風の香りに、季節の景色や音のなかに、その人を思い出す。そんな瞬間が、あなたにもあるはずです。それで十分なんです。会わなくたって、繋がっていられる」
そのとき、ふと足元に目をやると、小さく白いイヤリングが横たわっていることに気づいた。僕は黙ってしゃがみこみ、それを拾って握りしめた。冷たいはずのイヤリングは、まるでたった今外されたもののように、やわらかな温もりを帯びていた。
「あ、それ。困るなあ、持ち出し禁止ですよ。というか、普通はドアを通る時に消えてしまうはずなんですが」
彼は、左手で頭をかきながら呟く。その様子は妙に、どことなく嬉しそうだ。
「これは――これは僕が、プレゼントしたものなんです。いつも、いつも嬉しそうにつけてくれてて」僕はまた、涙を堪える。
「はあ、そうですか。今回は、特別ですよ。見なかったことにします」
「え?」
「今日は、ボスがいませんからね」
そう言うと彼は、目を細くして儚げに笑った。そして彼は、エレベーターホールへと戻っていく。腰のあたりで、小さくピースサインを揺らしながら。
「ごめん、やっぱ俺」
イヤリングをギュッと握りしめながら、僕は永遠に開かなくなったドアノブを見つめる。
「凪紗のこと、忘れられない。たとえ運命線がもう永遠に交わらないとしても、忘れなければ、祈りのなかで俺たち、ずっと手を繋いでいられる。離れてたって繋がっていられる。ずっと繋がっていたときよりもきっと、強くなれる。お互い」
その刹那、あの悪戯な笑い声が、部屋の中から響いた気がした。
「またね」そういえば――
ふと左の手首に目をやると、あの日と同じ、三日月が笑っていた。
ホテル・メモワール kisui @adolescent_youth
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