マヨイガ
そんな日々のなかで僕は、夢を見た。
それはどこかのホテルのようだった。僕は、ぽっかりと開いた伽藍堂に、ひとり立ちすくんでいる。足元には、妙に豪華なペルシア風絨毯が敷き詰められている。壁は大理石で、十メートルほど前方にフロントデスクがある。時代錯誤なほどに過剰な高級感が、かえって哀愁を漂わせている。
「お客さま、お客さま!」
大きな呼び声とともに、左肩をとん、と叩かれる。いつの間にか、横に誰かが立っている。驚いて目をやるとそこには、黒縁メガネに七三分けの、いかにも真面目といった風貌の男がひとり、満面の笑みで立っていた。
「ようこそいらっしゃいました。お部屋、ご用意できてますよ」
彼は、僕の姿を見るなり何かを納得した様子で、小さく頷くと開口一番、そう言った。ハキハキとよく通る声が、広すぎるホールに響き渡る。僕は、ここがどこかもわからないままに、居心地が悪くなってきた。
「お部屋?」僕は思わず聞き返した。
「いったい、何のことですか?ここはどこなんですか?そもそもあなた、誰ですか?」疑問が溢れて、思わず早口になる。
「落ち着いてください」彼は手を広げ、僕の前で何度か、軽く揺すった。そして彼は、フロントデスクに回り込むと、僕を手招きした。
「ここは、ホテル・メモワール。過去の記憶たちが集まり眠る、時間の最果ての場所です」
「私は、本日お客さまをご案内する、フジタと申します。なにぶん、たくさんの思い出がひしめきあうホテルですから、迷われるお客さまも多いんです。ですから、みなさまのご案内役として、私どもがお付きすることになっております」
「フジタさん」
状況に追いつけない僕はとりあえず、おそらく人名と思われる音を復唱してみた。フジタ。ありふれた響きなのに、どこか別の世界からやってきたような、不思議な音だ。
「あ、今きっと、この状況意味わかんない、そう思ってますね?」
彼は目を細くして笑った。どことなく優しいまなざしで、僕の身体の緊張が少しずつ解れていく。
「このSF的な、意味不明な状況に、フジタって名前普通すぎじゃない?お客さま、そう思ってますね。実は、私もそう思います」
面白くもないジョークが、今だけはありがたく思えた。それぐらい、僕は目の前の状況に緊張していた。
「さて、お客さま。お客さまは毎日、忘れられない記憶を反芻しては、自分を責めていらっしゃいますね」
「これから私は、その記憶のなかの、お客さまの大切な人のもとへと、ご案内いたします。きっと、この迷宮のようなホテルのどこかで、その方は静かに休んでおられるでしょうから」そう言って彼は、古ぼけた帳簿を一ページ一ページめくりながら、何かを調べ始めた。メガネをあげ、真剣な眼差しで。
「えーっと……あなたの大切な人の、お名前は?」
「な、なぎさ――凪紗です」
一度目は手繰り寄せるように、二度目は抱きしめるように、僕は三つの音を二回繰り返した。
「ナ、ギ、サ」
彼は音を口に含むと、一音一音確かめるように、区切って丁寧に発音した。そして手際よく、手元の帳簿を手繰っていく。
「ありました。凪紗さん。いいお名前ですね」
え、と僕は聞き返す。そんなことを言われたのは初めてだった。呼び慣れた名前が急に、よそよそしく僕の耳に響いてきた。
そして、あの日の花火の風景が、フラッシュバックして僕を連れ去る。気まずい車内。打ちあがる冬の花火。それを見たのはあのときが初めてで……初めて?
「――こちら、鍵です」
しばしの静寂がフロントを包んだ後、彼はゆっくりと深呼吸をして、穏やかにそう言った。そして彼は、デスクの中を手で探ると、仰々しい部屋番号のプレートがついた鍵を取り出した。
「それでは、いってらっしゃい」
彼はぶっきらぼうにそう呟くと、右側のエレベーターホールを指さした。
「え?」
「ここからはおひとりで。お客さまの記憶には、どうぞご自身で」
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