汽水域

気がつくと僕は、薄緑にゆらめく水のなかでゆっくりと揺蕩っていた。割れた窓ガラスから水が入り込んで、車の中と外とは、もはや薄緑の水で一体になっている。そして恐る恐る手足に目を移すと、傷つきこぼれた血が水に滲んでいた。

ふと隣を見ると、シートベルトにつながれたままの彼女が、目を閉じて長い髪をはらはらと揺らしている。傷ひとつなく、驚くほどに完璧なその姿は、酔い疲れて少し眠っている、いつもの彼女にしか見えない。


「寝てるの?」

「酔っぱらって騒ぐだけ騒いで、すぐ寝ちゃう」

「凪紗って昔からそうだよね」

「でもこんなとこで寝たら風邪ひくって」


僕は、心の中で平静を装い、そう呟いた。そうだ、きっと寝てるんだ。凪紗、酔ってたしなあ。あれ、酔ってた?顔、赤かったっけ――。


「風邪ひくって⋯⋯」

「なあ!」呟きが次第に叫びへと変わってゆく。


時間すら流れることを許されないような澱みの中で僕は、激情を超えて切なくなっていた。いま、僕の目の前で、かすかなつながりが断ち切られようとしている。


「どうしてこんなに綺麗なんだよ」

「せめて――せめて汚れていてくれれば」

「まだ、まだ、何も」


僕と彼女を隔てるこの小さな距離が、地球と宇宙の果てほどに、離れてゆく気がした。目線を移すと、彼女は俯いたまま、背中をまるめてゆらめいている。ゼロに戻る準備が始まったようだ。僕はその逆再生を、苛立ちながら眺めているしかなかった。僕はただ、無力だった。


「離れてく」


その時、激しい光が水の中を染め、僕は目を閉じた。そして急速に、僕の身体がふわりと軽くなり、上昇していくのがわかった。ああ――僕はスピードに身を委ねながら、なにかを理解した。


「帰るんだ、俺は」

「凪紗――」

僕は離れゆく彼女へと、目一杯手を伸ばした。けれど距離はどんどん、無慈悲に大きくなっていった。彼女は水底に溶け込み、やがて見えなくなった。


気がつくと僕は、病室のベッドに横たわっていた。無機質な白い壁と、計器のピコピコという冷たい音が、僕を息苦しくさせる。僕はどうやら、助かったらしい。彼女は?わからない。クリスマスプレゼント、海への坂道、冬の花火、薄緑の水中、綺麗すぎる彼女――濁った意識のなかで見たいくつもの追憶は、切り貼りしたフィルムのように脈絡なく混乱していて、泡のように浮かんできた数多の映像は、指の間をすり抜け消えてしまった。どこまでが現実で、どこからが幻か?わからない。とにかく、空を掴むような追憶の渦から、僕が、僕だけが、この世界へ浮上してきたようだった。


つまり僕は生き残り、彼女は死んだ。そしてそれからの日々、僕は生きた死体のように、灰色の世界を生きた。春の桜も夏の海も、秋の紅葉も冬の雪も、すべてが意味のないものに思えた。彼女を置き去りにして巡ろうとする季節には、いつも苛立っていた。そして、綺麗すぎる彼女の姿を呼び戻しては、何もできなかった自分を責めつづけた。それが僕にできる唯一の贖罪だと、思い込んでいた。

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