惰性

海へと向かう緩やかな坂道では、ナトリウムランプのオレンジ色の光が、路面を光と陰とに区切っていく。車もまばらな週末の冬の夜、僕らは夕食を終え、車を走らせていた。ハンドルを握る僕の隣には、かすかに眠たげな彼女の姿。フロントガラスからは、弓なりに弧を描く海岸が見え、海沿いの道路を走る車の光がちらちらと揺らめいている。

「ふわ〜。眠くなっちゃった。でもまだ飲み足りないけど」

「凪紗、飲み過ぎだって」

「航もさ、飲めばよかったじゃん」

僕は呆れながら呟く。

「だれが車運転するんだよ」

「あ、そうだった」

彼女はそう言って笑った。けれど彼女の顔は、白いままだった。車内を一瞬、静寂が包む。


「凪紗はほんと、ワイン好きだもんなあ。さっきも飲んでたし。ご飯よりお酒って感じ?せっかく俺が見つけたお店なのにさあ、美味しいパスタとかあったのに。あ、あと、あれ食べた?サラダにさ、鯛?なんか白身の、入ってたじゃん。あの魚なんだったんだろ結局――」

僕はかすかな緊張の兆しを察して、つとめて明るく話した。けれどその内容はしどろもどろで、自分でも早口になっているのがわかった。

「ねえ、私――今日ワイン飲んでないんだけど」低い声。

「え、え?そうだっけ?」嫌な予感が僕の身体を駆け巡る。

「航って最近ほんとそういうことあるよね。全然会えてなかったし、返信も遅いし。仕事忙しいのわかるけど、それなら私だって同じだよ。でも一緒にいたいから、ちゃんと連絡もしてるんだよ。重荷にはなりたくないけどさ」

何かに火をつけてしまった。

「今日会うのだって、私が言わなかったら忘れてたでしょ?」

「え、いや」

「何もわかってくれてない」

「――忙しいってわかってるならそんなこと言うなよ。そうだよ!忙しいんだよ。連絡もすぐ返せないし、休みの日は正直家にいたいんだよ。疲れた感じで出かけたって楽しめないと思うし、凪紗にも悪いと思って」

「言ってくれなきゃわかんないよ!」

「うるせえな」滑り出した言葉は止められない。車内の温度が一層下がった。

「⋯⋯」

「⋯⋯」

気まずい沈黙が車内を包む。坂道はいつのまにか麓に近づいていて、谷底で大きな交差点にぶつかった。信号は赤。最悪だ。気まずさがどんどん大きくなっていく。細く開けた窓から、かすかに聞こえてくるジングルベルの安っぽい響きが、車内の苛立ちをより大きくする。何度目かのクリスマスの余韻は、些細なきっかけですぐに崩れた。


その時、岬に聳える灯台の奥の方、夜の闇に包まれた海の果てで、きらきらと煌めく光がいくつか、夜空に打ち上がって消えた。車内にもその残光が、かすかに舞い込んでくるのがわかった。

「あれ」

彼女は退屈そうにつぶやく。それでも、その空気の震えが、車内の緊張を少しだけ緩めた。

「花火?冬なのに」

「変だな」

「変だよね」

彼女はすかさず、スマホを取り出してなにやら調べはじめた。

「あー、あっちの方角。夢の国」

「え?こっからも見えるんだな」

「ね、びっくり」

彼女は大して驚いていない様子で、スマホをいじりながら適当に答えた。

「⋯⋯」

「⋯⋯」

「初めて見た」

僕は沈黙に耐えかねて、思ったことをそのまま言葉にした。

「⋯⋯」沈黙は続く。

「綺麗だな」

僕は他人事のように呟きながら、車を走らせる準備をした。僕の心はこの気まずさから逃げるように、あの海のそばへとはやっていた。


信号が青に変わり、僕はアクセルをゆっくりと踏み締める。交差点を渡って直進すると、すぐに川を渡る大きな橋にさしかかった。川といっても河口で、直進して海へ向かうこの道路と直角に交わった後、ぐっとカーブして目の前の海に注ぐ。

彼女は助手席の窓から、ぼんやりと外を流れる風景を眺めている。それを見て僕は急に、何故か途方もなく切なくなった。

「さ、さっき!ごめん!」焦り出した心が、言葉を詰まらせる。

「別に。てか怒ってないし」

「あれだよな、サングリアだよな!ごめん、俺、よくわからなくて」

無理して作った笑顔が僕の頬でぎこちなく震える。

「違うし」

「え」

「今日、クリスマスだから」

彼女はこちらに目も向けず、外を眺めたまま背中で呟く。

「――だよ」

突然吹き込んできた冬の風が、彼女の声を連れ去った。

「え?なんか言った?」

「ううん」


その刹那。後ろから地鳴りのような音が響き、僕は咄嗟にブレーキを踏む。なんだ?サイドミラーを見ると、大きなトラックが蛇行しながらこちらへ――ガシャーン!

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