早く、帰って下さいませ

赤羽 倫果

あの、いつまでそこにいらっしゃるのかしら?

 なぜ? 貴方はここにいらっしゃるのかしら……。早くお帰りあそばしてくださいな。


 春もまだ遠い季節。火の気のない部屋は、いくらペチコートを重ねても、指先はずっと冷えたままだわ。


 わたしは、この下宿屋で『代書屋』を請け負っている。今日も、市庁舎に届ける『離縁状』をしたためていた。


 ベッドと簡素な机に置いた、お役御免間際のタイプライター。数枚の肌着を除くと、わたしはホントに何も持ち合わせていない。


 だから、客人は大家さんの営む食堂で待っていただいている。


 いつもなら。この部屋にわたし以外いないはずだけど。


「ナタリー」

「少し、黙ってくださいませ」


 いくら、王宮での勤めが切り上がったとは言え、ここに通いつめる意図が、全く理解出来ない。


「復縁を」

「くどいですわ。子爵さま」


 あれだけ、復縁を拒絶していても、椅子の上で足を組む彼には通じやしなかった。


 もう、二度と貴方の元に行きません。

 あのような、ミジメな生活など、まっぴらゴメンこうむります!


 父母はありきたりな政略結婚。母は物心ついた頃には故人で、父は愛人を後妻に入れた。


 あちらの産んだ子が、父とよく似た男の子。母親似のわたしをかまう者は、あの屋敷にはいなかった。


 だから、目の前の男に父と同じ匂いを感じた時点で。


「キミを愛することはない」


 『白い結婚』宣言がなくとも、子供さえなければ、離縁に応じる準備は整えていた。


「キミのお父上も、復縁を望んでいる」

「まさか」


 ふふふ……どの口が言えたことなの?

 あの男は、わたしに子供が出来ない方が好都合だと、わたしに見抜かれない自信でもあるのだろうか。


「わたしは絶対、復縁はいたしません」

「なぜ」


 タイプを叩く手を止めて、愚かな男を説き伏せるための言葉を思案する。 


 正しい答えは、一向に見つからない。


「ナタリー」

「母さまの二の舞は嫌なのよ! そのくらい、察しをつけてくださる?」


 それしか思いつかない。

 母は愚かにも、あの男を愛していた。


 だからこそ、父にも目の前の男にも、思い通りにさせたくはないのよ。


「わたしは母さまと違うから」


 同じ轍は踏まない。踏みたくないわ。

絶対によ。


「ミンスク伯爵は病に伏している」

「それが何か?」


 母の最後すら構わなかったクセに。

 一人で旅立つ度胸すら持ち合わせていないって、おかしな話だわ。


 ここで、フツフツと。わたしの中で、イタズラ心が蠢き出す。


「仕方ないわ。一緒にお見舞いへ伺いましょう」

「ナタリー」 


 そうね、最後くらい。

 あの男の目の前で、積年の恨みをぶちまけて! ついでに、この男とは絶対に復縁しないと宣誓してあげるわ。


「じゃあ、早速……」

「今、この書面だけ仕上げさせてくださいませ。旦那さま」


 満足そうに笑うと、そそくさと踵を返す。

 後ろ姿が扉の向こうに消えると同時に。


 ーー誰がオマエの思う壺になるものですか。


 

 とだけ、声にならない本心を、わたしは吐き捨てた。

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早く、帰って下さいませ 赤羽 倫果 @TN6751SK

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