エピローグ・2


 皆は五年前のあの日を思い出す。


 大切な人たちに囲まれた綾は、輝きながら消えゆく運命にあったはずだ。


 けれど嗚咽溢れる病室で皆が目にしたのは、予想だにしなかった不思議な現象だった。


 綾の生命活動は確かに一度、停止した。悲運の生涯は深淵の哀しみのなか、医師の宣告で幕を引くはずだった。


 しかし、放たれていた薄黄色の光は揺らめきながらさまざまな色に移り変わっていった。まるで虹の色彩を渡り歩くような変化だった。


「先生……これは一体……」


 幸恵が涙声で尋ねるが医師は困惑している。


「……いや、こんな徴候は報告がない」


 皆が見守る中、光は次第に収束してゆく。肌の色は健康的な薄桃色に帰着した。


 そして、鳴るはずのない音が、再び皆の耳に届いたのだ。


 ピッ……ピッ……ピッ……。


 綾を抱きしめる俊介は、かすかにだけど、確かに命の鼓動を感じていた。


 とくん……とくん……とくん……。


 すると綾は突然、思い出したかのように大きく息を吸い込む。


 それをきっかけに胸が穏やかに波打ち始める。生命の営みである呼吸が、次第に確かなものとなってゆく。


 皆は目を疑ったが、医師と看護師のやり取りはそのまさかを肯定していた。


「先生、脈が触知できます!」


「信じられない……確かに酸素状態も正常に近づいている!」


 皆の視線が綾に注がれ、刻が流れてゆく。


 しばらくして、綾は唇をかすかに動かしたかと思うと、ふわぁ、と大きなあくびをした。両手を動かし、頭上に掲げて伸びをする。まぶたがピクピクと動き始める。


「綾……?」


 俊介が尋ねるように呼びかけると、二度と開くことのないはずだったまぶたの間から、ビー玉のような澄んだ目が外界を覗いた。


 生きた眼差しが光を吸い込む。


 目が左右に動き、辺りを視認する。皆の表情を見てから、不思議そうな顔になった。


 一番近くにあったのは俊介の顔だった。綾は涙で崩れきったその顔にそっと手を差し伸べ、紅潮した頬に優しく触れた。


「おはよ、俊介……」


 そういって浮かべた綾の表情は、ひとかけらの霞みもない、天使の笑顔そのものだった。



「うーん、僕が考えるには、綾はミトコンドリアのすべてが異常というわけじゃなかったんだと思う」


 俊介が大学院で行っていた研究は、天使症候群の原因となる異常ミトコンドリアと正常なミトコンドリアを共培養すると、正常なミトコンドリアの機能が抑制されるというものだった。


 研究論文は一流の海外誌に掲載され、俊介は研究者としての一歩目を歩み出したのだ。そのヒントとなったのは綾の生還劇である。


「あたし、あの後何度検査しても、異常ミトコンドリアが検出されなくなったんだよね」


「だから僕は異常なのが消滅して、正常なやつの機能が回復したと思ってるんだ」


「俺は奇跡が起きたと思うんだが」


「私は奇跡が起きたと思うんだけど」


 珍しく倫太郎と弥生の意見が一致した。素直じゃない二人は合った視線を互いに逸らす。すでに一緒に暮らしているというのに、いまだに不器用だ。


「今更だが正常な発育してるってわけか。どうりでちょっと太った訳だ」


 倫太郎はそういった瞬間、ずしんと脳天に衝撃が走る。弥生が肘で一本、決めていた。


「デリカシーのないこと言わないの! 綾ちゃんはママになっても、いたいけな女の子なんだからねっ!」


「いてえ……防具必要だな……」


 倫太郎は頭をさすりながら申し訳なさそうな顔をする。


 弥生は何事もなかったかのように屈託のない笑顔で立ち上がった。


「みんなお腹すいたでしょ、ご飯食べましょう」


 そして部屋の明かりを落とし、オレンジ色のダウンライトを照らした。


「ほら、この方が雰囲気出るでしょ」


 夕間暮れのように幻想的な色彩のリビングは、時を超えた出会いの日を思い出させる。十年前の、今日のことだ。


 さすがはデザイナー、演出がおしゃれだ。


 皆が席に腰を据える。シャンパンを注ぎ、声を合わせる。


「「「「乾杯!」」」」


「かんかーいっ!」


 ひとりはオレンジジュースだけど気持ちは一丁前に四人の仲間入りだ。グラスがかち合う澄んだ祝福の音色が皆の心に響いて沁みた。


 その時突然、卓上の回転木馬がひとりでに回転し始める。


「あれっ、どうしたんだ、僕はなにもしてないけど」


 慌てふためく俊介と対照的にえんじゅはキャッキャキャッキャと大はしゃぎだ。


 回転木馬はからからと笑い声のような軽快な音を立て速度を上げていく。そして部屋の壁に向かって光を発し始めた。皆の頭上に映し出された光は大きく広がってゆく。


 その光には皆と共に過ごした俊介の過去が映し出されていた。


 舞い踊る映像は、まるで思い出を記したアルバムのようだ。


「あーっ、これ、みんなで応援しに行った倫太郎の部活引退試合ね! 最後に優勝できたのよねぇ」


 弥生はトロフィーを掲げる倫太郎の姿に歓喜の声を上げる。


「あの魚釣った時、俺こんな顔してたのかよ。我ながら愛想ねーな」


 倫太郎は四人で旅行した湖畔で、大物のニジマスを釣り上げながらも一人だけ真顔を崩さない。素直じゃない自分の反応を目の当たりにして苦笑する。


「リレーはみんな、会心の疾走だったよな、文句なく全員が主役だ」


 俊介は目前に迫るゴールテープと、その先に映る綾の姿をみてにかっと笑う。


「ふわぁ、あたしこの時の光景、一生忘れないなぁ」


 綾はうっとりした表情で虹が一面に広がる空を懐かしむ。大地は花の色で溢れていた。


「あたしも、くるくるしたーい!」


 えんじゅはどうしてもその回転木馬が欲しいみたいで泳ぐように手を伸ばす。もしも光に触れたら大事かもしれない。俊介はお転婆娘を抑えるのにひと苦労だ。


「えんじゅちゃんは、おっきくなったら波乱万丈な人生を送りそうだなぁ……誰に似たんだろ 、この暴れん坊の性格」


 そんな小さな天使の最後の賭けは、誰も知ることはなかった。




 まわる、まわる、回転木馬。




 みんなの胸の中に生きている、眩い思い出を映し出しながら。


 まわれ、まわれ、回転木馬。


 あの日の、あの瞬間から動き始めた、


 僕の――。


 あたしの――。


 俺の――。


 私の――。


 ――煌めきに満ちた、新しい未来を祝福しながら。


 希望の翼を背に携え、人生という果てしない大空を、力強く羽ばたいてゆくために――。


【了】

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ぜんぶ、天使(きみ)のせい 秋月一成 @IsseiAkizuki

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