【肆怪】(伍)
『愚かな』
「徹殿、こやつは鬼。人の皮を被った妖怪なのです。惑わされてはいけませぬっ」
四季と綱が同時に徹の方を向いた。
その一瞬、隙ができる。
荊木透子は、にたりと笑うと、みるみるうちに再び鬼の形相へと変わり、綱に向かって己の鉤爪を繰り出した。
「ぐっ」
寸でのところで綱が身を躱す。
しかし、茨木童子の長い爪は、綱の右肩を切り裂き、破れた服の隙間から赤い血が飛び散った。
綱は、痛みを堪えて歯を喰いしばる。
「綱っ!」
徹が青い顔をして叫んだ。その表情には、自責の念が浮かんでいる。
綱は、痛みに顔を歪めながらも、刀を左手に持ち直すと、再び向かってきた茨木童子に向かって刀を振るった。だが、利き手ではない所為か、太刀筋を茨木童子に読まれ、大きく的を逸れる。
茨木童子が鉤爪を振り払い、綱の刀を弾き飛ばした。刀は、綱の手から離れて空を飛ぶと、徹のすぐ脇に転がり落ちた。
四季が徹に向かって吠えた。
『それを拾え!』
「えっ、えっ、えっ……」
『させるかっ!』
茨木童子は、標的を徹に変えて、鬼の形相で突っ込んで行く。
「徹殿! 刀を……!」
綱が右肩を抑えながら叫んだ。綱の肩口から血が流れて、狩衣を赤く染めている。
徹は、震える手で落ちていた刀を拾うと、目の前に迫りくる脅威に向かって、刀を構えた。初めて握る刀は、徹が思っていたよりも重く、その重みがまるで命の重みのように感じられた。恐怖からか、腰もひけている。
徹の手の震えが刀に伝わり、切っ先が定まらないのを見て、茨木童子は、笑いながら徹に向かって跳び掛かった。
「う、うわあああ!!」
徹は、目を瞑って
『ふははは、当たらぬ、当たらぬぞ。お主の心は恐怖で溢れておる。そのような刀、痛くもかゆくもないわ』
徹の顔が恐怖に歪んだ。
自分に向かってくる脅威――鬼が恐い。
目に見えないもの、見えるもの、全てが恐い。
自分が刀を振るわなくてはならない、この状況が恐い。
――怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
徹の心は、今、恐怖に支配されていた。
「徹殿! 惑わされてはならぬ。意志を強く持つのです!」
「んなこと言ったって……」
徹は、ぱっと身を翻すと、登って来た階段を一気に駆け下りた。
(俺は、何で逃げてるんだ? 一体、何から逃げてるんだ?)
徹は、酸素の足りない頭で必死になって考えた。
『待て、小僧っ!』
……そうだ、鬼だ。鬼が俺を追い掛けてくるのだ。
階段の真上から茨木童子が追い掛けてくるのが音で解った。それに捕まらぬよう、ただ必死になって階段を降りて行く。
ふと徹の脳裏に、綱の言葉が蘇る。
『真の強さとは、己の弱き心にこそ在る。大事なのは、それを認め、乗り越えようとする強い意志と心よ』
(俺は、綱じゃない)
それは、分かっている。
自分がただの凡人で、学生で、未成年で、刀一つ振るえない、臆病な男だと、自分が一番痛い程よく分かっている。
それでも、徹の頭に浮かぶのは、凛と背筋を伸ばして、刀を振るう、綱の姿だ。どんな悪や妖怪にも立ち向かっていく、強い意志を持った眼差しと、頼もしい背中。迷いのない剣筋。真っすぐ人を見る曇りなき
そのどれもが徹にはなくて、心の奥底では、ずっと自分が望んでいた憧れの自分なのだと、もうとっくに徹は気付いている。気付いていて、気付かないフリをしている。自分には、無理だから。手に入らないものだから。
だから、綱を見ると、言いようのない苛立ちを覚えるのだ。
その時、ぐっと首の後ろを何か強い力に引っ張られた。
『つかまえた』
低く地を這うような声が徹のすぐ耳元で聞こえた。
首を持ち上げられて、徹の両足が宙に浮く。息が出来ない。
喉を掴む鬼の手を必死に引き離そうと試みるが、びくりともしない。
徹の手から<鬼切丸>が零れ落ちた。
「どう……して、俺……なんだ……」
息苦しさの中、徹が絞るように声を出した。このまま死ぬにしても、納得して死にたかった。
だが、茨木童子から返ってきた答えは、徹の期待してたようなものとは違っていた。
『人間の恐怖は蜜のように甘い……わしは、ずっとお前を狙っておったのだ。
他の誰よりも、ずっと恐怖に支配されている、お前をな……』
(なんだよ、それ……)
沸々と徹の中で、怒りの感情が沸き上がる。
結局、自分は、ただ人よりも臆病だ、というだけのために殺されるのか。
自分が一体、何をしたというのだ。思い返してみれば、理不尽なことだらけで、納得のいくものなど一つもない。人よりも臆病なのは、自分の所為ではない。
……いや、俺の所為、か。俺が、それを選択したんだ。
『……拙者は、昔、大切な人を失った。今、その者を守れなかった己の罪を購う為、ここにいる。己の無力さを呪ったのは、拙者とて同じこと。ましてやこれは……〝正義〟という名目を掲げただけの、ただの復讐やもしれぬ……が、拙者には、それがまだ分からぬ』
そう、綱は言っていた。綱は、選んだのだ。
己の無力さを呪い、それと立ち向かう道を選択したのだ。
(俺だって……俺だって、正義の味方に)
徹は、気を抜けば失いそうになる意識を必死で引き留め、最後の力を振り絞り、我武者羅に手足を暴れさせた。が、やはり茨木童子は、びくともしない。
『わははは……
しかし、突然、ふっと徹の首を絞めていた力が抜け、徹の身体が自由になる。
地に倒れこんだ徹は、新鮮な空気を求めて喘ぎ、咳き込んだ。
涙目で茨木童子を振り返ると、その両腕に黄金の龍が絡みついている。四季が助けてくれたのだ。
『長くは持たんっ! はよぉ、こやつを切れっ!!』
徹は、立ち上がった。刀を拾い、覚悟を決めた目で茨木童子を見据える。
「俺は、昔、正義の味方になりたかったんだ」
徹が刀の柄の部分を自分の腹部に当てて固定する。これで手が震えても、刀の切っ先が目標を逸れることはない。
「もう逃げないっ!!!」
そう叫ぶと、徹は、茨木童子に向かって突進した。刀が柔らかな肉体に突き刺さる感触が掌を通して伝わってくる。徹は、吐き気を催すのを必死で堪えた。
黄金の龍は、刀が茨木童子の身体に刺さるのを見届けると、力尽きたように、ぼろぼろの狼へと姿を変えた。
己の腹部に突き刺さった刀を茨木童子が素手で掴み、必死に引き抜こうとする。
茨木童子の赤黒い血が剣を伝って流れるのを見て、徹の顔が青くなる。それでも、決して刀を握る手だけは離さなかった。
「最後に、一つだけ聞く。
荊木さんは……荊木透子は、お前が食ったのか?」
真っ赤な口から赤黒い血を吐きながら、茨木童子は、口角を上げた。
『そんな女など、初めからおらぬわっ!!』
「それが聞けて、良かったよ」
徹は、握っていた刀の柄を強く握ると、そのまま茨木童子の身体の奥深くへと突き刺した。
『ひぎゃあああ……!!』
断末魔の叫び声と共に、茨木童子の身体は、黒い霧状となって消えた。
刀の手応えが消えたことで、徹は、あ然となり、地に膝を着く。
「やった、のか……」
途端、徹の視界がぼやける。緊張が解けた所為だろうか、うまく身体に力が入らない。
「徹殿!」
階段の上から、綱が徹の方へと駆け寄ってくる姿が、徹の目にぼんやりと映った。
そして、そこで徹の意識は途絶えた。
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