【肆怪】(参)
ゆくぞ、と四季が声を上げて駆けだした。
その後を、綱が追う。
処は変わって……
とある住宅マンションの前の通りに、大勢の人が集まって空を見上げていた。彼らの視線の先には、一人の女性が五階のベランダから身を乗り出している。
「もう私、これ以上生きていけない……」
悲痛な声を漏らし、泣きながら女性が身体を前に傾けた。
それを見ていた観衆たちが「危ないっ」「きゃー!」と叫ぶ。
そこへ、一人の侍が駆けつけた。
まるで時代劇から抜け出てきたような、狩衣を身に纏った、その侍は、前を駆けていた狼の背に跳び乗った。すると、狼が背に侍を乗せたまま大きく跳躍し、マンションのベランダを脚掛けに、一気に女性の居る五階へと辿り着く。
驚いて口をあんぐり開けたままの女性の目の前で、侍は、腰に
「きゃー! 怖い死ぬ死ぬ死んじゃう~!
私、まだ死にたくなんてないのにー!」
女性がベランダにしがみついて震えながら叫ぶのを見て、侍は満足そうに微笑んだ。そして、狼の背に乗ったまま、町の喧騒へと消えて行った。
そこから少し離れた場所で……
銀行の入り口前を、何台ものパトカーが包囲している。その真ん中には、数人の覆面を付けた男達が、お金の入った大きな袋を担ぎ、用意された黒塗りのバンに乗り込むところだった。覆面の男達の一人は、一般人らしき人物に拳銃を突きつけている。
「おいっ! こいつの命が惜しけりゃ、お前らみんな、動くんじゃねえぞ!」
「どうする?」「まず、人質の安全が第一だっ」
「くそっ、このまま見逃すしかないのか……」
警官たちが歯を食いしばり、成すすべもなく見つめる中、覆面をつけた男達は、次々とバンに金の入った袋を積み込んでゆく。
そこへ、突然、パトカーの包囲網の上空を跳び越える一つの影があった。影は、覆面の男達のすぐ傍へ着地すると、二つに別れた。それは、一人の侍と狼であった。
突然、目の前に現れた時代錯誤の侍と狼に、その場に居た誰もがあっけに取られ言葉を失っていた。
焦った覆面の男の一人が、叫びながら持っていた拳銃を侍へと向ける。
「な、何だ貴様ぁ!」
しかし、侍は、拳銃が見えていないのか、刀を抜いて、地を蹴った。覆面の男達の頭上にある空を切ると、少し離れた場所に着地する。
「ただの侍よ」
そう言って、刀を鞘へ仕舞う。
呆然と見つめる一同を跡に、侍は、狼と共に跳び去った。
「……お、俺たちゃ……なんて事をしちまったんだ……っ!」
覆面の男達が突然、涙ぐみながら地に膝をつく。持っていた拳銃を取り落とすと、人質を解放した。
「……い、今だ。かかれーっ!」
気力を喪失した覆面の男達の様子を見て、周囲を包囲していた武装した警官たちが一斉に飛び掛かる。こうして銀行強盗達は、あっという間に捕まった。
解放された人質は、茫然とその場に膝をつき、侍の消えて行った方向を見つめて呟いた。
「今のは一体、何だったんだ……?」
〆 〆 〆
(なんでなんでなんで……どうしてこうなった?!)
廃屋のビルの中へ駆けこむと、徹は、恐怖に引き
背後から、おどろおどろしい空気と気配が足音も立てずに現れて、言った。
『うまそうだなぁ。お前からは、負の感情が溢れている』
地の底から這い出てきかのような声だった。とても人の口から出たものとは思えない。
徹は、恐怖を顔に貼りつけたまま背後を振り返った。今徹が入って来た建物の入口に、異様な姿をした人間が立っている。長い黒髪を振り乱し、頭からは二本の角が生え、血の気のない白い肌には、血走った三白眼と、血のように赤い唇が耳まで裂けている。唇の隙間からは、鋭く尖った大きな犬歯が覗き、そこから透明な液体が垂れていた。とても人間の形相からは程遠い。
鬼だ。
……と、徹は思った。
しかも、その鬼は、白いブラウスとピンクのカーディガン、黒色のフレアのスカートを履いている。それは、つい先程まで徹が腕を組んで歩いていた荊木透子が着ていた服と同じものだった。
「く、くるなぁ~っ!」
徹は、がむしゃらに両手を振り回した。威嚇のつもりか、自分でもわからない。
『いいのぉ……その恐怖に満ちた気は、一層うまい。
人間が絶望を感じた時の気が、一等うまい』
鬼が舌舐めずりをしながら、ゆっくりと徹の方へと近づいて来る。
恐怖に震えながら、徹は後ずさりした。向かってくる鬼と一定の距離を保ちながら後退を続ける。やがて、徹の背中が固い壁に当たると、もう自分に逃げ場がないことを知った。
(くそっ! 何で俺ばっかりこんな目に遭うんだ!)
一体、何がどうしてこうなったのか、徹には、さっぱり分からない。
つい先程まで、大学の構内一美少女である荊木透子と腕を組み、天にも昇る気持ちで道を歩いていた。それなのに、
『もう逃げ場はないぞ……大人しく、わしに食われるがいい』
そう言って、鬼が笑った。笑うと、余計に口が裂けて見える。鬼の地を這うような鬼の声は、徹の耳に更なる恐怖と絶望を植え付ける。
徹は、もうダメだ、と思った。
こんな誰も来ないような場所に逃げ込んでしまった自分がいけなかったのだ。
大声で助けを呼んでも、誰にも気づいてもらえない。
例え、誰かに気付いてもらえたとして、一体、どうやってこの鬼を退治するというのか。
その時、徹の脳裏に、刀を振るう一人の侍の姿が浮かんだ。
綱。
彼なら……彼が振るう刀ならば、この鬼を退治できるかもしれない。
でも、今、ここに綱はいない。
綱は、徹の元から去って行ってしまった。
徹が追い出したのだ。
『お前がいると、迷惑なんだよっ』
最後に自分が投げかけたひどい台詞を、徹は、ずっと気にしていた。あの時見た、綱の傷ついた顔と、小さくなってゆく物言わぬ寂しげな背中が目に焼き付いて離れない。思い出す度に胸が痛むので、徹は、なるべく考えないようにしていた。
――正義の味方は、もういない。
その事実が今、徹の胸に重くのしかかる。
今更、後悔しても、もう遅い。
綱は去ってしまったのだ。
鬼が大きく口を開けた。異様に育った犬歯の間から、
(俺は、ここで死ぬのか……?!)
徹が自身の死を覚悟した時、突然、目の前を凄まじい一陣の風が吹き通った。徹は、思わず目を
『なんだっ?!』
鬼も驚いた様子で周囲を見回す。
風が止んだ。
徹が目を開けると、目の前に頼もしい狼の背中があった。
「四季?!」
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