【参怪】(弐)

――……とおるくん。ねぇ、とおるくんってば。


(……ん? 誰だ? 、女の声……?

 やっぱり、どこかで見覚えがあるような……)


――とおるくん。私のこと、忘れちゃったの?


(え……いや、君みたいな可愛い子を忘れるわけないよ。えっと……)


 その時、ぼやけていた視界がくっきりと像を結び、声の主は、憧れのマドンナの姿に変わった。


(い、荊木さんっ! どうして、君がここに……)


――思い出してくれたのね。うふふ。嬉しい。……ねぇ、とおるくんは、私のこと、好き?


(え?! きゅ、急にそんなことを言われても……)


――私は、とおるくんのこと…………


 視界いっぱいに彼女の愛らしい顔が近付いてきて、俺は…………


――徹殿っ! 鬼退治へ行きましょう!


(は? 綱?? なんで俺が鬼退治に行かなきゃいけないんだよっ。

 今いいとこなのに……!)


――きゃー! とおるくん、助けてぇ!


(え? 荊木さん? どこへ……)


――徹殿っ! さあ、早く。鬼を倒すのです!


(ちょっ、ちょっと待てよ。鬼退治って……え、荊木さんは……)


 遠く霞んでいく荊木さんに向けて、俺は手を伸ばしたが届かない。


――とおるくん、助けてぇ!

――徹殿っ! 鬼退治です!


(鬼退治? 鬼を倒せば、荊木さんは、助かるのか?

 でも、俺なんかが、どうやって鬼を倒すって言うんだ――――?)



  〆  〆  〆



 カーテンの隙間から漏れる月の光が、徹の眠る布団の上に青白い筋を作っている。枕元には、読みかけの【御伽草子】が開いて置かれ、赤い五芒星の描かれた白いお守りが栞替わりに挟まれている。


(う、う~ん……)


 徹は、うなされていた。寝汗が垂れて、枕カバーに黒いシミを作っている。

 そして、何か重たいものが自分の身体にのしかかっているような不快感に徹が、はっ、と目を開けた。すると、目の前に、大きな黄色い目玉が一つ、宙に浮いている。ひゅっ、と徹の喉から声にならない空気が漏れた。

 ぎょろりと回転した目玉の視線が徹の視線とぶつかる。

 よく見ると、目玉の後ろには、黒い大きな塊のような影が見えた。



 徹が眠っている寝室の隣にあるダイニングでは、あぐらをかき、座ったまま刀を抱いて船を漕ぐ綱の姿があった。彼は、夜、いつもこの体勢で眠る。

 かたわらには、四季が狼の姿で丸くなって眠っている。


「うわあああ!!」


 突然、寝室から聞こえた叫び声に、はっと綱が目を開けた。瞬時に反応して立ち上がると、隣の寝室へと通じる扉を開けながら、明かりの点いていない部屋の中に向かって声を掛ける。


「いかがなされた、徹殿!」


 カーテンから漏れる青白い光の筋を目で追うと、徹の眠っている筈の布団がめくれており、それが主の不在を告げている。綱がさっと部屋の中に目を配ると、寝室の隅で丸くなって怯えている徹の姿があった。


「……つ、綱! 助けてくれっ……!」


 徹は、涙声になりながら訴えた。腰が抜けて、動くことが出来ないでいる。

 綱が近づこうと部屋に足を踏み入れた時、天井に禍々しい何かの気配を感じて顔を上げた。そこには、部屋の暗闇よりも濃い闇の塊があった。

 闇の塊の中心から、ぎょろりと黄色い大きな目玉が現れ、綱を捉えた。

 それを見た四季が嬉しそうに唸る。


『これは大物が捕まったものだ』


 綱が腰から刀を抜いた。


「己、妖怪。徹殿から離れよ!」


 そう言って、綱が妖怪に向かって刀を振るうと、目玉の妖怪は、徹から離れて窓辺へと移動した。

 四季が牙を剥き、妖怪に向かって飛びかかる。

 がしゃーん、と窓ガラスが割れ、四季は、妖怪と一緒に窓の外へと転がり出た。


「待てっ!」


 綱は、割れた窓の穴を肘を使って広げると、外へ踊り出た。

 その様子を徹は床に座り込んだまま、情けない声を上げて見送る。


「あぁ、ああ……」



 ようやく徹が腰を上げられるようになった時、窓の外からは、獣の吠えるような声と、何かが切り結ぶような斬撃音が聞こえていた。

 徹は、床に散らばったガラス片を踏まないよう気を付けながら窓に近づくと、窓を開けた。窓のすぐ外には、人ひとり分が立てる程のベランダがある。そこから恐る恐る外の様子を伺うと、すぐ真下の道路に、綱と四季に挟まれて逃げ場を失った妖怪の姿があった。

 道路脇に立っている街灯の明かりが、毛むくじゃらな妖怪の姿を露わにしている。それは、巨大な三毛猫のような姿をしていた。大きな黄色い目玉が一つ、顔の真ん中についていて、尻尾が三つに分かれている。

 その異様な姿に徹は息を飲んだ。これが綱の言っていた〝あやかし〟なのだろうか。


 綱が刀で切りつけると、猫の妖怪は、ひらりと身をかわし、反対側の道路へと着地する。その巨体からは想像も出来ない身軽さだ。

 妖怪の身体から、小さな毛玉のような塊が無数に飛び散り、綱を襲った。

 綱の身体が毛玉に覆われ、身動きが取れない。

 それを狙ったように、猫の妖怪が大きく綱に向かって跳躍した。大きな口を開けて、ぎらりと牙が光る。


「綱!!」


 徹は、思わず叫んでいた。

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