【参怪】(屍)


 徹には、五つ離れた姉がいる。今では、お互い疎遠となってしまっているが、幼い頃は、彼女が徹の母親代わりでもあった。徹の母親は、徹が生まれてすぐに亡くなっているからだ。

 おっとりとした優しい姉なのだが、一つだけ欠点があった。彼女には、人には見えないものが見えるのだ。世間で俗に言う〝霊感がある〟とでも言うのだろう。ただ、彼女に真実それがあったのかどうか、徹には解らない。なぜなら、それらの存在が徹には全く見えなかったからだ。

 そのため、徹はいつも、姉の話す言葉にびくびくと怯える日々が続いていた。見えないものは偽りのものとして目を背けることにした。そうすることで徹は自分の心を守っていたのだ。今でもフィクションというものには拒否反応を起こしてしまう。

 もし、それが見えるようになったとなれば、徹の心の平穏は乱されることとになる。しかも、その原因が、今目の前にいる男の所為だと言われれば、たまったものではない。今こうして、恐ろしい目に遭ったのも、全て、この男の所為なのだ。

 徹は、自分の中に、沸々と怒りの感情が沸き起こるのを止められなかった。


「徹殿。夜は、妖が最も力を持つ時。

 心に隙を作ってはなりませぬ。用心してくだされ」


 綱が真剣な表情で言った。その口調からは、徹を心配している気持ちが伝わってくる。

 しかし、今の徹に、それは逆効果だった。


「何だよ、それ……」


「徹殿?」


「……何だよそれっ! 元はと言えば、お前らの所為なんじゃないか!

 人前で真剣を振り回すわ、警察に職務質問されるわ、変なものが見えるようになるわ……それに、こんな……」


 徹は、己の掌を広げて見た。そこには、先ほど、窓ガラスの破片で切りつけた傷がある。つい先程までは興奮状態にあった所為か、全く感じなかった痛みが今になって、どくどくと波のように押し寄せていた。


「も、申し訳ない……」


 綱が困った顔で頭を下げる。


「どうせ俺は、ダメな人間だよっ。でもな、誰だってそうだろ?

 あんたみたいに、妖怪を切れる刀なんて持ってないんだからなっ!」


 徹の罵声に、四季が目を細めて軽蔑の眼差しを送る。


『浅ましや……人間の愚かなるところは、いつの世も変わらぬものよのぉ』


「徹殿。確かに拙者は、他の者にはない刀を持っておる。拙者自身、この刀に幾度も助けられておる故に、力を否定する事は致しませぬ。ですが……」


 綱が言葉を切って言った。


「真の強さとは、己の弱き心にこそ在るのです。大事なのは、それを認め、乗り越えようとする強い意志と心。何も力だけが全てではないのですぞ」


 徹を見る綱の表情は、真剣だった。

 逆に、傍にいた四季は、興味がなさそうにふいっとそっぼを向く。その仕草は、どこか呆れているようにも見えた。


「……俺は、おまえとは違う」


「無論」


「お前みたいに……正義の塊みたいなやつに……俺みたいな世界の脇役になる人間の気持ちが、分かるもんかっ」


 それを聞いた綱は、ひどく傷ついた顔をした。手にしていた刀をぐっと握りしめると、自身の体の前へと刀を掲げて見る。


「……拙者は、昔、大切な人を失った。今、その者を守れなかった己の罪を購う為、ここにいる。己の無力さを呪ったのは、拙者とて同じこと。ましてやこれは……〝正義〟という名目を掲げただけの、ただの復讐やもしれぬ……が、拙者には、それがまだ分からぬ」


 綱は、徹に向かって話しかけているようで、刀に向かって語るような仕草で言った。


 刀を持つ腕を下すと、反対の手で徹の前に手を差し出した。

 しかし、それを見た徹は、露骨に顔を背けて、吐き捨てるように言った。


「お前がいると、迷惑なんだよっ」


 徹の前に差し出された綱の手が、力なく下ろされる。

 最後に、すまぬ、と小さく呟くと、綱は徹に背を向けて、まだ陽の明けぬ暗闇の中へと走り去って行った。その後を四季が追うように駆けてゆく。



『良いのか』


 綱に追いついた四季が、顔を前に向けたまま問うた。目だけで綱の様子を伺おうとしたが、暗くてその表情まではっきりとは見えない。


「……ああ。この刀は、人の弱き心を食らう。

 最初から、こうするべきであった。

 拙者は、徹殿の傍におらぬ方が良いのだ」


 そう言った綱の声は、暗闇の中で一層寂しげに響いて聞こえた。

 走りながら綱が途中で、ちらと後ろを振り返った。そこには、遠く街灯の明りの下で、ぽつねんと座り込む徹の姿がまだ僅かに見えていた。



 徹は、よろよろと自分の部屋へ戻ると、既に血の固まった掌を眺め、力なくベッドへ倒れこんだ。全身に疲労が溜まっているようだ。汗も搔いていたが、お風呂に入る気にはなれなかった。割れた窓から夜風が吹き込み、徹の髪を揺らす。


 静かだった。

 綱が船を漕ぐ度に聞こえていた刀の擦れる音も、四季が寝ぼけて遠吠えをする声も聞こえない。


(これで良かったんだ……)


 そう思い、徹は、目を閉じた。また悪夢を見るのではないかという考えが一瞬頭をよぎったが、今度は、夢を見ることなく眠りに落ちた。

 

 これできっと平穏な日々が戻ってくる。そう思った。



――――こうして、正義の味方は去ってしまったのだった。

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