【弐怪】(肆)
次の駅に電車が停車したところで、綱に捕獲された男は、ホームへと引きずり出された。
徹と四季も、後を追って車両を降りる。
「なっ、何をするんだ! これは何かの誤解だ!
私は、何もしていないっ。その女が嘘をついているんだ!」
男が顔からずれ落ちた眼鏡を直しながら、電車の方へ指を差す。
つられて徹が背後を振り返ると、そこには、同じく電車を降りた女性が怯えた様子で縮こまっていた。徹の肩よりも少し低い場所で、華奢な肩が震えているのが見えた。
「そんな……私、嘘なんて、ついてません……」
やっぱりな、と徹は思った。
こうなってしまえば、どちらが本当のことを言っていて、どちらが嘘をついているのか、当の本人同士にしか分からない。徹も、女性が身を捩っている様子は見たものの、実際に男が女性に何かをしているところを見たわけではない。
こうなることが予想できていたからこそ、声を掛けられなかったのだ。
しかし、重たくなる空気を一喝するように、綱の声が響いた。
「黙れっ。男が嘘をついてよいのは、己の信念を貫く時のみっ。
お主は、その言に命を懸ける覚悟があるのか」
「な、何を言っているんだ……ふん、ばかばかしいっ。
命もへったくれもあるかっ。俺がやったっていう証拠でもあるのかよ」
すると、綱は、腰に下げていた刀を鞘から抜き、男の前に掲げて見せた。
周囲を歩く通行人たちが刀を指さし、動揺する声を挙げた。
「お主の言が、嘘か誠か……この<鬼切丸>が見極めてくれる」
ぎらり、と綱の掲げた刀身が光を反射して鈍く光る。
ところが、男は、それを偽物だと思ったらしい。卑下した笑みを浮かべると、気崩したスーツの襟を正し、胸を張った。
「なんだぁ、そんな玩具。俺を切るってんなら、切ってみろや」
背後で電車の発車音が鳴り響く。
刹那、綱が刀を振るった。ぴんと張りつめた空気を裂くように、辺りを風が舞う。
徹は、思わず目を瞑った。
「……お、俺がやりました……つい……出来心で…………」
徹が目を開けると、先ほどまで余裕の笑みを見せていた男は、膝から崩れ落ちるように床に伏していた。喉の奥から後悔の念を吐き出しながら、嗚咽を堪えている。
(一体、何なんだ……綱が刀を振るうと、どんな悪人も、まるで人が変わったように見える……)
徹は困惑して、声が出ない。しっかり傍で見ていた筈なのに、まるで何が起きたのか分からない。徹には見えない何かが、綱には見えているのだろうか。
ちょうどそこへ、騒ぎを聞きつけた駅員が警備員を引き連れて駆け付けた。二人とも、その場の光景を目にするや否や、困惑の表情を浮かべる。方や、伏して泣く中年男と、方や、刀を持った侍。どちらを捉えるべきか、二人が顔を見合わせて頷いた。
「ちょっと君、警備員室まで来てもらおうか」
そう言って、警備員が警棒を突き付けたのは、綱だった。
(そりゃそうだよな、誰が見ても、綱の方が不審者……って、納得してる場合じゃねぇ!)
慌てて徹が口を挟もうとした時、傍にいた女性が先に声を挙げた。
「ちょっと待ってください! ……違うんです。
その人は……私を助けてくれたんです」
徹は、驚いて脇にいた女性を見た。先ほどまでの怯え震えていた様子とは異なり、しっかりとした口調と眼差しで、警備員に向き合っている。
結局、女性が事情を説明してくれたため、綱の疑いは晴れた。そもそも痴漢を行った男が自身の罪を認めていたため、あとは警察を呼んで当事者同士で話をしてもらうこととなった。
綱が刀を持っていることについては、あくまで模造品です、と言って押し通した。警察が来ては、話がややこしくなるので、とりあえず徹の連絡先を教えて、ちょうどホームへ入ってきた電車へ、綱と四季と共に飛び乗った。
徹の通う大学がある駅までは、もう一駅先に行かなければならない。
電車の中は、ラッシュの時間が過ぎたのか、先ほどよりも空いている。
電車の発車音が鳴った直後、ホームの方から女性の声が聞こえた。
「あ、あの!」
徹と綱がホームへ視線をやると、先ほど助けた女性が深々と頭を下げた。
「助けて下さって、本当にありがとうございました!」
顔を上げた女性の顔は、憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。
そして、何故か、その隣では、痴漢男が相好を崩しながらこちらへ手を振っている。
それを見た徹は、綱の様子を伺うように横を見た。
綱は、笑っていた。容姿の良さだけではない、中身から滲み出る綱の誠実さと自信が、その表情には表れているように感じた。
徹は、何となく気まずい思いがし、綱から視線を外した。今自分が立っている場所がひどく不安定なもののような気がした。
それにしても……と、電車が発車してから綱が言う。
「あのように大勢がいる中で、何故、誰も助けてやらぬのでしょうか」
「……いろいろあるんだよ」
「助けを求める女人を助けられぬ事情とは、一体何なのです」
綱が徹を責めているわけではないことは、徹にもわかる。だが、まるで自分自身に言われたようで、徹は、その問いに答えることが出来なかった。
流れていく外の景色を眺めているふりをしながら、徹は、全くだ、と心の中だけで同意した。
その後、学校の図書館で資料を漁ってはみたものの、大した成果は得られなかった。わかったことは、綱の探している<茨木童子>という鬼が平安時代にいた、という幾つかの眉唾な文献と、渡邊綱という人物が実際に歴史上存在していた、ということだけ。
そもそも歴史に詳しくない徹が一人で調べるには限界がある。あまり気が進まないが、ここは、やはり歴史オタクの将を頼るのが一番手っ取り早いのかもしれない。そう思って、徹は、将に連絡を取ろうとした。
しかし、将は、週末恒例の史跡巡りの旅に出ており、すぐには戻れないという。月曜日の講義には出るというので、その時に詳しい話を聞くことにした。
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