【零怪】(弐)

「な、何だ……お前……」


 辛うじて絞り出せた声は、あまりにも弱く、自分でも情けなくなる程震えていた。

 侍がゆらりと動く。

 そして、流れるような動作で、腰に佩いている刀を抜いた。

 きらり、と刀身が夕日を反射して鈍く光る。

 それを見た瞬間、徹の全身の血が逆流を始めたかのように、動悸の音が激しく聞こえた。


(ほ、本物?!)


 それを見極められる程、徹は刀に精通しているわけではない。

 が、そんな事はどうで良く思える程、先程までの夢心地が嘘のように、徹の世界は急速に現実味を帯びていった。


 彼は危険だ。そう、徹の本能が教えていた。


(これって所謂……辻斬り、だよな?

 ……って、一体いつの時代だよ。アナログすぎんだろ!

 どっかの時代劇マニアか変質者か……もしかして、これが最近よくある無差別殺人ってやつなのか? オレ……俺、このまま死ぬの、か……?)


 空気が重い。まるで鉛の中に居るようで、息を吐く事さえ出来ない。

 侍が刀を構えた。

 逃げなくては、と頭では解っていても、身体は言う事を聞いてはくれない。見えない誰かに肢体を押さえつけられているかのようだ。


 侍が刀を構えたまま地を蹴り、宙を飛んだ。


(う、嘘だろっ……?!)


 徹は、反射的にぐっと両目を瞑った。

 刀は振り下ろされ、徹のすぐ耳元で空を切る音がした。それと同時に、徹の周りから重い気配が霧散していく。


(…………あ、れ?)


 痛みを感じるどころか、逆に気分が軽くなった事を不思議に思いながら、徹は、恐る恐る目を開けてみた。


(なんだ?切られたわけじゃ、ない?)


 自分の手、身体が無傷である事を確かめると、徹は顔を上げた。

 と同時に、急に視界が暗くなる。それは、刀を手にしたままの侍が、徹の方へと倒れ込んできた所為だった。


「うわああ!!」


 慌てて後ずさるも間に合わず、徹は侍の下敷きになっていた。生暖かく……何より、臭い。臭過ぎる。何日もお風呂に入っていない人の体臭が鼻につき、徹は、必死でそこから這い出した。


「……一体、何だってんだよ。……襲われたのは俺だろ!」


 息を荒げながら叫んでみるものの、それに答える声はない。


(し、死んだのか……?)


 侍は、地に俯せたまま、ぴくりとも動かない。そこへ、さっきから傍で、この一部始終を見ていたらしき犬が近づき、その肢体を鼻でつついた。


「こ、こら! ソレは食い物じゃないぞ!!」


 徹が、手で犬を追い払う仕草をすると、犬の視線が徹へと向く。その目が「お前がやったんだろう、どうするんだ」と、責めているような気がした。


「……ち、違う。俺は何もしてない。お前だって見てただろう!」


(……って、何を言ってるんだ、俺は……)


 犬に弁解する程動揺している自分が情けない。

 徹は、落ち着いて冷静に考えようとした。幸いな事か、周囲には誰もいない。


(と、とにかく警察に連絡を……って、この状況じゃ、誰が見たって俺が犯人だ。

 今ならまだ、この死体をどこかに隠して……って、いやいや、待て俺!

 それこそ立派な犯罪じゃないのか? 死体遺棄、とかいう……。

 それに、まだ死んだと決まったわけじゃない!

 落ち着け。そう、まずは確認するのが先だ)


 現状を理解する事は出来ないが、とりあえず、そこまで考えをまとめると、徹は覚悟を決めた。先程触れた時には生暖かかったが、もう一度、侍に触れて、それを確かめる必要がある。徹は、恐る恐る、侍の首元へと手を伸ばす。


 ぐぅ~~~……


 伸ばした手が侍に触れる前に、盛大な腹の虫が鳴り響いた。思わず自分の腹を見つめる。が、自分の音ではない。とすると……。

 しばらく思案した後、徹は、一つの結論に至った。


「よし。きっと、これは夢だ!」


「うぉんっ!」


 突然、犬が一吠えしたかと思うと、徹の腕に噛み付いてきた。


「いってぇ!!」


 どうやら夢では済まされないようだ。



    〆  〆  〆



「かたじけない。お陰で助かった、礼を言う」


 そう言って、侍は頭を下げた。

 どうやら腹を空かせていたらしい侍は、徹が後で食べようとコンビニで買っておいたパンと飲み物を与えると、ものの数秒で復活した。何でも、今日まで三日三晩、水以外何も口にしていなかったと言う。


 徹は、痛む腕を擦りながら、少し離れた地に伏せている犬を盗み見た。

 一見、無害そうな様子で寝てはいるが、実は、徹が逃げ出さないかと見張っている。先程から何度も隙を見て逃げようとしたのだが、その度に牙を見せて、徹の逃げ道を塞ぐのだ。

 そうでなければ、突然自分に斬りかかってきた謎の男を助ける義理など徹にはない。とっくに逃げ失せている。

 大声を出して助けを呼ぼうとも考えたが、ここまで騒いでいて誰一人としてこちらに気付く様子がないところを見ると、それも期待薄だろう。人気が少なく夜は静かだというこの地に住むことを決めたのが逆に徒となってしまった。

 徹は、逃げる事を諦めた。


(こいつが命令してるのか?)


 恐れながらも、徹は、目の前に対座する侍を睨み付けた。

 改めて見れば見る程、それは、なんとも時代錯誤な男だった。TVの時代劇などでしか見た事のないような服を着て、腰まで伸びた長い髪を後で一つにまとめている。

 服は汚れ、あちこち破れている上に、その間から見える肌は切り傷だらけ。どこからどう見ても、ただの浮浪者だ。

 もしくは、歴史オタクか、狂信的なコスプレイヤーといったところだろう。

 ただし、先程感じた異様な空気は、まるで微塵も感じられなかった。


 こんな暗がりの公園で、自分は一体何をしているのだろう、と徹は今更ながらに思った。

 当初の予定では、今頃、自宅のアパートに戻って、読み終えた本の考察をレポートにまとめている頃だ。それがどこをどう間違えば、こんな見ず知らずの危ない男と暗がりで向かい合っていなくてはいけないのか。


 考えれば考える程、徹は腹が立ってきた。先程までの恐怖は消え、今はこの理不尽な仕打ちに対する怒りしかない。

 それは、侍が何をするでもなく、ただじっと大人しく座っているから抱ける感情であって、一度、侍が腰の佩刀へと手を伸ばせば、いとも簡単に消え失せてしまうようなものである事を考えられる程、徹は冷静ではなかった。


「おい、お前! 一体、何が目的だ?!

 いきなり斬りかかってきたかと思えば、今度は、こんな監禁まがいな真似しやがって……金か? 金なのか? 言っておくがなぁ、うちは貧乏なんだぞ!!」

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