【零怪】(参)
ふん、と犬が鼻を鳴らす。まるで小馬鹿にされたようで、徹はかっとなった。
しかし、徹が二の句を告げるより先に、侍の冷静な声がそれを制した。
「貴殿の言い分は尤もだ。
空腹で冷静な対応が出来なかったとは言え、あのような行動は失礼だった。
申し訳ない」
予想外の侍の真摯な態度に、徹は虚を突かれ、少し落ち着きを取り戻した。
どうやら話して解る相手のようだ。
だからと言って、他人に刃を向ける男を簡単に信用するつもりはないが、話をしてみる価値はある。
「どうして俺を狙った?」
「貴殿を狙ったのではない。貴殿に取り憑いていた小妖怪らを切ったのだ」
一瞬、空白の間があった。
「何を……切ったって?」
聞き慣れない言葉に、徹が改めて侍に問う。自分が聞き間違えたのだろう、と思った。
しかし、徹の期待を裏切り、侍は真面目な顔をして答えた。
「
徹の思考が一瞬止まった。
今度は、はっきりと聞こえた。彼は、こう言ったのだ。
〝
「あやかしって……それは、虫か何かの一種ですか?
カゲロウ、とか?」
「虫ではない。正確には、陰の気のようなものだ。
人の悪しき心が陰を生み、妖を呼ぶ。俗に“妖怪”とも言うな」
「えー……あなたには、それが見えると?」
「左様」
どうやら、彼の言葉を真面目に聞こうと思った自分が間違っていたらしい。
彼は、無差別殺人者でも、ただの歴史好きなコスプレイヤーでもない。
(狂信的なオカルトマニアの精神異常者だ!!)
そうと解れば、話は早い。この手の人間を扱う術は、心得ている。
徹は、人の良さそうな作り笑いを浮かべた。
「へーそうだったんですか。じゃあ、あなたが俺を助けてくれたってわけですね。
いやー、危ないところをありがとうございましたー」
「礼には及ばぬ。これも全て、大儀のため」
「そうですか、そうですか。大変ですねー、お侍さんも。
今の世の中、リストラとかで大変でしょうに」
「りす、とら? ……ここには、虎が出るのか?」
「え、やだなー。またまた、冗談がお好きなんだから。それよりも……」
徹が犬を指さした。
「そこの犬、どかせてもらえません?
そろそろ俺、帰らないと。
レポートもやんなきゃいけないし、いろいろ忙しいんですよ」
それまでじっと動かずに伏せっていた犬の耳が、ぴくりと動いた。
「ああ、お急ぎであったか。それは時間を取らせて、すまなかった」
よしよし上手くいったぞ、と徹は内心ほくそ笑んだ。このまま自然な形で別れを告げれば、今日あった事は、全て夢だったとして、いつもの無事平穏な日常へと戻る事が出来るだろう。
「いえいえ。解ってもらえたら、それでいいんです。
それじゃ、俺はこれで……」
と言って、徹は笑顔でその場を立ち去ろうとした。
「いや、待て。もう夜も遅い。拙者が貴殿を邸まで送ろう」
徹に合わせて、侍がすっくと立ち上がる。
(え?)
徹の作り笑顔がぴくりと引きつった。
「いえいえ、お構いなく! 家は、ここからすぐ近くですから。
それに、遅いって言っても、まだ七時にもなっていませんよ」
ほら、と証拠を見せるつもりで、徹が腕時計を侍の方へ向けた。そのデジタル式の腕時計は、暗がりの中、明るく時を示していた。
「いや、先程の事もある。それこそ宵闇に紛れて、何が現れるか解らぬと言うのに……命の恩人を危険な目に遭わせるわけにはいかぬ」
(いやいや、あんたの方が危険だからー!!)
「いや、本当に俺は大丈夫ですから……」
そう言いながら、後ずさる徹。いざとなれば、走って逃げるしかない。そう覚悟した時、徹の背後から、突然、地を響くような声がした。
『ええい、まどろっこしい。いつまでやっておるのか、時間の無駄じゃ。我が話す』
「え?」
徹が首だけで背後を振り返る。
『いいか、小僧。一度しか言わぬから、よぉく聞いておけ』
そこには、先程まで徹から少し離れた前方に伏せっていた筈の犬の姿があった。
『我らは、この時代の者ではない。遙か遠い京の都から、一匹の大妖を追ってやってきた』
地を響く声は続く。そこには、犬の姿以外誰もいない。
「い、犬が喋って……」
必死に堪えて口を出た言葉がそれだけだった。
『我を犬畜生などと一緒にするな!
先程から黙って聞いていれば、犬だ犬だと無礼千万!
この時代の者は、礼儀を知らぬと見える』
「だって、どっからどう見ても犬だろ!」
徹がやけくそ混じりに主張すると、侍が静かな口調で説明をしてくれた。
「彼は式神だ。今は、このように犬の姿をしてはいるが……」
『犬ではない。狼よ!』
式神なのか犬なのかよく解らない存在が異議を唱える。
しかし、徹には、それが犬だろうが狼だろうが狸だろうが……そんな事はどうでもいい。
彼らは何を言っている? この時代の者ではない? 大妖を追って、時空を超えてきた……?
『まだ我の話は終わってはおらぬ』
式神が徹の方に向き直り、牙を剥く。が、徹は、その話の半分も聞いてはいない。
『我らが探している大妖……ヤツの匂いがお主からしたのは確かなのだ!』
「まだ言うかっ」
それまで穏やかな態度をとり続けていた侍が、初めて声を荒げた。
「それはもう、そちの思い違いだったと解ったであろう。
確かに、この者からは、多くの陰の気が流れ出ていた。
が、それに憑いていた妖は、皆切り捨てたではないか!」
『黙れっ。我は間違ってなどいない。
ただでさえ、こやつからは、陰の気が漂っておるというに。
これにつられてヤツが現れないとも限らぬだろう』
二人の激しい言い争いの渦中に挟まれて、徹は身動きが取れなかった。いや、そうでなくとも動けなかったであろう。
今度こそ、徹の思考回路は完全に停止していた。
「……確かに、お主の言う事も一理ある。
ヤツの居場所が解らぬ今、ヤツがこの者を襲う可能性もあるというわけだ。
それに拙者とて、助けてもろうた恩を返さず去るわけにはいかぬ」
『決まりだな』
式神が口の端を上げて、にっと笑った。
侍は、姿勢を正すと、改めて徹に向き直った。
「申し遅れたが……拙者の名は、
(どっかで聞いた名前だな……)
と、呆然とした頭で徹は思った。しかし、それを思い出せる程、徹の思考回路は、まだ回復してはいない。
「どうか、ご安心下され。貴殿の事は、拙者が必ずお守り致す」
綱と名乗った侍が決意の表情でそう宣言した時、徹の中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
「……あ、安心出来るかぁ~!!!」
これが、俺と綱の出逢いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます