【壱怪】藤原徹の憑いてない一日。

【壱怪】(壱)

 その日、藤原徹は、朝から妙に調子が良かった。

 口内炎の痛みは相変わらずだったが、身体の調子がどことなく良い。いつもは気怠い朝の起床も、今朝は目覚めが爽やかだった。昨夜、いつもより早めに床についたからからもしれない。夜遅くに寝る癖がついていた為、久しぶりにぐっすり眠った気がする。


 それというのも、昨日あった妙な出来事の所為だ。徹は、身支度を調えながら、昨日出逢った、侍の格好をした妙な男の事を思い出していた。


 あの後、彼らがこれからの予定を話し合い始め、気を緩めた隙に、徹は逃げた。それも全速力で。犬の足ならば、すぐに追いつかれるだろうとは思ったが、町中に出て彼らを巻くつもりだった。

 そして、しばらく人混みの中をめちゃくちゃに走り回った後、彼らの姿がない事を何度も確かめて、家へと戻った。どうやら上手く巻けたようだ。


 しかし、課題の本は読みかけで、レポートが完成する筈がない。予定を崩された苛立ちからか、やらなければと思っていた試験勉強さえやる気にはなれず、結局、何をするでもなく眠ってしまったのだ。


 学校へ向かいながら、すっきりした頭で徹は考えた。

 昨日の事は、全て夢だったのだ。

 普段読まない本などを読んだ所為で、うたた寝でもして、変な夢でも見たのだろう。そう言えば、あの本の中には、鬼を退治する武士の話が書かれてあった気がする。それに影響されたに違いない。

 

 第一、犬が人語を喋るわけがないのだから、あれが夢でなければ、徹の頭がおかしくなったとしか考えられない。

 だから、昨日の事はもう忘れよう。……と、徹は心に決めた。

 そうと決めると、徹の気分は更に晴れた。その足取りは軽く、朝日が心地良い。今なら、何でも出来そうな気がした。


 とある大学のキャンパスで、徹は、講義を受けていた。

 退屈で有名な教授の授業で、居眠りをしている生徒が目立つが、必須科目である為、皆、必死に睡魔と戦っている。

 最初は目が冴えていた徹も、その熱気に当てられ、次第に意識が朦朧としてきた。昨夜しっかり寝た筈なのに、眠気の伝染力というものは凄まじい。と、徹は苛立ち紛れに思った。


 そんな教室の前に、怪しい影が二つ現れた。


「ここか」


『うぬ。なにやら、ただならぬ妖気を感じる』


 影が動く。


「御免っ!」


 ガラッ、と大きな音を立てて扉が開かれた。

 その音に驚き、比較的まだ意識のあった生徒達の視線が一斉に扉へと向かう。

 教授は、それをただの遅刻者だと思ったのだろう。扉が開く音など聞こえなかったかのように、黒板にミミズのような文字を書き連ねながら授業を続けている。


 徹は、朦朧とした意識を覚醒させてくれた音に、反射的に目を向けた。と同時に、徹の睡魔が一気に霧散する。その開いた扉から現れたのは、徹が昨日見た例の夢に出てきた綱とかいう侍と、狼のように大きな犬だった。


「おのれ、妖め……このような神聖な学舎にまで現れるとは言語道断!」


 綱が腰の佩刀を抜き、それを顔の横で構えた。刀がきらり、と光るのを見た生徒達が騒ぎ出す。


「な……何なんだねっ、……君は!」


 その騒ぎに一歩遅れて気が付いた教授が、震える声でそう叫んだ。

 しかし、その声は、生徒達の騒ぎ声に掻き消され、綱の耳には届かない。


「はぁあ……っ!」


 威勢の良い掛け声と共に、綱が刀で空を切る。それと同時に、外の新鮮な空気が、教室内の熱気を払ったかのように思えた。


 一瞬、あまりの出来事に場が静まったが、それまで居眠りをしていた何人かの生徒達が起き出すと、更に騒ぎが大きくなった。逃げまどう者もいれば、机の下に隠れる者もいる。

 こんな時、一番しっかりしなければならない筈の教授は、腰が抜けたのか、教壇の上で尻餅をついたまま動かない。


 しかし、綱は、それらに構う事なく刀を振り続けていた。その刃先が人を傷つける事は決してなく、そのすれすれの所の空だけを切っている。

 そんな中、徹一人だけが落ち着いていた。

 そう、これは夢なのだ。

 どうも自分は、授業中にうたた寝をしてしまったらしい。


(早く起きないと……)


 そう思って目を覚ます努力をしてみるが、見える景色は一向に変わらない。綱が刀を振り回し、教室から逃げようとする生徒達を犬が扉前で牙を剥いて塞いでいる。

 その光景は、とても現実のものとは思えないが、それが夢ではないという事だけは事実だった。


「また会ったな」


 呆然としている徹の傍に、いつの間にか綱が立っていた。


「…………頼む。これは夢だって言ってくれ」


「なんのことだ?」


 その時、にわかに廊下が騒がしくなった。どうやら誰かが警備員を呼んだらしい。


「こっちです! ここに、日本刀を持った侍が暴れてるんです!」


「あはは、君ねぇ。侍って、一体いつの時代だよ。

 時代劇じゃあるまいし……」


 全くだ。と徹は、警備員のおじさんに強く同意した。

 しかし、この光景を目にした後のおじさんを想像すると、同情せざるを得ない。

 案の定、教室に顔を出したおじさんの表情が見る間に変わっていった。


「な、何だね君は!

 そそそんな物を持って……今すぐソレを収めなさい!」


 警備員が現れた事により、いくらか安心したのだろう。生徒達の騒ぐ声が少し落ち着く。


「き、君は……君もそいつの仲間なのか?!」


 警備員が指をさして尋ねた。その指は震え、目が怯えている。


「え? 俺??」


 皆の視線が自分に注がれている事に気が付いた徹は、即座にそれを否定しようとした。が、


「ここは一旦、退こう」


 という綱の一言で、この場にいた全員に、徹が彼の仲間だと認定されてしまった。


「ち、違う! 俺は、こいつとは無関係だ!」


 しかし、事は既に遅く、皆の視線から誰も徹の言葉を信じていない事が解る。


「こっちだ、早く!」


 徹は、綱に半ば無理矢理引き摺られて、後方の扉へと移動した。

 そこには、先程から生徒達が教室を出ないように見張っていた犬が居る。


『小僧、また会ったな』


 犬が口の端をにやりと引き上げて笑った。


「犬は喋らない犬は喋らない犬は喋ら……・」


『我は犬ではない!』


 その声が周りに聞こえたのかどうかは解らなかったが、聞こえていたとしても、まさかその声が犬から発せられたものだとは誰も思わなかっただろう。

 それに、既に他の生徒達は、綱と徹を避け、距離を置くように逃げてしまっている。


「ま、待てっ!」


 警備員が追い掛けてくる仕草を見せたが、綱が刀を構えるのを見て、動きを止めた。


「外へ」


 綱が徹に背を向けたまま言う。徹は仕方なく言われるがまま、廊下へと出た。

 しかし、廊下の左右ともを野次馬の生徒達に囲まれていて、逃げ道がない。その向こう側からは、他の警備員たちがやってくる姿が見えた。


「だめだ……」


 徹が諦めかけた時、背後から綱が追いついて叫んだ。


「飛べ!」


「え……うわっ!」


 振り返るより先に、背中を強く押された。目の前には、開いた窓。

 そして、3階から見える景色が徹の視界に飛び込んでくる。

 徹は、抵抗する事も出来ないまま、前のめりに上半身を窓から外へと出していた。


(落ちる……!)

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