【壱怪】(弐)

 と思った瞬間、背中側の服を何か強い力で引っ張られた。落ちて行く速度がゆっくりになり、地面まであと数センチという所で急に解放される。徹が地に伏したまま、何が起きたのか理解出来ずにいると、頭上から声が降ってきた。


『情けない……』


 犬だった。伏したまま見上げると、それは普通の犬よりも一回りも二回りも大きく見える。今、狼だと言われたら、納得してしまうだろう。

 それに、どうやら徹は、この狼に助けられたようだ。


 起き上がって自分が落ちてきた窓を見上げる。そこから侍の恰好をした綱が青空をバックに飛び降りてくる姿を見て、徹は、自分がもう後戻り出来ない所まで来てしまった事を悟った。



  〆  〆  〆



 大学とは不思議な場所だ、と徹は思う。一つのキャンパス内に多種多様な服装を着て、多種多様な言語を話す人間が一時に集まっているのだ。時には年齢の壁さえ超えた友情も芽生えるという。

 その中でも一際目立つ「ゴシック・アンド・ロリータ」(略してゴスロリ)と言われる衣装を身にまとった女性が徹の目の前を堂々と横切っていった。


「なんと面妖なっ! 一体あの着物は、何の呪いなのだ? 

 他の者も変わった格好をしているが、あれほど奇妙な着物は見たことがない」


 あんたもな、と徹は心の内だけで突っ込むと、隣を歩く人物には目もくれず歩を早めた。


「この時代の学び舎は、何とも奇怪な場所よのぉ……」


(お前が一番奇怪なんだよっ!!)


 きっ、と隣を睨むが、視界に入ってきたのは肩の部分だけで、意外に身長が高いことがわかる。一歩離れて見やると、時代劇でしか見たことないような格好に、ポニーテールのようなちょんまげ、そして、腰に差された刀が目に入った。

 どこからどう見ても危険人物だ。


「何故だ……何故、誰も気づかない?!」


 先程から何人もの学生とすれ違っているが、徹の隣を歩く人物を見て騒ぎ立てる者は一人もいない。学芸会か何かの衣装と思われているのだろうか、まるで風景の一部とでもいうように皆通り過ぎていく。

 いや、確か学際の時期には、まだ半年以上もある筈だ。


 一人苦悩して頭を抱える徹に、どうされた? と心配して聞いてくる人物は、自分がその悩みの根源であることに全く気付いていない。


 あの後、徹たちは、学内を走り抜けて追っ手を巻くと、とりあえず、ほとぼりが冷めるまではと、人気のない階段裏を見付けて隠れていた。


 教室で、あれ程の大立ち回りを演じてみせた後、ここまで走ってきたというのに、目の前にいる侍は、汗もかかず、息一つ乱れていない。反対に、すっかり息の上がってしまっている自分を顧みて、徹は妙に居心地の悪い気持ちがした。

 それを誤魔化すように、徹は、建物の影から表の通りをそっと伺う。


“いたか”

“いや、こっちにはいない”

“本当に居たのか? 侍なんて”

“本当だとも! 目撃者もたくさんいる! それに、刀を持っていた”

“それなら目立っても良いものだが……全く、一体どこへ消えたんだ……”


 何人かの警備員達が忙しなく行き来していくのが見えた。思ったほど大仰な事になっていないのは、事が非現実的過ぎて、誰もが半信半疑だからだろう。

 しかし、ここにずっと居たとしても、見つかるのは時間の問題だ。どうしたものか、と徹が頭を悩ませていると、唐突に綱が何かを見つけた顔で表へと出て行こうとする。徹はすんでのところで、がしっと綱の着物の裾を掴んで止めた。


「ちょっと待て、お前、今出て行ったら速攻で捕まって、刑務所行だぞ」


「しかし、妖を放っておくわけには……」


「妖なんているわけないだろ!」


 綱は、徹が手を離せば、今にも腰に下げた剣を抜いて飛び出しそうな勢いだ。


『妖が見えぬ者に何を言っても無駄よ。小僧がっ』


 徹のすぐ足元で、狼が吠えるように唸った。人を小馬鹿にした態度に、徹は腹が立った。


「小僧小僧ってな……俺には、〝藤原 徹〟って名前があんだよ」


 口にしてから、しまったと思ったが、もう遅い。こんなわけのわからない存在に個人情報を渡してしまったことを徹は、今更ながらに後悔する。

 ところが、それを聞いた綱は、はっとした表情で徹に向き直った。


「藤原? そなたは、関白殿の縁者であったのか」


「は?」


 これは大変失礼をした、と言って綱が徹の足元に跪く。

時代劇でしか見たことがないような扱いに、徹は、ぎょっとした。


「ちょ、ちょっとやめろよ。そんなことされたら困るだろう」


 徹が立つように促すが、綱は、膝をついたまま顔だけを上げる。


「これまでの非礼、心よりお詫び申し上げる。

 とおる殿、どうか拙者のことは、綱、とお呼び下され」


「わかった、わかったから……綱。とりあえず、落ち着け」


 徹は、先程から足下に伏せて、退屈そうに欠伸をしている狼に向かって言った。


「お前、俺たちを運んで飛んだり出来ないのか? さっきみたいに」


『……愚問だな。出来ぬとは言わぬが、それこそ目立つであろう』


 ふん、と鼻を鳴らして、人をバカにした態度を取る狼への怒りを、徹は、拳を握ってぐっと堪えた。


「じゃあ、何か他に良い案でも?」


『我の知ったことか』


さも自分は関係ないという態度でいる狼を見て、さすがの徹も怒りを抑えることが出来なくなった。


「あのなぁ、元はと言えば、お前らが巻いた種だろう!

 お前らでどうにかするのが筋ってもんじゃないのか?!」


『勘違いするなよ、小僧』


 狼が徹を睨みながら立ち上がる。


『我らの目的は、一つ。

 遙か遠い京の都からやってきた大妖を見付け、退治することよ。

 それ以外の事がどうなろうが、我には関係のないこと』

 

「な、なんだよ、それ……おい、綱からも何とか言ってくれよ。

 これ、あんたの犬だろう」


『我を犬と愚弄するか!』


「すまんが、それはできん。式神は、真の主の命しか聞かぬのだ」


「式神ぃ? 式神って……陰陽師とかが使う……?」


 ああ、と綱が頷く。


「じゃあ、お前は、陰陽師なのか?」


「いや、拙者は武士。この式神は、知人から借りている」


「れ、レンタル可能なのか? 式神って……」


 徹は、足下で憤然としている式神に、不審そうな視線を向けた。ただでさえ、人間の言葉を喋る狼という怪しさに加えて、益々胡散臭く感じてしまう。


 その時、徹の背後から声を掛ける者がいた。

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