第一部 渡辺綱と茨木童子
【零怪】侍、現る。
【零怪】(壱)
初夏の空の下。
高層ビルが立ち並ぶ屋上の一角に、仁王立ちで眼下を見下ろす一人の侍がいた。ビル風が激しく吹き荒れる中、薄汚れた
その足下には、黄金色の毛並みを持つ狼のような獣が鼻をひくつかせていた。
『……匂うぞ。近くにいる』
「ああ。この<
侍が腰の佩刀に手をやるのを横目で見て、獣が鼻を鳴らした。
『怯えておるのか』
「武者震いだ」
不敵な笑みを浮かべる侍。そのすぐ足下には、交通量の多い道路、車のクラクション、所狭しと行き交う人の群れが広がっている。
『よくもまぁ、このような場所に人が棲める。鼻が曲がりそうだ』
「……妖気の数も多い。おかげでいらぬ時間をくったな」
『かくも数多なる匂いがなければ、我が真っ先に見付けてくれたものを……』
悔しそうに鼻先に皺を寄せる獣を見て、侍が苦笑した。
「これで最後だ。いざ、行こう」
その言葉を合図に、一人と一匹が同時に地を蹴る。そのまま宙で侍が獣の背に捕まると、彼らの姿は、都会の喧噪の中へと消えていった。
〆 〆 〆
藤原
大学二年生になってからというものの、授業量が半端なく増え、ただでさえ忙しいというのに、今日また新たな課題を出されてしまったのだ。それも専門科目ではなく、ただ友人に勧められて取っただけの教養科目でだ。
授業のコマとコマの間に空いた時間を埋める為、簡単に単位が取れるという話を聞き、適当に取った授業だったのだが、思わぬオマケが付いてきてしまった。
「今時、読書感想文なんて大学生のやることかよ……」
それは、授業で指定された幾つかの本の中から一つを選び、その内容について自分なりの考察をレポートにまとめてこい、というものだったが、要は作文だ。試験もない、出席も取らないで楽をさせてもらう代わりと思えば安いものだが、徹にはそれが辛い。
活字を読むのが苦手というわけではない。元々あまり本を読む方ではないが、知識を得るための専門書や実用書くらいなら普段から苦もなく読んでいる。
ただ、徹は、フィクションと名のつくものにめっきり弱いのだ。作られた物語、偽りの小説と聞くと何故だか身体が拒否反応を起こす。
これには、幼少時代に姉から受けた酷い仕打ちが原因だろうと察してはいるが、本人は必死にそのことから目を逸らそうとしている。
また、特にここで挙げる話でもないため、割愛する。
その為、作文や読書感想文といったものが苦手となるのは当然のことで、徹は、これまで何度も苦汁を飲まされてきた。高校に上がってからは、そのような宿題もなくなり、やっと開放されたと思っていた矢先に、今回の課題である。
数学が嫌いで文系を選択したのに、大学の教養科目で数学の講義を取らなければならないと知った時の驚愕を想像してもらえれば解るだろう。
徹は、その逆で理系を取った口だが、まさかここで読書感想文を書かされるとは思ってもいなかった。
そもそも、作り物の話に対して、一体どういう考察をしろというのか。
やらなければならない課題は、他にもたくさんあるし、そろそろ試験勉強も始めなければならない。それなのに、こんな最も手間の掛かる授業を取ってしまった事に、今更ながら徹は後悔していた。
提出期限は、二週間後。嫌な事は、さっさと終わらせたいとは思うものの、一人暮らしの狭いアパートに籠もって本を読む事を考えると気が進まない。
『まぁまぁ。天気の良い日にさ、公園の芝生なんかに寝そべって読書するってのも、気持ちが良いもんだぜ。気分も変わるしさ、その分、集中して早く読めるし』
と言った、読書家の友人から受けたアドバイスを思い出し、学校帰りに近所の公園へと足を向けていたのだが、その足取りは重い。肩から掛けている鞄が普段よりずっと重く感じた。
公園に着くと、小学生くらいの子供達が数人遊んでいる他は、誰もいない。子供達は、手に木の棒を持って、チャンバラごっこをしている。
そういえば、自分にもそんな遊びをしていた頃があったっけな、と徹は、感慨深げに子供達が遊ぶ様子を眺めた。あの頃は、自分でも正義の味方になれる、と本気で信じていた。今では、そんなものはただの幻想で、現実に正義の味方などいないのだ、と理解している。
徹は、子供達から離れた場所に丁度木陰になった芝生を見付けて腰を降ろすと、鞄の中から持ってきた本を取り出した。
【
指定された本の中で、一番読みやすそうなものを選んだのがこれだ。古い御伽噺をまとめたもので、まさに徹が苦手とするジャンルの物語である。
正直、今更こんなものを読んでどうなるというのか甚だ疑問だが、これが課題なのだから仕方がない。
この講義を受けようと誘ってきた級友を恨めしく思いながら、徹はため息をつき、ページをめくった。図書館のカビ臭い匂いが鼻腔を突く。
長い間、読み手を失っていた御伽噺の数々が今、徹を通して現出しようとしていた。
雲がゆっくりと流れ、少し離れた場所から子供達の笑い声が聞こえる。
しかし、それらの音は、いつしか徹の耳から遠ざかっていった。
いつからそこに居たのだろう。
しばらく経ち、夕日が辺りを赤く染め上げる頃、徹はそれに気付いた。ふと顔を上げた先に、一匹の薄汚れた犬が立っている。
犬、にしては大きい。犬種も、ハスキーに似てはいるが、少し違う。
〝狼〟
という言葉が脳裏に浮かび、まさかな、と思う。そんなものは、今の日本に存在しない。きっと犬だ、と徹は思おうとした。
(まるでお
柄にもなくそんな事を思ったのは、今読んでいた本の影響だろうか。
それにしても現実離れした光景だなと思った。
まるで本の中から飛び出してきたかのように、突然そこに現れた獣。夕日と同化し、黄金色に輝く毛並み。微動だにせず、じっと徹を見つめる瞳から目をそらす事が出来ない。
しかし、その静寂を破るように、突然、犬が低く唸った。その音にはっとして、徹は、それまで自分が息さえ止めていた事に気が付く。
「見付けた……」
誰かが背後から呟く声がした。
徹が振り向くと、二メートル程離れた場所に、一人の侍姿をした男が立っている。
(ぐっ……なん、だ?)
侍の登場と共に、周囲の空気が変わった。ぴんと張り詰めた目に見えない糸が、徹と侍の間に張られているかのようだ。
薄汚れた服に、切り傷だらけの肌。その表情は、逆光になっていて解らないが、周囲に異質な空気を放っている。
一体いつ、どこから現れたのだろうか。
それこそ、本当に本の中から現れたかのようだった。
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