第11話
初月(みかづき) 京(きょう)珠(じゅ)は、所謂変人であり、天才でもあり、また、まぎれもなく美少女であった。
社交的とは言えない性格と、清潔感はあるものの、おしゃれに気を遣わないその佇まいから、日常生活では目立つ存在ではないものの、彼女の持つポテンシャルはかなり高いと、親光を始め、祝詞も似たような認識を持っている。
常に考え事をしてるような、少しだけ細められた目は、実は作られたようなくっきりとした綺麗な二重で、瞳も大きく、鼻筋も通っている。
野暮ったい印象の銀縁の眼鏡と、長い髪をシンプルなヘアゴムで比較的雑に結わいていることから、その美少女性が隠されているのであった。
理系の成績は常に満点に近いが、逆に文系は赤点にならないギリギリの点数しかとらない為に、全教科の総合点数でしか順位発表がされない祝詞の高校では上位には入らなかったり、五人中四人が幽霊部員である科学部の部長であったり、極度の実験マニアであらゆるものを開発、試作を繰り返しては、ガラクタを沢山生み出している変わり者ともなれば、関わる人間そのものが限られてくる。
当然、彼女自身もそんなこと気にする人間であるはずもなく、科学部として一定の研究、活動成果をレポートにして学校に提出してさえいえば、予算と場所と器具と薬品を自由に使える今の状況に非常に満足しているのだった。
そんな彼女は、言うまでもなくバリバリの科学至上主義であり、オカルト否定派あるのだが、祝詞と出会い、彼に『幽霊』の仕組みを聞いたことで、その存在を信じるようになった。
基、『幽霊』が科学的な介入で滅することができる、という単純なエサにつられて、電磁波やプラズマが発生する数々の武器を開発しているだけ、という話もある。
もちろん有料で、祝詞が注文する条件を満たしたモノを開発するのが、彼女のバイトであり、研究と検証を兼ねた発明活動であり、役割であった。
「よしっと。電磁波発生&プラズマ相殺グレネード、追加分完成っ」
幽霊は脳波エネルギーが増幅されたプラズマに似たエネルギー体で、電磁波や同じプラズマによって、分解、相殺して消滅させることができる。
それが、祝詞が検証によって証明してくれたことの一つであり、その理論の元、こうして兵器を作っている訳なのだが、最近、京珠には独自の仮説というか、少しだけ別の理論が持ち上がっていた。
『幽霊』のエネルギー的な正体が判明したことで、プラズマや電磁波可視化するゴーグルを作り、それによって、祝詞たちが言う『幽霊』的なものを観測するととは出来るようになった。
それはぼんやりとした影のような『靄』の集合体で、人の形かどうかはもちろん、どんな姿格好か、というところまでは、このゴーグルでは見ることはできない。
いないはずの何かがそこにいて、それに干渉するにはプラズマや電磁波が必要であるこ-とも理解している。
だが、である。
仮説と実験と検証が日課となっている京珠は、幽霊可視化ゴーグルを使って、おそらく幽霊と思われるエネルギー体を観測し、それを一人で撃退するべく、開発した武器の数々を試してみたりもしたのだが、強い磁気を帯びた釘バットも、電磁波グレネードも、人型っぽい『靄』の一部を、霧散させるように削ることは出来たが、実際に祝詞が扱った時のように、着弾部分から放射状に吹き飛ぶ現象には至らなかった。
特別霊障に悩まされている訳ではなく、そもそも自らの瞳だけでは、その姿を見ることすらできない京珠は、ゴーグル越しに可視化した『幽霊』らしきものが消えないことよりも、同じものを使用して、なぜここまで効果が違うのかの方が、気になっていた。
これまで多くの科学者が、幽霊が実在するのか、というところから始まって、科学で解明できるのか、科学の力で干渉は可能か、ということに触れ、研究なり観察なり、あるいは検証をしてきたはずだ。
だが、誰もその本質や結論に至った人間はいない。
むしろそういう意味では、京珠は最も、幽霊の証明に近い場所まで迫っていると言える。
「そうは言っても、全部式守の言うことに従って得た結果であって、私が個人的にどうこうできたものじゃないっていうところが、引っかかるんだよね」
今日も今日とて、京珠一人しかいない理科実験室で、誰にいうでもなく呟く。
京珠は研究者として、仮設と検証を繰り返す過程で、どうしても独り言を呟くことも多い。口に出して、音にして自らの耳で聞くことで、仮設や実験の過程での違和感やミスを確認する作業にもなる。
思考に塗れる時、京珠の瞳はここではないどこかを見つめ、虚ろに呟きながら、室内をうろうろと徘徊する。
そして僅かでも結論めいたものに至ったところで、ふと立ち止まり、席に座る。
「やっぱり、あいつの特殊体質によるところが大きすぎるんだよね」
祝詞の定義する『幽霊』、そして、自分も体験している『霊障』と呼ばれる超常現象の類は、確かにプラズマと電磁波に影響は受けるものの、それを扱うのが祝詞かそれ以外かで、天と地ほどの差が生じる。
自分もさることながら、いつも一緒にいる頼光が扱った時ですら、その効果には明らかな差がある。
しかし、その『差』の正体がさっぱり分からなかった。
祝詞が指摘するように、世の中に存在する『幽霊』がプラズマや電磁波などによるエネルギー体であったとして、それに干渉する武器を作って、同じ条件下で同じように使って、効果が違う、そんなことは本来あり得ない。
「……はぁ……」
京珠は大きく息を吐く。
このことを考えると、科学者である自分が、もっとも早く、容易に科学者らしかならぬことを考えてしまう。
式守 祝詞が何か人知を超えた力を所持していて、彼が触れるか、あるいは彼が『使う』ことによって、『加護』にも似た干渉が起こり……。
「ははっ、ありえない。加護? 神様や仏様に祝福でもされているって? 祝福ってなに? 加護の定義は?」
もちろん自問自答である。
迷信のようなまじないめいた現象を鼻で笑う京珠だが、そこで終わらせないのが彼女である。
では、『加護』と呼ばれるものを科学的に見てみたら、どうなるのか。仮に、神や仏や聖人なんてものがいたとして、その者達が、人知を超えた超常の力を持っていたとする。当然、この『超常の力』というもの自体を解き明かす必要もあるのだが、ここでは一先ず置いておくとして、おそらくその能力というものは、脳波を増大させることによって現実の物理現象へと干渉する類の力だとすれば、『加護』とは、その脳波に共鳴させて、神や仏本人(『人』と言うのが適切かは不明)以外の人間にも疑似的な劣化版能力に覚醒する、という現象。
実際、祝詞の話では、近くにいる頼光が、祝詞に引っ張られるように共鳴して、以前よりもはっきりと幽霊が見えるようになり、声も聞こえるようになったらしい。
これもある種の加護といえなくもない。
脳波による相互干渉、共鳴、それが加護やご利益と言った現象に違いない。
とはいえ、そうだとしても、だとすれば尚更、無機物である武器やグレネードが、祝詞に接触したからといって、その性能が格段に変化するとは考えにくい訳である。
現時点では、京珠の科学は、祝詞と彼が解決する現象には、敗北しつつあるのは事実だ。
しかし、その未知なる部分や、絶妙に京珠の作った武器が幽霊消滅に効果があるあたりも含めて、彼女の好奇心と探求心を刺激してやまないのもまた事実であった。
コンコンッ、とノックが聞こえ、京珠はそれにけだるく『は~い』と答える。
「京珠、頼んでおいたもの、出来てるか?」
ドアを開けて現れたのは、今まさに思考の中にいた式守 祝詞だった。
「ついさっき、最後の一個が完成したところ」
「ありがとう」
祝詞は財布を取り出し、一万円札を一枚と千円札を二枚ピックして京珠に渡す。
「まいど♪ 依頼は安定してあるみたいだね。儲かってる?」
「通常依頼は順調だよ。案外、霊障に悩まされてる人や場所ってのは多いもんだ」
そう言った後で、祝詞は少しだけ浮かない顔をする。
「どうしたの? 順調な人間のする顔じゃないね」
「いや、ちょっと厄介な案件を受けてな。調べてみたら、霊障じゃなくて『呪い』だった」
幽霊や霊障と、『呪い』の違いに関しては、ざっくりとした説明を過去にしてもらった気がするが、祝詞自身も専門外だと言っていたこともあって、京珠はスルーしていた。
「専門外なのに、受けたのか? お前はホントに人助けが好きだな。普段の態度とは裏腹にさ」
若干呆れた口調で、京珠は言った。
「この学校の同級生からの依頼なんだ。緋ノ森 杏璃っていう隣のクラスの女子。実際はその友達の父親っていう、なんとも遠い人が当事者だけどな」
基本的に、依頼人の情報は守秘義務として他言はしないが、親光と京珠には話すことが多い。頼光は同行者であり、京珠は間接的なサポートではあるが、祝詞越しに超常現象の観測、統計をとる都合で依頼人が誰かを聞いているのだ。無論、好奇心は人一倍だが、それを他言する趣味も趣向も、京珠にはない。あくまで、自分の研究に必要であるから、どこの誰かを知っておきたいだけなのだ。むしろ、『誰か』はどうでもよくて、『どんな人間か』の方が大事である。
「緋ノ森、杏璃……」
「知ってる?」
「いや、知らないな。というか、この学校の殆どの生徒、教師に興味がない」
「だろうね。お前はそういう人間だ。だから、付き合いやすい」
京珠が出してきた電磁波グレネードが入った段ボールを開けて、中身と数を確認しながら祝詞が言った。
「それで、その緋ノ森って子、どんな人?」
「ええと、そうだな。人当たりが良くて、自分が何をすれば、他者がどう思うか、というのを正確に把握している人間だな。高校生らしからぬ処世術をもっている。京珠とはまた違った雰囲気の美人だ」
「美人なのか」
「多分、な。容姿は申し分ないとは思う。実際、男子にも女子にも人気があるって話だ。間違いなくスクールカーストの上位にいる人間だな」
「そんなに人気者なら、流石に私の耳にも情報が入るはずなんだけど……緋ノ森杏璃は聞いたことがないな。つい最近、化粧や立ち振る舞いといった『魅せ方』を覚えた女子ってことか」
祝詞に対してではなく、やはり自分に向かって呟くように口にする京珠。
因みに、京珠はおしゃれにも女子として異性に好かれることにも今一つ興味はない一方で、自分のポテンシャルというものをしっかりと把握している女子でもある。
雑なポニーテールも、伸びっぱなしの毛先も、理屈っぽく陰キャなイメージの強い眼鏡も、化粧っ気のないすっぴんも、少しサイズ感の大きな制服でさえ、全て女子として目立たない為にしている格好であり、狙ってしているファッションであった。
以前に一度だけ、訳あって『女子であること』を前面に出す必要に迫られた時、圧倒的な情報力と検証(練習)によって、完璧な美少女姿となった彼女を目にしていることから、祝詞と頼光はこの校内でも初月 京珠の隠された美しさを知ってる数少ない人間なのであった。
「それじゃあ、そのグレネード、その呪いに使うの?」
「使うかもしれないが……いや、使わないだろうな。呪いは、電磁波やプラズマでは消せないから」
「プロセスが違うんだっけ? だけど、全く効果がない訳でもないはずでしょう?」
「そうだな。呪いも、電磁波やプラズマの影響を受けるのは間違いないが、根本を消すことが出来ないんだ。その辺の線引き、というか、俺の特異体質の線引きだな。それが、俺にもよくわかっていないんだよ」
十六年のトライ&エラーで得た祝詞の特異体質及び能力への理解は、決して多くはなく、未だに検証できていない分も多数あるのが現状だ。
「俺は、幽霊を消し去る以外のことに関しては、想像以上に無力なんだよな。ホント、中途半端な力だよ、これは」
「ほぼ無条件で幽霊消せる体質って、そうとう強力だとは思うけどね。事実、グレネードも武器も、お前が使った時と他者が使って時では効果が違い過ぎて話にならない。式守、いつかお前を解剖してみたいものだ」
「物騒だな。お前なら、解剖しなくてもこの体質の謎が解けるんじゃないのか?」
「……さぁ、どうかな。お前と知り合って半年くらいだが、近くで観察していても、その力の仕組みはさっぱり分からない」
「科学の領域を越えているってことか?」
「現時点では、そう言わざるを得ないけど、あくまで『今は』の話だ。だからお前を解剖させてほしいんだよ」
どこまで本気か分からない京珠の言葉に、乾いた笑いだけで祝詞は返した。
会話が終わって数十秒。
理科実験室に沈黙が流れる。
京珠はそれまでグレネード制作で使っていた道具を片付け終わると、アルコールアンプを取り出して火をつけ、ビーカーで湯を沸かし始めた。
「……なにさ。らしくないじゃないか。コーヒーでも飲んでいくか? って言っても、インスタントしかないから、ダメか」
「いや……。そうだな、貰おう」
「インスタントコーヒーを飲もうとするなんて、本当に珍しいね。マジで落ち込んでいるの?」
「落ち込んでいる、か。胸糞が悪いのは、確かだけどな」
「その、『緋ノ森杏璃』が持ってきた依頼の『呪い』に関してのことか?」
祝詞は小さく頷いた。
彼が扱う案件は、殆どがレポートとして京珠に報告されるが、それは大抵、事件が解決した後での、主観を省いた理路整然とした『情報』であって、何も解決していない途中経過の相談などではない。
祝詞たちが『佐藤 淳』の十年前の職場に関して、本格的に調べ始めて、三週間が経過していた。
意外というべきか、当然というべきか、祝詞は、呪いをかけた人物に辿りついていた。
当時の淳の部下、同僚の九人のうち、連絡が取れたのは五人だけだった。というのも、その数字はそのまま、現在も存命している人数であったのだ。
しかも、その五人――我孫子(あびこ) 芳樹(よしき)、滝(たき) 遼(りょう)、諏訪(すわ) 栄(えい)我(が)、厚原(あつばら) 秀(しゅう)太(た)、矢野(やの) 章(しょう)介(すけ)の中で、詳細を話してくれたのは、矢野章介だけだった。
祝詞は、今回の案件の詳細を、改めて京珠に話すことにした。
軽くとった走り書きのメモを取り出しながら、回想を交えて語り始める。
連絡が取れた矢野以外の四人は、事業部が解散してから、淳と全く関わっていなかった。話を聞く限りは、二度と関わりたくなかったのだという意思が強く伝わってきた。
それだけで、ゲーム事業部内の仲が良好とは言えなかったのは、明白であったが、知りたいのは、実際にどんなことが起きて、どんな状態であったかというリアルな声だ。
淳から聞いていたのは、ゲームの運営、制作という職場で特有の、ブラックにならざるを得ない環境、激務から辞めた人間も多かったらしく、ゲームをリリースしてから一年半で、二人が辞職、その後入ってきた社員も、わずか数カ月で辞職し、そんな入れ替わりを繰り返しながら、最終的には連絡が取れた四人と淳の五人だけが残って運営を続けていたが、それも三年を待たずして、メインデザイナーであった我孫子が辞職したことで、運営継続が不可能となり解散したのだ。
「確かに、激務ではあったんだけど、会社を辞める人間が多かったのは、仕事の内容というよりも、日々のストレスというか、その……」
会って話してくれた矢野は、少しだけ言いにくそうにした後で、
「上司とのそりというか、やりとりが上手くいかなくてね」
そう言ったのを皮切りに、矢野は当時の事情を話し始めた。
「佐藤さんは、とにかく、自分勝手で自己中な人でね。言った、言わないの話なんて、日常茶飯事だったし。それが原因で初めの方にやめた人がいたから、僕は逐一、出来る範囲内で上司……佐藤さんと部下たちの会話を記録し始めたんだ。そうしたら、やっぱり大抵は佐藤さんの覚え違い、言い間違い、伝え間違えでね。でも、それを言っても、一向に非を認めなかった。ゲームの内容もね、僕たちは基本、『面白いものを作りたい』って思って作ってる訳だから、良くない内容や面白くない内容を指摘したりもするんだけど、理由や根拠をしっかりと提示しても、佐藤さんの主観と一存で全部却下されるなんて、当たり前になっていた」
どうにも、ゲーム事業部時代の佐藤 淳という人間は相当嫌な上司だったようだ。
「なによりキツイのは、彼の態度だったな。毎日ね、前の日の進捗と、その日の作業予定を朝一番で口頭で報告するんだけど、その朝の時間が、それはそれは不機嫌そうでね。話しかけるなオーラ全開で、イライラした顔で作業始めてるから、義務である報告ですら、しにくくて。ホント、話しかけるだけで凄く精神すり減るんだよ」
当時の気持ちを思い出したのが、矢野は苦々しい顔でそう語った。
「しかも、こういっちゃ悪いけど、佐藤さんは別に何が出来る人でもなかったからね。絵も描けない、文章も書けない、構成や物語も思いつかないし、思いついても、詰まらないモノばかりで……ゲームのプログラミングが出来る訳でもなくて、ただ素材を切り貼りして配置するだけのデザイナーだったから、尚更ほら、尊敬っていうの? 信頼とか尊敬とか、そういう従うべき理由や根拠がなくてさ。辛かったよ」
元々ゲームに詳しくない淳は、当時の社長に命令されて仕方なくゲーム開発、運営を始めたという経緯もあり、決してやる気や適性がある仕事ではなかったようだ。
「だけど、一番ヤバいって思ったのは、高木さんの時だね」
「高木 嶺二さん、ですか。確か、立ち上げより少したってから入社した方ですよね」
淳からの事前情報を祝詞は、あえて口にする。
「その辺のことはすでに知ってるんだね。そうだよ。ゲームのプログラムをコーディングする『コーダー』だったんだけど、少しやり方が古くてね。その分時間がかかるのはかかっていたんだけど、それでも、真面目に一生懸命仕事をしていた人だったんだ」
矢野の話では、その高木という社員は、手の遅さのせいで毎日残業を強いられていた。もちろん、サービス残業なんて当たり前の職場だったので、それが特別な訳ではなかったが、彼は結婚したてだった。表向きは、基本残業がない、というていで話がされていた為、彼の妻は、毎日ちゃんと夕食の支度をして、帰宅を待っていた。しかし、毎日終電か、それを越えて帰ってくる夫。休みの日も作業の遅さから自主的に出勤することも多くなり、半年の間に、まともに会話をしたのも数える程度になってしまっていた。
そんな折、その擦れ違い生活が原因で、高木の妻はノイローゼを発症してしまったのだ。
「高木さんから、突然、朝休むとの連絡が来てね。何か、その時点でただ事ならぬ雰囲気があったなぁ。で、そのまま奥さんが入院してしまったんで、看病のために次の日も休んで、三日目の午後に、ようやく出勤してきたんだ。当然、佐藤さんも含めて、事情はみんなが聞かされていたからさ。『大変でしたね』とか、『大丈夫ですか』とか、月並みとはいえ、心配の言葉をかけてたんだけど、その流れで佐藤さんが言った言葉がすごかったんだよ」
矢野の眉間にまた、不快な皺が寄った。
「『明日から、高木さんには、俺の作業も全部やってもらうことにしたので、よろしく。俺は周年イベントの方を手掛けるから、二つ同時はできないから』ってさ。奥さんが倒れたいきさつも、ついでに検査してもらった高木さん自身も過労でノイローゼ気味っていうのも報告していたのに、だよ? そんな状態で、やっと看病から戻ったその日に、開口一番、『タスクを増やすからよろしく』って、そりゃあ、流石に……ねぇ」
それから一ヵ月、淳の宣言通りに、仕事を増やされた高木は、前にも増して追い詰められながら毎日休みもなく働き、ある日突然、行方不明になったのだ。
連絡も繋がらず、緊急連絡先であった両親ですら、連絡が取れない状態が続き、そのまま強制的に辞職する結果となったらしい。
通常業務、作業に追われていた矢野を含めた同僚全員が、彼の家を直接訪ねることすらできないまま、数週間が過ぎて、ようやくひと段落した時には、すでに引っ越した後で、もうどうやっても高木と連絡の取りようはなかったのだそうだ。
「……実は、高木さんは、もう亡くなって居るんだよ」
矢野は、重々しく、そう口にした。
事業部が解散してから、時間にも心にも余裕ができた矢野は、どうしても気になっていた高木の消息を、個人で追ったのだそうだ。
そうすると、偶然、矢野の妻の友達が、高木の妻と知り合いらしく、その関係で、なんとか高木の妻と連絡を取ることができたのだ。
「電話で連絡をしたんだけど、酷く、暗い声でね。人間ってあんなに暗く、怖い声が出せるんだって思うくらい不気味で、なんていうのかな……憎しみのこもった声だった」
高木の妻は矢野に『夫は二年前に死にました。自殺、したんです。あの人に……佐藤 淳に追い詰められて……』とだけ言って、電話を切ったらしい。
それを聞いただけで、矢野は何も言えなかっただけではなく、それ以上話をしようとさえ、思わなくなったという。
高木嶺二は、消息を絶った直後に自殺していた。
それは、佐藤 淳が、あの会社が、そして同僚が、誰も彼に満足に手を差し伸べることが出来なかったからである。
自分たちも同じ環境で辛い思いをしていたとはいえ、もしかすると、自分にも彼が自害した理由の少なからずの部分を担っているのではないか。
そう考えたら、恐ろしくなったのだそうだ。
祝詞は、そこまで説明し終えると、すでに少し前に目の前に差し出されていたビーカーに入ったインスタントコーヒーを啜った。
苦くて渋みとエグ味と、嫌な酸味の後味が残る、実にインスタントコーヒーらしい味に、祝詞は眉をしかめた。
「となれば、呪いをかけたのは、その高木って人の奥さんか」
続きを待たずして、京珠が言った。
祝詞は頷き、
「だが、その奥さんって人も、すでに死んでいた」
「えっ?」
思わず、京珠はそう聞き返した。
「五年前に、自害していた。それだけじゃない。連絡の取れなかった残りの三人も、同じタイミングで自殺をしているんだ」
祝詞たちは、情報を丁寧に手繰り、辿りきることに成功したのだ。
『死人』というもっとも他者と関わらずにいられる状態の人間を辿れたのは、もはや運が良かったとしか、言いようがない。
今回は、矢野の妻の繋がりで、高木の妻の友人から辿り、住んでいたアパートの大家や隣人、当時の交友関係を把握できたことが、何よりの幸運であった。それがなければ、おそらくこの呪いの詳細にまでは、至ることはできなかっただろうと、祝詞は思っていた。
「三人とも、精神を病んでしまっていた。もちろん、佐藤淳の下で働いたことが原因でな」
「私の想像力が乏しいのかもしれないが、今聞いた話だけでは、みんなが揃ってノイローゼというのは、流石に受け取り手のメンタルの弱さも問題なんじゃないのか」
「俺も最初はそう思った。だけど、矢野さんの話を聞き続けて、感じたんだ。考えてみてくれ。隔離されて、閉鎖された事務所で、圧倒的な威圧感を放ち、ワンマンでことを推し進める『支配者』のような上司に、毎日毎日……下手をすれば、毎時間、意味も理由もなくイラつかれながら激務をこなす日々。朝から晩まで、休日も返上して、認めても信頼もしていない上司に文句ばかり言われ続ける。それは、確実に心がすり減り、視野と価値観を狭くする。実際に、急激に追い詰められたような強迫観念によって、『逃げる』とか『辞める』という選択肢すら、思い浮かばなくなるくらい、余裕がなくなるものらしいんだ。そんな状態で、社交的ではないどちらかといえば、コミュニケーションが不得意なオタク気質の人間が、弾圧にも似た上からの理不尽にさらされ続ければ、どうなるかは想像に難くない」
祝詞に言われたことを改めて頭の中で精密にシミュレーションしてみて、ようやく京珠はことの重大さを理解した。
理由もなくイライラしている無能な人間が、それでも権力と決定権だけを持っていて、それを行使するがゆえに歯向かうことができない。
それは、この上なく窮屈で、息ができないくらいに、苦しい。
「それで、その呪いを解く方法がないのね」
「原因が分かって、どんな呪いなのかが判明したからこそ、より解決する方法がないことがわかった。つまり、依頼は失敗だ。この呪いを解呪できない」
「仕方ないことじゃない? 気に病む必要はないよ。お前の専門は幽霊。呪いは別、なんだろう。ただそれだけの話だ。歯医者は脳外科の手術ができない。それを問われても罪にならないのは当たり前だし、責められる謂れすらない」
京珠の実にドライな価値観は、心地よくもあり、苦しくもあった。
「悪いな。ただの愚痴になった。コーヒー、ありがとう。たまには、インスタントもアリ……かもな」
精一杯のお世辞を口にして、祝詞は理科実験室を後にした。
何も解決などしていないが、それでも他人に話すことで、気が楽になることもある。
今の祝詞は、まさにそれであった。
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