第7話
とある日曜の午後。
閑静な住宅街の路地の物陰から、一件の家を観察する男が一人。
御堂 加一は、祝詞から聞いていた淳の住所に赴いていた。
もちろん、正面から尋ねる訳ではなく、こうして隠れてじっと様子を見ているのだ。
加一のモットーは、『傍観』することだ。呪いの専門家であるが、彼は呪いを行使することも、祓うことも、できない。あるのは、親光よりも少し強い霊感くらいのもので、僅かに幽霊や呪い特有の『残穢』を視認するのがやっとである。
故に、彼は決して当事者にはならない。間接的に遠くから観察して、見極めて研究すること、例え効率が悪くとも、好奇心に飲まれれば、命を落としかねないことを誰よりも知っているからであった。
臆病といえば、それまでだが、だからこそ彼はこれまで呪いによる危険を回避し続けてきたのだ。
佐藤家のチャイムすら鳴らさないのは、それだけ物理的、そして精神的な『距離』を確保する為だ。
一時間ほど物陰に隠れていた加一だったが、ようやく家から出てきた淳を黙視した。
別に淳の今日の予定などしらず、下手をすれば丸一日張っていたところで、顔すら見られないかもしれないというのに、加一は闇雲に待ち続けたのだ。
それくらいの非合理的さと偶然に任せた結果の遭遇でなければ、呪いの飛び火を貰う可能性があると、加一は考えていた。
たったの一時間で姿を見られたことは、幸運であると同時に、そうなる巡りあわせにあったのだと彼は思った。
つまりは、目撃しても良いものなのだと、運命的な何かが言ってると解釈した。
だが。
淳を見て、思わず加一は再び物陰に隠れた。塀に背中をぴったりと預け、固唾を飲みこむ。
もちろん、住所は知っていても、佐藤 淳の顔写真など見せて貰っていない加一には、出てきた人物が淳であるとは認識していないが、出てきた男が佐藤 淳かどうかを考えるよりも先に、見えた(・・・)のだ。正確には、見えたのではなく、感じた訳ではあるが、見えたと誤認するほどに強烈に、加一は捕らえたのだった。
目視していたのは、ほんの五秒程度。
それでも、加一は理解した。
「……ああ、あれは不味いな」
背筋が冷たい。
鳥肌が止まらず、額には冷や汗が滲んでいた。
祝詞の話から推測した通り、淳の呪いは、彼を標的にしたものであり、いたずらに飛び火したりはしない類ものだ。
しかし、その念が強すぎるあまり、もしもその呪いの邪魔をするような人間が現れた場合、妨害を阻止する為には、対象と似たような目に合わせることも考えられる、そんな危険性をはらんでいるように感じたのだ。
「祝詞、関わらない方がいいぞ。どの道、これは祓えない」
そもそも『呪い』に祓う方法などないと言って過言ではない。
呪いは代価を多めに先払いにすることで成立させる、実に不平等な契約だ。
それ故に、払った代価が取返しの付かないような巨大なものである場合、それを返す、あるいは消すには、最低でも同じか倍以上の代価を払い直さなくてはいけない。
それはあまりに、現実的ではないのだ。
ましてや、淳とまったくの他人である祝詞が、それを行うメリットは、何をどう考えてもありはしない。
とは言っても、祝詞は簡単にはやめはしないだろう。
加一は、嫌そうな顔をしながらも、覚悟を決めて、もう一度淳をみることにした。
庭に止めてある車を磨いている淳の肩から首、背中あたりにまで、靄のような黒い層を感じる。
本来、加一には、呪いそのものを目視するなどという特殊技能はない。なんとなく漠然したもの感じるだけであり、それを視覚に例えてみたら、ということを瞬時に考えて変換することで疑似的に見たような感覚に陥り、それによる判断をする。
だがどうだ。
今回のアレは、そんな加一にすら、鮮明に感じる。
『恨み』
『憎しみ』
『怒り』
それも、一つや二つではない。
かつて過去に見たことがある、三人を刺し殺した殺人犯にかけられた呪いだって、ここまで明確な恨みを感じなかった。
加一はじっと、出来る限り見つめた。
恐怖と、畏怖と、焦燥にも似た感覚で呼吸すらしにくくなる。
たっぷりと十五秒ほど見つめて、加一はまた路地へと隠れた。
「はぁ……はぁ……はぁ……嘘だろう。何をしたら、あんな呪い……」
加一は急いでスマホを取り出し、歩きながら祝詞へと連絡する。
実際に目にした感想と、呪いの危険度。
祝詞へと忠告と、自分は一切、今後この一件には関わらないことまでを一方的に口にして、電話を切る。
「ふぅ……すまないな。誰だって命は惜しい。見ず知らずの他人の為にかけられる命も、リスクも持ち合わせてはいないんだ」
加一は一人呟く。
「お前だってそうだろう、祝詞。こんなリスクは負うべきじゃない」
すでに佐藤の家からは、大分離れていた。
とにかく関わるべきではないと、加一は自らの本能に従い、佐藤家と佐藤 淳からなるべく離れることを優先していた。
あと数分で、駅前の開けた場所にでる。
そうすれば、一先ず安心だろう。根拠はないが、そんな気がしていた。
気配を感じたのは、そんな矢先だった。
加一は思わず、立ち止まった。
突然現れた気配。それが、あまりにも唐突で、あまりにも近くに感じたことで、彼は立ち止まってしまったのだ。
(やばい……ヤバいヤバいヤバいっ!!)
いる(・・)のだ。
加一の背中にぴったりとくっついて、覆いかぶさるように重みすら感じて、粘り付くような存在感を感じる。
未だかつて、呪いやそれに伴う霊的なものに、ここまでの距離に近づいたことがない。
そう、加一は常に傍観者であり、観察者。好奇心も探求心も人一倍あるが、それは自らの危険を差し出してまで得る欲求ではない。
その信念とスタンスだからこそ、加一は『呪い』などというモノをいくつも観察していながら、一度もとばっちりを受けたことはない。
今回だって、目にして早々に手を引くことを決めた。
これ以上、関わるべきじゃないと判断したのだ。
それなのに、である。
『あ……じゃ……ぁま……すぅ……る……の……?』
加一の耳に、か細い女性の声が聞こえた。
『じゃ……ま……する……の……?』
最初は聞こえにくかった声が、次は鮮明に聞こえる。
この呪いは、加一に『邪魔をするのか』と聞いているのだ。
加一は、冷や汗を流しながら、固唾を飲みこむ。
傍観者とはいえ、呪いの専門家だ。自ら誰かを呪うことも、呪いを受けることもない彼だが、呪いの構造に関してはそれなりに詳しく理解している。
加一は路地の端の、人目に付かない死角まで足早に進み、肩から掛けていたバッグから小さな折り畳みナイフを取り出す。
ナイフを握っている手とは逆の左手を開いて、壁に向かって付く。
「すぅぅぅぅぅ……はぁ……」
大きく深呼吸をしてから、歯を食いしばり、そしてナイフで自らの左手の甲を突き刺した。
「んぐぅぅぅぅぅ」
激しい痛みが、加一の手の甲から筋や筋肉、そしてそれらを突き抜けて手のひらの肉と皮を突き破って貫通する。
「はぁ……はぁ……うっ……邪魔はしない。だから、この痛みで、見逃してくれ……」
痛みに耐えながらそう呟くと、呪いの気配はスゥッと消えていった。
「……ふぅ……はぁ……痛ぇ……」
ナイフを引き抜き、やはりバッグからハンカチを取り出し、傷口を強く縛る。
グレーチェック柄のハンカチが、赤黒い血で染まり、見る見る内に変色していく。
最低限の止血をしながら、あと数分したら病院へ行こうと、加一は考えていた。
本当なら、すぐにでもタクシーに乗って、近くの病院へ行きたいところだが、それではまだ、あの『呪い』への代価が十分ではないかもしれない。それでは自らの手を刺した意味がない。
十分に『見逃して』貰えるだけの痛みを支払わなければならないのだ。
「……大丈夫。大丈夫だ……」
加一は痛む手を無理矢理動かしながら、そう呟く。
激痛は相変わらずだが、動くし、変なつっぱりもない。筋や神経は傷つけていない。完全にヤマ勘で刺してみたが、案外上手く行ったようだ。
呪いの飛び火、とばっちりを回避する代償として、血を流し、激痛を支払ったのだ。
手を強く抑えながら、加一は壁に背を預けて、そのままずるずるとへたり込んだ。
急激に訪れた窮地に、この件の『危なさ』を、加一は改めて認識した。
僅か一分にも満たない時間、観察していただけで憑いて来るほどの呪い。
確かに、特定の人間にのみ作用する呪いであることは間違いないはずなのに、どういう訳か、加一へと飛び火した。
祝詞はおそらく、加一よりも近くで長い時間、あの呪いとその対象である佐藤淳と一緒に過ごし、会話をしたはずなのに、憑いていたのは僅かな残穢のみだった。
祝詞が特別な体質を持っていて、特別な力を持っているのは分かっていることから、ほぼ間違いなく、この『差』というのは、そのあたりの耐性によるものだとは思うが、それはそれとして、この呪いが強力なものであることに変わりはない。
加一は再び、祝詞へと電話をかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます