親愛なり
由利 流星
青い感情
気に入らないことがあると、指を噛んでしまう。
噛むのは決まって右手の人差し指。駄菓子売り場の前にいる子供のように、指を咥えるのではない。人差し指を、こう、コの字型に曲げて、第二関節あたりを、がり、と噛む。レモンを丸齧りする感覚と、似ている気がする。したことはないが。
骨の硬さに、毎度驚かされる。脂肪も筋肉も少ないひょろひょろの僕だが、いくら歯に加える力を強めても、折れる予感はしない。
赤い線が二本できる。血が出るほど深くは噛まないけど、僕の歯はよく尖っているから、一日中この歯型と過ごすことになる。他人に痕を見られたら、なんか恥ずかしいし、面倒臭いこと、例えば僕が精神的苦痛を抱えているとか、勝手な妄想をされたら困るから、俺の指は、いつも一本だけ絆創膏にくるまれている。この癖を早く直した方がいいのはわかっている。けど、周りに怒りをぶつけるよりはましだろう、と今日も僕の指は僕の前歯に刺された。
「ふじわら」心臓がぶるっ、と震えた。
「この問題、わかるか」古典の先生の視線が、真っ直ぐ僕を捉えている。
わかる。わかる、けど。わかりません、は六文字。で、答えは、謙譲の補助動詞、小さい『よ』を無視したら、十文字。
「……わかり、ません」必ず僕は、短い方を選ぶ。そうすれば、僕から気持ち悪い音が出る回数は、少なくなる。
僕がぐらぐらと揺れた声でそう答えると、そうか、じゃあ、とあっさりと隣の席の人を指名した。他の人には、なんだ、わからねえのか、考えろ、とか笑いながら食い下がるのに。
僕の代わりに当たった白井さんは、僕が振り絞った六文字よりもはるかに綺麗に、正答を口にした。他の人からしたら、これが普通なんだろうけど。白井さんとは十一 月の席替えで初めて隣になったが、十二月が確実に近付いてきている今でも、まともな会話をしたことがない。そういえば、白井さんとの神野は付き合っているのだろうか。この前、人通りの少ない廊下で、二人が親密そうに話していたのを見かけた。でも何故か、不思議と恋愛の甘い匂いはしなかった。
また自分が嫌いになる。また指を噛みたくなる。でも今は授業中だから、教室だから、噛めない。
僕の代わりに当てられて、絶対に迷惑がられた。気付かれないように白井さんの方に黒目を動かしたが、彼女は何もなかったようにもう次に進んでいた。先生に向ける彼女の真剣な眼差しに押されて、僕も慌ててペンを握り直してノートに向かった。
「また、失敗、しちゃいま、した」自己嫌悪が、胸に打ち寄せてくる。
「そうかあ?」鷹揚に微笑むこの人の前では、いつもは張り詰めている糸が、するすると弛む。僕の意固地は、呆気なく白旗を上げる。
「絶対に、みんなに、気持ち悪、いって思わ、れた……」ぶちぶちと不自然に千切れてでしか出てこない言葉達も、先生だけは、一つも零さずに掬いとってくれる。
「そんなことないだろー」大丈夫だって、と先生は深く頷く。
「そう、です、か?」誰でも使える言葉でも、先生に言われると、魔法のおまじないみたいに聞こえる。子供っぽい比喩に、自分で自分に嫌気が差す。
小さい頃から、滑らかに言葉を発することができない。話したいことがあっても、喉元で詰まってしまって、上手く口から出てきてくれないのだ。自分の言葉で窒息しそうになる。こんな風に、心の中では文字が流れているのにね。僕だけが、言葉達の捕まえ方を知らされていないみたいだ。
原因不明。これが一番厄介だ。両親をこれまでずっと悩ませてきて、どうして普通に話せないの、となじられることも少なくはなかった。周りからは勝手に距離を置かれるし、哀れみの眼で見られることが多かった。それをまた、親は恥じた。
どうしてこの子は普通の子じゃないの。僕がいないところで、お母さんがお父さんに訴えていた言葉が、耳に貼り付いて取れない。
周りから向けられる全ての感情が、痛かった。慰みも、怒りも、優しさでさえも、僕の心を抉るだけだった。不満を簡単に口にすることはできないし、そもそも全て、僕のせいなんだから。誰も悪くない。親のせいなんかじゃない。僕が普通じゃないことだけが悪いんだ。自責の念が、今日もまた僕に指を噛ませる。
「ふじはらも?」青葉が眩しい、穏やかな日だった。光に満ちた教室で、僕だけが影みたいに、本を読んでいた。高校に入ってからは中学のときみたいにいじめられることはなかったけど、誰かに話しかけられることもなく、僕なりの平穏を保っていた。 大人と話すのは、特に緊張してしまうから、歴代の担任と話すことなんて、ほとんどなかった。
俺もなんだ、と先生は右手を見せてきた。
僕と同じ、絆創膏に包まれた人差し指。
「プリントでやっちゃってさ。紙で指切るのって、地味に痛いよな」目をきゅっ、と細めて笑う姿が、やけに目に焼き付いた。
キーンコーンカーン。
早く席着けー、と先生は一番前の席にいる僕から離れていく。
宿題集めんぞー。えーまだ終わってねえー。何言ってんだ澤井―。ちょっと待ってよーなみちゃーん。変な渾名付けんなー。
並木先生は、かなりの人気者だ。二十代の男の先生は、無条件で生徒に懐かれる傾向があるとは思うが、先生は特に、だと思う。数学教師というとどこか冷たそうな印象を受けるが、先生は穏やかさと快活さを六対四くらいの塩梅で混ぜ合わせたような人だ。授業もとてもわかりやすいし、生徒に好かれることに誰も疑問を持たない。
一方的に話しかけられただけで、僕からは一言も発しなかった。それでも僕は、嬉しかった。
正しい名前で呼んでもらえたから。僕の名前はふじわら、じゃなくて、ふじはら、だ。ふじはらいおり。クラスの人に呼ばれるときも、(そんなことはほとんどないけど)ふじわら、と呼ばれる。古典の先生に当てられるときも、体育のときの点呼も。こんな変な苗字をしている僕が悪いみたいに思えてくる。担任なんだから、クラスの生徒の名前を間違えるなんて、と思われるかもしれないが、間違えられることは多々あった。当然、僕はそれらを訂正しない。理由は簡単。面倒だから。
五月に初めて話しかけられたあの日から、僕と先生の間には何もないまま一学期は終わった。九月のある水曜日の放課後、僕は教室に筆箱を忘れたことに気付いて、昇降口から教室に戻った。
「お、忘れ物?」「あ、はい」先生は一人、黒板を拭いていた。
「最近日直の仕事雑なんだよなー」そうですか、困ったもんですね。僕が先生が吐いた言葉を拾ってパスを返せば会話が成り立つのに、拾い方を知らないから独り言になってしまった。
先生の足音。黒板消しが黒板を撫でる音。今日は水曜日だから、ほとんどの部活がオフだ。吹部のトランペット。野球部の打撃練習。陸上部がタイムを叫ぶ声。いつもあちこちから聞こえてくる、高校生達のエネルギーが溢れ出る音は聞こえない。ただ先生が生み出す音だけが、静かに余白を満たす。
「でも藤原のときはいつも綺麗だな」僕が机の中からペンケースを見つけ出したときには、先生の声しか聞こえなかった。黒板から離れ、先生が僕の方を向いていた。
「あ、ありが、とう、ございま、す」褒めてもらえたので途切れ途切れの礼を伝えると、こちらこそ、いつも助かってる、と先生は礼をした。
先生と正対するのは初めてだ。身長一六七センチの僕は少し目線を上げないと先生と目を合わせられない。
「今日は部活ない?」「は、い」そうか、と先生は一人頷いた。こんなコミュ障な僕だが、美術部には所属している。
「なんか、藤原見てると、昔の俺思い出すんだよなあ」立ち話もなんだし、と先生は僕の前の席に座って、僕にも座るように促した。
「……え」あまりにも意外な言葉が先生から出てきて、思わず僕の口から疑問が零れた。
「俺今、教師なんて人前に立つ仕事してるけど、ほんとはめちゃくちゃ喋んの苦手だったよ。でもまあ……いろいろあって今こうして働いてはいるんだけど」僕がぽかんとした顔でいると先生は、そんなに意外?と声を漏らして笑った。
「上手く言葉が出てこないのって、しんどいよな」目の前に座ると、右目の下に泣きぼくろがあることに初めて気が付いた。
「言いたいことがあってもさ、喉で詰まって言えない感じとか、あったなあ」今も時々あるけど、と先生は少し目線を落とした。
藤原もそんなの感じたことある?
あります。というか毎日です。ほんとに疲れます。辛いです。今もこんなに、心から言葉は溢れてくるのに、出てきてはくれません。
伝えたくて、自分の言葉でこの気持ちを伝えたくて、でも僕はただ、首を縦に振ることしかできない。
「そっか」でも先生は、全て伝わった、とでも言うように微笑みながら頷いた。
「あ、の」やっと、一文字、二文字が出てきた。でもすらすらとは続かない。少しの間口をもごもごとさせていると、大抵の人は少し苛立ち始める。特に大人は忙しいから、まだ?といった風に首を傾げたりする。でも先生は、ただ、待ってくれていた。何も言わずに、静かに。
「本当は、もっと、話し、たいです」自分から出た言葉に、自分で驚いた。
「でも、言葉が、上手く、出なくて」小さい頃よりはかなりましにはなっている。でもまだまだ『普通』には程遠い。
「こんな、自分、嫌い、です」
口が完全に動かなくなって、これ以上話せないという僕の意思を読み取ってから、先生は初めて口を開いた。
「点を打てばいい」点。
「藤原は、変わりたいんだよな。それもできるだけ早く」俺もそうだった、と先生は軽く目を閉じる。
「でも焦ってもしょうがないことって、意外と多いんだよな。急いだってどうしようもないことって。だから、点を打てばいい」点を打つ。心の中で反芻する。
「自分が今やれること、やりたいこと、興味があることをやって、点を打つ。そしたら、誰かがそれを結んで、線にしてくれる。その『誰か』は自分かもしれないし、まだ会ったことのない誰かかもしれない。それでできた線が繋がって、いつか面になって、新しい自分を形作ってくれる」なんてな、と先生は首を傾けて笑った。先生の口からすらすらと紡がれた言葉は、綺麗な一本の糸みたいだった。
「こうやって俺と話すのも、点を打つ、ってことかもな」藤原は、今何したい?
何をしたいか、なんて、あまり考えたことがなかった。いつも、喋れない、という自分の欠点ばかりに目を奪われて、自分の心の向く方角が、全く見えてなかった。上手く話せないから、勉強を頑張って、なんとかこの高校に入った。そしたら、僕の汚点が、少し上書きできる気がして。親が僕のダメなところから目を逸らしてくれる気がして。でもそんなメッキはすぐに剝れて。気付けばいつも。僕の行動は欠点に裏打ちされていた。たとえそれが、僕の意思に反していたとしても。
「先、生」こんなの、リップサービスだ。先生だって、他の大人と一緒で、心の底では僕のことを変だと思ってる。心の中から、濁流のように、マイナスな考えが湧いてくる。
理性と名付けていた卑屈が、溶けた。
「先生、と、もっと話し、たい、です」
「おかえりーっ」自室のドアを開くと、すぐに元気な声が奥から飛んできた。自分の部屋といっても、中二の妹と共用している。
「ただ、いま」こんな僕を兄と慕ってくれるのは、あとどれくらいだろう。結唯は、僕みたいな変な人間ではなく、容姿は整っていて、性格も可愛らしい。かといってこんな俺を、馬鹿にすることもない。我ながらよくできた妹だ、と誇らしい。
結唯がこっちを向いたとき、ふと違和感を覚えた。
「それ、あった、っけ」違和感の正体を指しながら訊いた。
右の目尻。
「あ、わかっちゃった?」悪戯がばれた子供のように、結唯が歯を見せて笑う。
「泣きぼくろで運気上がるって教えてもらってさー」結唯が、ちょっと背伸びして選んだだろうティーン向けの雑誌を見せてきた。結唯と僕のテリトリーの間には、突っ張り棒(本名は心張り棒らしい)にカーテンを掛けた、境界があるが、昼間はほとんど機能せずに開かれている。『右の目尻のほくろは幸運の証!』という記事に小さく笑った。恋愛運に恵まれる、とも書かれている。
先生も、右目にある。
男子の場合、と書かれている箇所を読んだとき、どき、とした。
感情が豊か。涙もろい。情に厚い。
先生と別れてからの帰り道、もっと話したい、と言ったものの、やっぱりやめた方がいいんじゃないか、と不安の分厚い雲が心に押し寄せていた。そんなに簡単に人を信用していいものか、とまた疑心暗鬼になっていた。
あいつ、ちょっとキモイよな。
小学校のときの友達が漏らした嘲笑を思い出す。僕が少し離れたところにいたとき、その頃よく一緒にいた友達が言った言葉は、五年も経った今でも突き刺さったまま抜けていない。
顔が人の内面を現しているとは思わない。でも、人は占いを意外と信じるものだ。
「気にし過ぎる必要はないと思うけどなー」でも気にしちゃうよなー、と先生は僕の目を見て笑った。先生は目を合わせて話ができる人だ。僕には多分一生かけても真似できない。
九月に話してから、だいたい毎週水曜日の放課後、この教室がダンス部の練習場として使われない日に、僕と先生はこうしてお喋りをする。先生はいつも僕の左隣に座る。つまり今は白井さんの席。
「藤原って家帰ったら何してる?」全然関係ないけど、と前置きをされてから訊かれた。
「勉、強とか」「真面目か。テレビ観ろ」「それ、教師が、言って、いいんです、か」約四か月の間に、これくらいの軽口は叩けるくらいに、僕と先生との距離は縮まった。
「ドラマとか観ない?」「アニメ、なら」そっかー、と先生は少し残念そうに肩を落とした。
「俺最近めっちゃ涙もろいんだけど、藤原はそんなことない?」
涙もろい。右目のほくろ。
「あんま、ない」「まじかー。やっぱ年かー」もう三十だもんなー。おじさん臭い、ですよ。それから軽く雑談が続いた。
話しながら先生の右目辺りを見て、僕は少し前の記憶を辿っていた。先生と話すようになってから、だんだん息のしづらさは抜けてきている気がする。喉元を埋め尽くしていた言葉達を吐き出せているからだろうか。
露わになっている、自分の右手の人差し指に視線を移す。先生と話すようになってから、指を噛む回数は、少しずつだが確実に減っている。点を打てている。
そろそろ帰るか、と促され、俺はワンテンポ遅れてから頷いた。本当はもっと先生と話していたいけど、そういう訳にもいかない。先生には仕事があるし、僕だって勉強をしなければならない。先生に、こんな僕に付き合っている暇はないはずだ。
もうすぐ十二月。クリスマスまで、七百時間を切ったらしい。クラスのきらきらした女子達は、早く彼氏作らなきゃっ、と色めき立っている。
先生は、どうなんだろう。クリスマスを共に過ごす相手はいるのだろうか。
いつもぴしっときまっているスーツ姿。それは誰が手入れしているのだろう。
って僕には関係ないんだけど。
美術部、と聞くとただ絵を描いているだけの、ゆるっとした部活と思われるかもしれない。でも実際は、昨日から始まった冬休みのほとんどは、活動日で埋め尽くされている。年明けすぐに、コンクールがあるからだ。僕はまだ、そのデザインが決まっていない。顧問の先生にいつまでもゴーサインを出してもらえない。確かに、このまま進めていっても、頓挫する未来は見えている。この絵に全く愛着を持てていないから。それが見え見えのラフしか描けていないのだ。でも、そろそろOKしてくれよ……と疲れてきてはいる。
「唯織、まだダメなのか?」「うん……。よう君は、早いね」水谷遙。同じクラスで同じ部活。唯一僕を下の名前で呼んでくれる。遙君は僕と違って運動神経がいいし、クラスでは活発なグループの中にいて、何で美術部何だろう……と入部当初は疑問を抱いた。好きなアニメが同じだと判明してからは、一緒に映画を観に行けるくらい仲良くなれた。僕が上手く話せないことは、全く気にならないらしい。唯織と話してて楽しい、とも言っていた。変わった人だ。
「スランプって感じ?」「そういう、訳じゃない、んだけど、上手くアイデアが、纏まら、ない」ふーん、と遙君はもう下書きが描かれているキャンバスの前に座った。鳥の羽ばたく瞬間を捉えている。きっと力強い絵になる。お姉さん、ゆう先輩の繊細なタッチとは対照的で、遙君の絵は、見る人に強い勇気を与える。最近、先輩は生徒会の方で忙しいらしく、長らく姿を見ていないな。
「悩み事とかあんの」「特、には」「ダウト」僕を指さして、遙君がにやり、とする。……遙君は、結構鋭い。
一週間前から、頭の中にずっと靄が流れている。
「兄ちゃん最近よく笑ってるよね」結唯が僕を見てふふ、と笑う。
「急に、何」思わず頬に手をやる。隠し事がばれたとかでもないのに、何故か強烈な恥ずかしさを感じた。
「なんかいいことでもあった?」「何も、ない」えー嘘―と結唯が大袈裟に否定してくるが、本当に何もない。僕の日常は平坦に進んでいるだけだ。
「あ、わかった」「何、が」にや、っとしてから僕に指を向ける。
「好きな子、できたんだ」「それは、ない」好きな子、と言われ、先生の顔が浮かんだ。
突然、頭ん中が、真っ白になる。
何故。何で今先生の顔を思い出した?
どくどくと、血が流れる音がはっきりとする。心臓辺りが、ずくずくと痛み出す。
えー、にーちゃーん教えてよー、と甘える結唯の声が、遠くに感じた。
「なんか、気になる、人、がいる、と、いうか」「おー恋かー」恋。僕には世界で一番縁がない単語。
「いいじゃん。何が問題なん?」てか誰なん?と遙君と少し揶揄う。
「……これが、本当に、恋、なのか、わからないんだよ」
先生は男の人だ。スーツ姿がかっこいい。年は一回りは離れている。先生と話すのは楽しい。一つ一つを並べて、気持ちを整理しようとするが、上手くいかない。
「わからない、って、認めたくないから?」俯き加減の僕を、遙君が覗き込む。
「……違う。と思いたい」なんだそれ、と遙君が軽く笑った。
「まあ、何にせよ、答えが出ないのって苦しいよな」こないだの数学むずかったなぁ、と遙君は関係ないことにうんうん頷いた。
「……うん」目の前にある真っ白なキャンバスを睨む。ここに、僕はどんな思いを塗り重ねたいのか。まだはっきりとしない。
「その気持ち、絵にならないの?」俺、唯織の抽象画好きだけど、と遙君こちらを向く。僕は具体的な対象は、なかなか描かない。色をキャンバスにぶつけるようにしか描けない。そんなわかりにくい絵に、遙君はいつも、いいなあ、と感嘆を漏らしてくれる。
「……もう、ちょっと、時間、かかる、かな」そっか、とすんなり遙君は自分のキャンバスの方を向いた。
この気持ちは、何色なら表せるのだろう。恨みや怒りは、黒や赤、悲しみや寂しさは、青や緑。喜びや楽しさは桃色や黄色。どの色も、しっくりこない。
よし、と気合を入れ直してみたが、気持ちは晴れなかった。
結局、今日もいいアイデアは生まれなかった。まだ三週間あるし、と遙君は励ましてくれたが、焦りは拭えない。遙君とは途中の大きい駅で別れて、一人で家の方面の電車に乗り換える。
電車に乗って座ったとき、見覚えのある顔がホームにいた。
あれ、神野じゃないか。隣にいるのは、……見たことある気がするけど、誰だ?何か大きなものを背負っている。
二人は手を振って、神野は階段を降りて違うホームへ向かった。もう一人の女子は……真っ直ぐ僕のいる電車に走って乗り込んできた。
「あ」そのとき初めて僕は彼女が誰かわかった。相手の方は、僕のことをすぐわかったようだ。
「ふじはら君、隣座っていい?」「え、あ、どう、ぞ」ふー、間に合ったー、と長い息を吐きながら背負っているものを降ろし、僕の隣に座る。すぐに発車のアナウンスが入り、ドアが閉まった。ゆっくりと、列車が滑り出した。
「今日も部活だったんだ」「あ、うん」制服姿の僕を見て、彼女が言った。
「白井さん、それ」「あ、これ、ギター」彼女は僕の隣の席の白井さんだ。ただ、いつもと雰囲気が全く違うから、すぐにはわからなかった。燻んだ水色の襟付きブラウスに、黒のショートダウンジャケット、黒のスキニーのパンツ。どれも彼女に似合っているけど、普段の彼女の淑やかさはどこにもなくて、シンプルに驚いた。
「凄い、かっこいい、ね」思ったことを口にしただけだが、彼女は目を丸くした。
「藤原君も、そう思ってくれるの?」も、という一文字が、僕と神野を並べたのだと、直感的に感じた。
「え、うん。楽器、できる、って、凄い、と、思う」僕の拙い称賛を受けて、彼女の顔は輝いた。
「ありがとう」白井さんは、大抵笑みを浮かべている気がする。でも今は、いつもの、誰かのために微笑んでいるのではなくて、本当に嬉しくて笑っているのだと、感情の読みが下手な僕でもわかった。
「あ、そうだ」白井さんがジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「LINE、交換しよ」「え、うん」何で僕なんかと、という疑問よりも先に、僕はリュックからスマホを出していた。白井さんのQRコードを読み取ると、ありがと、と感謝された。
「藤原君、話すの嫌いなんじゃなくて、苦手なんだよね」
突然言われたことに、言葉が出なかった。
「この前、美術の授業のときに美術室で見つけたんだけど、藤原君の絵、凄かった」凄かった、という抽象的な褒め言葉は、あまり好きじゃない。よくわかんないけど、取り敢えず凄いって言っておこう、って感じで、気持ちが入っていない気がするから。けど白井さんの言葉には、きちんと重さを感じた。
「芸術とか、あんまり詳しくないけど、藤原君がぶちまけた色が、思いっ切り、喋ってる感じがした」ぶちまけた。本当にそうだ。夏のコンクールの、あのときの絵は苛立ちをそのままキャンバスにぶつけた。黒、赤、黄色の乱れ撃ちみたいな絵で、結果は佳作だった。
「そのとき、藤原君ってたぶんお喋りなんだろうなって、思って」だからこれで喋ろ、と白井さんは僕のアカウントが写っているスマホを見せた。電車の中でもうるさくないしね、と幼稚園児みたいに笑う白井さんは、いつもの大人びた白井さんよりも、好ましく感じた。
白井さんから会話が始められた。今はどんな絵描いてるの?今は……年明けのコンクールに向けて構想中、かな。へー!また見たいな。ありがとう……笑
ふと、僕からも疑問を投げかけてみた。神野とは同じバンドとか?いや、神野君は観にきてくれてたの。
はっ、と白井さんが僕の方を見てから、急いで文字を打った。付き合ってるとかじゃないからね?!?
送られてきた文を読んで、ふふ、と笑ってしまった。そうなの?そうだよ!へー。
白井さんが僕の目をじっと睨んできた。そしてまた画面を叩く。神野君とは、同盟関係だから。同盟?そ、同盟。
どう返したらいいかわからず、文字を打てないでいると、なんかさ、と白井さんが声に出して話し出した。
「上手く言えない関係ってあるよね」白井さんの言葉が、僕に一人の影を思い出させた。
「友達とか恋人とか、そんな簡単に言えない関係って、あってもいいよね」ね、と白井さんは僕の方を向く。少し不安げな顔で、背中を押してあげたくなるような顔で。
「いい、と思う」神野と白井さんの間に、何があるかは知らない。それは二人にしかわからないことで、二人にしかわからなくていいものだ。たぶん。
それに、白井さんのことを肯定することで、僕自身を認めたかった。
僕の、先生への気持ち。
「ありがとう」優しく微笑んでから、あ、次で降りるね、と白井さんは爽やかな表情で言った。
「またね」「うん」ばいばいっ、と振られた手に、僕も小さく手を振った。ドアが開くと、白井さんはすぐに飛び出し、一度もこちらを振り返ることはなかった。
僕の最寄りまではあと二駅。その間、僕は目を閉じて、脳内の画用紙に、今の思いを素直に描いていた。
ベースは白。そこに青、薄めの緑が大きく占める。水をたっぷり含ませて、滲んで境界がわからないぐらいが丁度いい。僕の今の心は、形の取りようがないから。そこに鮮烈なピンクを一滴。思いがけず落ちてきた花びらのように。あと瑞々しいレモンから垂れたような黄色も必要だ。
この気持ちは、一文字では片付けられない。それでいいんだ。今はこのままで。無理にこの思いに、ラベリングなんてしなくていい。しちゃいけないんだ。
僕には、色があるんだから。この手で、もう傷なんてないこの手で、好きなように描けばいい。ただ、それだけ。
僕が降りる駅の名前が告げられたとき、ぱっと目を開く。
描きたいものが、はっきりと見えた。
次の日、僕は朝一番に学校に行った。毎日朝早くから練習している陸上部の存在を初めて知る。駐車場に停まる先生達の車もまばらだ。校舎の中はまだ眠りから覚めていないかのように静かだった。
鍵を開けて、顔を顰めながら、油の臭いが充満した部屋に入る。真っ直ぐに自分の席に向かい、真っ白なキャンバスの前に座る。
ありがとう、白井さん。
心の中で呟いてから、僕は鉛筆を手にした。
三月。春は近いと言ってもまだ寒さが残る廊下で、あの温かい声に呼ばれた。
「藤原」振り向くと、先生は笑って僕に手を振った。
「青の溜まり場、優秀賞おめでとう」あの絵のタイトルを言われて、少し頬に熱を感じた。じわ、と胸の奥で、バターが溶けたみたいな音がした。
「ありがとう、ございます」ちょっと言葉が詰まったのが、やっぱり残念だ。
あれ、先生への気持ちです、とは言えなかった。恋でもなくて、友情でもなくて、そんな不安定な思いを、そのままキャンバスに映したんです。
もしかしたら、実はこれは恋なのかもしれない。他の人からしたら、お前はもう落ちているじゃないか、と笑われるかもしれない。それでも僕は、この気持ちを、いつか親愛の色でラッピングして贈るだろう。たとえ中身が違っていたとしても。
今はまだ、この曖昧な青さに浸っておこう。冬を溶かすような柑子色の日が、窓から射し込んだ。
親愛なり 由利 流星 @sooseki
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