呪絵

手紡イロ

呪絵

僕の描く世界は、世界中の誰にも認められるモノだ。

そう勘違いして、ただひたすらに自己の世界をキャンバスに描き連ねて来て何年が経っただろうか。親や周りの友達の言う言葉を鵜呑みにして、ただただ盲目的に線を引き、彩りを重ね、創り上げてきた絵たちは、僕が大学生になる頃にはただのガラクタに成り果てていた。

上には上がいる。そんな簡単な世の理にも気付かないで生きて来た僕は、美大に入ってから自らの周りの“実力”と言うのモノに打ちひしがれていた。思い上がりも甚だしかったのだ。鼻高々に描いた僕の傑作たちは、周囲の傑作に黙々と埋もれていく。『小鳥遊の絵は独特だね』という日々かけられていた言葉は、この場所では何の意味も成さなくなっていた。

今日もいつものようにキャンパスの前で、僕は絵を描いている。周りなんか気にせずに、想像力の赴くまま、僕の中にあるものをカタチにし、描き出そうとしている。いや、吐き出そうとしている、と言った方が正しいのだろうか。

「小鳥遊」

聞き慣れた声に筆が止まる。ふと顔を上げると、中性的な顔立ちにふんわりと笑みを浮かべた、高校から一緒に腕を競い合っている神崎が隣に立っていた。僕の肩をポンポンと優しく叩き、

「ちょっと、根を詰めすぎじゃないか」

ここ最近、よく言われている言葉をかけられる。僕は神崎から視線を外して、目の前にある描きかけのキャンバスを見つめた。

「まだまだだよ。もっとクオリティを上げないといけない」

「そうは言っても、休息が無くては集中力も続かなくなるぞ? 良い作品も何も、そればかりに気を取られていたら疲れてしまう。納得いかないところで妥協することになったらどうするんだ?」

そんなことない、と言いかけたが、確かにそうだ。今だって正直なところ、気を抜けばすぐにでも寝てしまいそうになる。

それだけ、僕は焦っている。

神崎に見られないように唇を噛み締めて、現状を顧みる。そして、余裕のない自分に怒りが湧いてきた。焦れば焦るほど、最高の作品からは遠ざかっていくというのに。無理に頑張ったところでどうしようもない。きっと目の前にある絵から、神崎には切羽詰まった僕の気持ちが透けて見えているのだろう。ふう、と息を吐いて、僕は椅子の背にもたれかかった。

「そうだね。ちょっと疲れたかも」

「そうそう、適度な休息。たまには酒でも呑まないか?」

「ちょっとだけなら」

「じゃあ決まりだな。今日はバイトも無いし……お前の家でいいか?」

いつも通りだ。了承の返事をして、もうちょっとだけ、と僕はキャンバスに向かう。神崎の呆れたような笑いが聞こえたが、無視して僕は筆を取った。中途半端に放置するのは嫌いだ。

せっせと筆を動かす。

赤の絵の具が線を描く。

僕の世界には、必ず赤がある。

僕の世界を象徴する色だ。鮮やかな赤。いつから赤という色に魅せられたのか、シンボルとして描くものには必ず使っている。

「小鳥遊のような赤の使い方は、俺には出来ないな」

感心したような声が背後から聞こえてくる。僕は振り返らずに「そんなことないよ」と答えた。才能の無い僕に対して、気を遣ってそんなことを言っているわけではないのはわかっているが、少し複雑な気持ちになる。

神崎は所謂天才肌だ。見る人が皆褒め称えるような、人を引き寄せるような筆遣いをする。この美大に入った時も、学生から先生から、誰からも絶賛されるような絵を描いてみせた。

いつもそうだ。

神崎が“光”なら、僕は“影”だ。皆が皆素晴らしいと言う神崎の作品と、その陰に隠れるように必死に主張をしているのが僕の作品。最初は平等に評価されていたはずの僕達の絵は、いつの間にか圧倒的な差がついて評されるようになっていた。

一度グッと伸びをして首を回すと、ポキポキと音が音がする。ふう、と息を吐いてから、僕は神崎に改めて言う。

「もう少し待って」

「勿論だよ、俺は帰り支度をしてくる」

足音が遠ざかっていくのを背中で感じながら、僕は一心不乱に赤色をキャンバスに塗りたくっていた。


完成した絵を、僕は遠くから眺めていた。

壁にかけられた絵は、そこにぽつんと存在している。真っ黒な空間に、赤の絵の具で描き上げた“ガラクタ”が映える。

ああ、素敵だ。

我ながら傑作だと思った。この空間には僕の作品だけが存在し、最も映えるように飾られている。これを誰かが観賞してくれていたら、もっと気持ちが満たされるのに。

暫くぼんやりと佇んでいると、不意に視界の端から影が現れた。何故か体が動かなくて、驚いたが肩を跳ね上げることさえ出来なかった。

何がどうなっているのだろう。

不思議に思っていると、その影は不意に僕の絵の前で止まって、静かに佇んだ。

その後ろ姿の雰囲気で、やたらと熱心に絵を眺めているのが伝わってきた。僕の作品をあんなに熱心に見てくれる人がいただろうかと思うほどに堪能しているのが、どういうことか手に取るようにわかる。

ああ、嬉しいな。誰なのだろう。

目を凝らすが、何故だかその姿を上手く認識することが出来ない。

靄がかかって見える。どうしてだろう。

必死に目を凝らしてみる。

そして、気が付いた。あれは人間の形をしていない、と。

ちゃんとした形はわからない。ただ、異様に首と手が長く、尻尾のようなものを引き摺っている。ディテールはわからないが、“ソレ”は異形のモノだと確信した。この世に在るはずの無いモノ。見てはいけないモノだ、と心の臓が急速に震えてくる。しかし逃げられないし、声も出すことも出来ない。ひゅうひゅう、と息が漏れるだけだ。

どれだけの時間が経っただろうか、僕の絵を眺めていた“ソレ”がゆっくりとその場から離れていく。横顔が見えた。形はやはり、よく見えない。妙な艶感がある程度にしかわからない。

ようやくその姿が視界から消える。動かない体の芯が震えていた。胸を突き破りそうなくらいに心臓が鳴っている。あれは関わってはいけないモノだと、本能で感じている。そっと目を閉じて、深く深呼吸した。ゆっくりと目を開く。

霞みがかった“ソレ”が、僕の顔を目の前でじっと見つめていた。


「わぁぁ!!」


缶チューハイを口に含んでいたらしい神崎が咽せ返る声を聞いて、僕は夢の中で悲鳴を上げたつもりが、現実とごちゃごちゃになっていることに気が付いた。胸が苦しいくらいに脈打ち、肩で息をしている。神崎は自分の胸の辺りをバシバシ引っ叩いている。そんなに驚かせてしまっただろうか。

自分を落ち着かせるために深呼吸をしている間、すっかり掠れ声になってしまった神崎は心配そうに「大丈夫か?」と背中を摩りに来てくれた。悪いことをしてしまった。

「ごめん、神崎」

「気にするな、突然どうした……?」

僕は鮮明に覚えている夢のことを話そうか一瞬迷ったが、如何せんただの夢だ。そのうち記憶からも薄れて無くなるだろう。わざわざ口に出して、あの得体の知れない不気味な夢を記憶に残す必要もない。

靄がかった異形のモノの姿を掻き消すために、僕は頭を振って再度「ごめん」と神崎に謝った。

「ちょっと怖い夢を見てただけだよ、まさか声を上げてたなんて」

「お前が魘されてるのはよくあることだからあまり気にしていなかったんだが、急に叫び出したから。流石に驚いた」

「ええ……僕、魘されていること多いの?」

自宅で呑んでいると知らぬ間に寝ていることが多いのだが、唐突に知らされた情報に困惑する。確かに普段から夢見は悪いが、最早放置されるほどによく魘されているとは。そういえば、酒が呑めるようになった最初の頃、よく神崎が寝ている僕を揺すり起こしていたことを思い出す。そういうことだったのか。

ようやく呼吸も心拍も落ち着いてきて、今度は僕が時たまコホコホと咳き込む神崎の背中を軽く叩いてやる。そうしながら、僕は夢の中の異形のモノのことを考えていた。

あの得体の知れない恐怖感。

在ってはいけないモノだという直感。

姿こそぼんやりとしてはっきりしなかったが、夢を見終わって落ち着きを取り戻した今、何故だかアレが何であったのかを知りたいという欲求が芽生えている。

おかしいな、さっきは忘れようと思っていたのに。

そんな疑問は一瞬で消え去り、僕の中で決意が固まった。

その姿を明確にするために、記憶を頼りにキャンバスへと描き上げることにする。僕の絵の原動力は悪夢にもある。あんなにも恐怖を感じたのは初めてだったので、あれをキャンバスに描き起こせはそれこそ傑作になると思った。

きっと、誰もが目が奪われる作品になるに違いない。

ようやく落ち着いた神崎は、ふう、と息を吐いてから、

「起きたなら、もう一杯くらい付き合ってくれよ」

「僕が寝てる間に呑んでたんじゃないの……?」

「あのチューハイで終わらせるつもりだから。というか、あと一本だけ残ってるから呑め」

紅潮した頬をくいっと上げて笑ってみせた神崎は、僕に最後の缶チューハイを押し付けた。


あの夢の中の異形のモノ。その姿を描きだしてから、僕は頭を抱える羽目になった。結局ぼんやりとした記憶しかなく、遠くから見た背中しか覚えていないのだ。僕の絵の前に佇む姿が、小さく、曖昧な形でしか描けない。正直、色合いもあやふやだ。僕の目の前に現れた姿ですら、眼鏡を外した時のようにぼやけてよくわからなかった。

描きかけていた絵を真っ赤に塗り潰したくなる気持ちを抑え付けながら、ふと夢の中ではかなり離れた位置から“ソレ”を見ていたことに気が付く。自分の絵はかなり鮮明に近く見ていた気になっていたが、思いの外遠くから見ていたのだ。

それなら仕方ない。すんなり僕は諦めて、遠くに見た“ソレ”を思い出せるだけしっかり描こうと筆を動かす。ぼやけて見えていた“ソレ”と、鮮明に見える僕の絵の一部。真っ暗な空間は、僕の恐怖の感情で飾り、一旦その姿を描き上げるのを終わりにした。今の僕に描けるあの姿はここまでだ。

ふう、と息を吐いて筆を置くと、

「おい、小鳥遊」

掠れた声と共に、頭にぽん、と手が置かれる。返事をする前に、そのまま頭を鷲掴みにされて前後に揺すられた。

「ちょっと、神崎……やめてよ」

「また深刻な顔をしてたからな、ちょっかいかけたくなった」

「もう……声、どうしたの?」

見上げて問いかけると、神崎がマスク越しにも分かるように苦虫を噛み潰したような顔で「風邪移された」と、辛そうに二度ほど痰が絡んだような咳払いをした。

「妹からもらったみたいだ。あいつは人に移してすっかり元気になってる」

「それは災難だね……病院は行った?」

「しっかり酷い風邪だって診断されてきたよ、最悪だ」

吐き捨てると、険しい顔のまま僕が描き上げた絵に目をやり、怪訝そうに少し首を傾げる。

「何だか、いつもと違う雰囲気だな。こう、いつも以上に感情に忠実というか」

「あ、わかる?」

神崎と僕はお互いの描く絵を見て、よくこんな会話をする。最初は内臓の探り合いをしているような妙な気分だったが、今では隠し事をするような気にもならないので、何か察した時はさらっと口に出すのだ。

「そんなに末恐ろしい夢を見たのか? 小鳥遊の描く世界は夢見の悪さで出来ているところがあると言っても、ちょっとこれは気味が悪いぞ」

「えぇ、そこまで言う? まあ、神崎をチューハイで咽せさせて殺しかけた夢を見た時のだけど」

「やっぱり色々と末恐ろしいじゃないか」

キャンバスを一通り眺め回した神崎は、もう一度首を傾げて見せて、勝手に納得したように頷いた。わざわざ深くは訊いてこない。

さっと顔を背けて苦しげに咳き込んだ神崎は、そのまま離れて帰り支度を始めた。相当にしんどいのだろう。いつものバイトが、という言葉が出てこない。一つ一つの挙動がのろのろとしていて、危なっかしい。

思わず、「ちょっと、神崎」と僕は席を立ち、振り返った神崎の額に触れて体温を確認した。結構、熱い。こんなにしっかり熱があるのに、どの授業も欠席したくないと入学当初から張り切っていた彼は、這々の体で出席したのだろう。いつぞやか僕に何やら説教を垂れていたのはどこの誰だっただろうか。

「おお、冷える」

僕の手は、他人より冷たいらしい。加えて今は冬真っ只中。発熱している神崎にはいい氷嚢になっているようだ。

「こんなに熱があるのに、なんで休まないの。僕には色々言うくせに」

「男の意地」

「僕には意地を張るなと言っておいて?」

「いやさ、自分以外は心配なわけだよ」

僕の手を優しく退けた神崎は、ポンポンといつものように肩を叩いてくる。

「心配するな、こんなの薬飲んでりゃすぐ治るから。医者にかかって、もらった薬飲んで、寝てりゃ治る」

「今日のバイトは?」

「無し無し。むしろ来るなって言われたよ。帰って寝る」

言って、神崎は僕にも帰り支度を促した。良い悪いは別にして、言ったことは守る。そんな神崎のことを知っているから、僕は素直に支度を済ませて、帰り道を神崎と共にすることにした。

「せっかくバイトは休みになったし、どこかで呑むか?」

「馬鹿なこと言ってないで早く帰って薬飲んで寝るんだよ、神崎」

はいはい、と神崎は表情を緩ませて笑った。


真っ暗な世界。

僕の作品だけが、その空間に飾られている。“ソレ”を描いた絵の中にもある赤が、暗闇に映えている。

この世界にある僕の絵は、自分で言うのも何だが綺麗だな。

ぼうっと眺めていると、動かそうと思えば動かせていたはずの体が動かなくなり、視界の端からズル、ズル、と引き摺るような音を立てながら、何かがやってくる。

ああ、またあの夢だ。

再び異様な気配を醸し出しながら、“ソレ”は僕の作品をじっと眺め始める。同じ空間に居るだけ恐怖で吐きそうになる。胸も痛いくらいに鳴っている。妙な香りも感じる。

そして、気付いた。前よりも距離が近付いている。

ゴクリ、と喉を鳴らしたら振り返るのではないか。そう思うくらいの距離。それでも、前よりは輪郭がはっきりしているのだが、まだ姿は霞んで見える。視界に映る眼鏡のフレームが、やけに現実味を帯びているのに、何故“ソレ”だけよく見えないのか不思議でならない。

静かに呼吸をする。心臓の音が耳の奥でドクドクと聞こえてくるせいで、向こうにも聞こえているのではないかと不安になってくる。吐きそうだ。

「…………」

不意に、“ソレ”が呟いた。声はノイズがかって聞こえ、更に小さすぎて何と言ったのかはよくわからない。耳障りの悪い声だ。しかし、不思議と悪意を含む言葉を吐いたのではないと直感した。

「…………」

“ソレ”はまた何かを呟いた。長くて、肘の途中からは人間のものではない、獣のような腕を持ち上げて、僕が描いた絵を愛おしそうに撫でている。

今日描き上げた、この得体の知れない異形のモノ。

まさかとは思うが、自分を描かれて喜んでいるのではないか。

そんな馬鹿げた妄想は頭から締め出し、僕は改めて“ソレ”の観察をすることにした。以前はもっと遠いところから、本当にぼんやりとしか見えなかった。今は“ソレ”の全身が、視界にしっかりと収まる程度に近付いている。薄ぼんやりとした姿も、よくよく見てみればディテールが僅かにわかるくらいにはクリアになっていた。

僕の絵を撫でている手は、よく見ると黒く鋭い爪が生えているようだ。茶色い体毛に覆われているのもわかった。長い首は、触り心地を思わず考えるほど艶やかだ。体は痩せた人間のモノ。骨が浮き上がって見えて、青白い。そんな細い体に似つかないどっしりとした下半身は、完全に獣のそれであり、尻の辺りから生えている長い尻尾は頭と同じく艶めいている。

意識を集中すればするほど、その姿は鮮明に見えてくるようだった。

またこれで絵に描き起こせる。少し気分が高揚したところで、絵を撫でるのをやめた“ソレ”は、ゆっくりとした歩みで、僕の視界から消えていく。

残される僕と、僕が描いた“ソレ”の油絵。

しばらくぼんやり眺めていた。

これがまた描けるのか。嬉しいな。なんでそんなふうに思ったのか、僕は相変わらず動かない体のままふと笑みを浮かべていた。こんなにも気味の悪い夢なのに、吐きそうな空気感を纏った異形のモノを描くのが楽しみで仕方なかった。

そして気付けば、絵の中の“ソレ”が、僕の方に向かって歩いてきている。

心臓が跳ね上がった。

冷たい殺気を感じる。

絵の中の赤が蠢いて、動けない体に纏わりついてくる。徐々に体を締め上げ始め、するりと首に巻き付いた瞬間、僕は死を悟った。それだけの殺意が、僕の方へ迫ってきている。


「小鳥遊」


不意に背後から声をかけられ、僕は椅子から跳ね上がった。慌てて振り返ると、目を丸くして固まっている神崎がいた。

「神崎……」

「悪い、まさかそんなに驚かれるとは」

「いや……大丈夫、ありがとう」

キャンバスの前で居眠りしていたようだ。いつの間にパレットと筆を僕の机の上に置いたのだろうか。……机? ここは大学じゃない? キャンバスを持って帰ってきて、家で描いていたのか。いや、この描きかけの絵は課題とかではなく、確か誰かに頼まれたモノ……。

頭がこんがらがってわからなくなっている僕を見かねてか、拳骨で軽く僕の脳天を叩いた神崎が苦笑した。

「ここがどこだかわかるか?」

「えぇっと……僕の家? だよね?」

「そうだな、今日はお前の家でデッサンさせてくれと俺から提案したのは覚えてるな」

「……そうだね、した」

「それで、お互い描くものを描いているうちにお前が寝始めてしまったわけだ。軽く声をかけたりしたんだが、起きないからパレットを取り上げて机に置いておいた」

「うん、ありがとう。それで……魘され始めた?」

「当たり」

神崎は僕の頭をポンポンと叩いて、ベッドを指差す。

「ちゃんと寝ろ。それ、頼まれたってやつだろ? 夜通しやってるだろ。目の下の隈でばれてるぞ」

呆れたように笑う神崎の顔色は、少し青白い。

ここのところずっと調子が悪そうだ。また神崎は自分のことを差し置いてそんなことを言っている。なんでいつもそうなのか。

「神崎だって、ずっと調子悪いでしょ」

僕はほぼ完成した絵に一瞬視線をやってから、すぐにキャンバスの前から退いた。素直に神崎の言うことを聞くのは、僕の要求も飲んでもらうためだ。

僕はベッドに腰かけて眼鏡を外すと、さっきまで神崎が使っていた炬燵を指で示す。

「何もしないで、休んで。そしたら僕もちゃんとベッドで寝る」

言うと、神崎は眉をハの字にして「えぇ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「何でだよ。俺は別に……」

「じゃあ一緒に寝る? 僕には言うだけ言って、神崎だって椅子に座ったまま寝てることが多いって妹さんからしっかり聞いてるから」

「な……あいつ余計なことを」

ガシガシと頭を掻いて、一つ溜息を吐く。僕は炬燵とベッドを指差して、無言で圧力をかけてやる。最近の神崎は本当に体調が悪そうなのに、本人は絶対に認めないのがタチが悪いところだ。

自分よりも他人優先で、やりたいこと優先で、最後に自分自身。今も病人みたいに青い顔をしながら、いつも通りに振る舞って何とかしようとしているのだから困ったものだ。出会った頃からそういうところがあって、散々気を遣ってきたが、もう今では強行手段を取る以外にどうにか出来るものではないと悟った。

しばらく呻いていた神崎だったが、観念したのか深い溜息と共に「わかった」と返してきた。

「仕方ないな。ベッドで寝るよ」

「うん、それでいい……は?」

「ちっこいくせに無駄にセミダブルだからな、二人で寝れるだろう」

「いや、じゃあ僕が炬燵……」

「駄目に決まってるだろう、お前だって寝不足なんだから」

言って、神崎は勢いよく肩を押してきて、僕はころんとベッドに転がされる。驚いて体が動かずにいると、よいしょと声に出しながら簡単に僕の体をベッドの奥へと追いやって、かけ布団を引っ張り上げながら隣へ寝転がった。

一体何だ、この状況。

「ちょっと、何……」

「俺も寝ていないから、ちゃんとベッドで寝る。それだけ」

「狭い……いや、そもそもどうして野郎同士で一緒に寝なきゃいけないの、調子悪くておかしくなった? 馬鹿なの?」

思わずそんなふうに言ってしまう。馬鹿は言い過ぎた、と思ったと同時に、神崎が僕の方へもぞもぞと体を寄せてきた。

本当におかしくなっているのか? 不安になる。こんな悪ふざけをされて気分は良くない。口を開きかけたその時、

「寒い」

寂しそうな声音。顔が見れない。頭ごと神崎の胸元に抱え込まれたからだ。

「寒いんだよ、小鳥遊」

グッと僕を抱きかかえた神崎の体は、本当に冷え切っていた。さっきまで炬燵に包まって、しっかり暖房だってつけていた部屋にいてもらったはずだ。別部屋にいた僕だってそんなに冷えていないと言うのに。

押し返そうとしていた両腕に力が入らなくなる。今、この状態の神崎を拒絶してはいけない。咄嗟にそう思った。神崎が何を思ってこんなことをしているのかはわからないが、困惑する頭を必死に落ち着かせる。

少しでも動こうとすると神崎は拘束を強めた。仕方なくそのままにしていると、不意に神崎の心音を感じる。じっと聞いてみると、妙に弱々しい気がする。何故だろう。

「なあ、小鳥遊」

普段の神崎からは想像もつかないような、寂しそうな声がポツリと零れて、僕の耳に注がれる。胸が詰まるほどの悲壮感を覚えるのは何なのだろうか。

「……どうしたの、神崎」

僕の声は震えていた。か細い声が返事をする。

「俺さ、まだ死にたくないんだよ」

「どういうこと……?」

「描きたいものいっぱいあるし、親より先に逝きたくないし……何よりまだ恋人も作ってない」

最後だけ笑いを含めて神崎は言う。

「これは、恋人の真似事か何かかな」

「どうだと思う?」

「ふざけすぎだよ」

「確かに」

ふと神崎の腕の力が緩んだ。押し付けられていた胸板から顔を上げると、神崎はいつものようにポンポンと僕の頭を軽く叩いた。

「悪い。心細くてな」

「どうしたの、急に」

「甘えようにも女にはとことん縁が無いから、代わりに」

「意味わからない……」

「お前が一番わかってくれるんだよ、俺のこと。一番俺のこと知ってくれて、腕を磨き合って、受け入れてくれる……そうじゃなきゃ、こんなヤバい悪ふざけしないから」

「ちょっ……自覚あるの、」

もう一度「馬鹿なの」と言おうとした瞬間、顎をガッと掴まれて、抵抗する間も無く、ぐいっと持ち上げられる。目を白黒させている間、神崎は僕の目をじっと見ていた。

射抜くような、何か探るような。目を泳がせるのも戸惑うくらいの眼差しで。

しばらくの静寂の間、僕の心臓は震えていた。動揺、だろうか。神崎にこんなことをされるなんて、と驚いているのもあるが、何だろう。普段の優しげな印象からはかけ離れた、鋭い眼光に貫かれているのが、怖い。

「……悪かったな、小鳥遊」

顎から手が退けられて、また頭をポンポンと撫でられる。僕は息をするのを忘れていたようで、無意識に力を入れていた肩を脱力させると共に息を吐いた。今になって、心臓がバクバクと大きな音を立てて鳴り始める。同時に、緊張こそすれ怖いと感じたのはどうしてだろうかと疑問が浮かんだ。

あんなことをされたから、という話ではない。神崎の眼光には何か、僕の内側を弄るような心地悪さがあった。自分たちの絵から感じ取ろうとするわけではなく、あくまで僕自身から探り出そうとしているような……。

そんな僕を尻目に、神崎は大欠伸をしてから一言、

「寝るぞ」

そう言って瞼を閉じた。


後日、数回に渡ってあの夢を見た頃には、“ソレ”の姿は本当に明確に見えていた。そして、その時の夢を絵に描き起こしていた。以前よりずっと鮮明に描ける。こちらへにじり寄ってくる姿から、僕の目の前までやって来た、最も鮮明に見えた姿。恐怖に彩られた記憶を細部まで思い返す。蛇のような頭と、痩せた体に似合わないどっしりとした……熊だろうか、とにかく獣の下半身。引き摺っていたのは鱗を纏った太い尻尾。両手に携えた大きく鋭い爪がギラついている。“ソレ”は全体的にアンバランスだ。

こんなもの、一体どこで自分の中に取り込んだろう。夢というのは、大体自分の経験則から作られるはずだ。今までに見てきた何かが混ざったのだろう。それにしても、気味の悪いものを創り上げたものだ。

ふと、後ろを振り返る。今日も神崎の姿は無い。あの後からずっと体調を崩していて、遂に限界を迎えてここ数日休んでいる。神崎の妹から逐一報告が来るが、あまりよくないようだ。病院に行っても原因がよくわからず、ひとまず自宅で療養しているらしい。心配で見舞いに行こうと思ったが、課題や依頼されたものの納品が迫っていることもあって、すぐには行けなくてそわそわとした日々を過ごしている。

いつもなら集中し過ぎてしまっても止めてくれる神崎が居ないせいで、気付いたら帰りが遅くなってしまい、家で依頼品を描く時間が取れないということがよく起こるようになっていた。昨日今日は、ちゃんとスマホでアラームをかけていたから、過集中から抜け出すことが出来た。でも、何となく寂しい。“いつも”が無くなるとこんなにも孤独に感じるものか。

「終わりにしよう……っと」

後は細かい部分を調整していけばいいだろう、とキャンバスを片付ける。今日こそは神崎のところに行こう。

何か差し入れを買っていってやろうか。食べ物は受け付けるだろうか。こんな時はもし買うとしても、ゼリーのように簡単に食べられるようなものがいいのか。もしかしたら、神崎のことだから補充しないと、と言っていた文具でも買ってやった方がいいかな? どうしたものか。

諸々の片付けを終えて、教室を出ようと振り返ったその時だ。

『まったく』

ざらりとノイズがかった低い声が聞こえてきて、

『執拗い奴だな』

背後から異様な雰囲気を感じ取った。

息が止まる。

後ろで醸し出されている空気感に圧倒されて動けない。体を震わせることすら忘れてしまうほどだった。

振り返ってはならない。今振り返ったら、何が起こるかわからない。

ズル、ズル、と何度も夢の中で聞いてきた、何かを引き摺る音がする。それが僕の背後へと近づいて来ている。

一気に心臓が跳ね上がった。

吐き気すら感じるこの異様な空気感に、気を失いそうになる。何が、一体何が起こっている?

背中を鋭い何かにそっとなぞられる。

逃げ出したいのに、悲鳴を上げたいのに、出来ない。

『これで最後だぞ』

耳元で囁かれる。

僕は声も上げずに、後ろを振り向くこともせずに、一目散に教室を飛び出した。

無我夢中で廊下を走り、逃げる。

あれは、幻聴じゃなければ、夢で聞いた声。

そっと背中をなぞられた感触は、あれは、爪か?

体に纏わり付いた異様な重苦しい、一歩間違えればただでは済まないと直感的に悟らされる空気感。

どうして、夢の中の存在のはずなのに、何故?

もしかして、これは夢なのか……?

……気が付けば大学の入り口で息を切らして蹲っていた。

胸が苦しい。

痛い。

心臓が激しく脈打つのが静まるのを待っていると、突然ポケットの中のスマホが震えだした。こんなタイミングで。一度深く息を吐いて呼吸を整えてから、僕は誰からの着信か確認せずに電話に出た。

細い声しか出ず、もしもし、と言ったその声が掻き消される。小鳥遊さん、と涙を含ませた声が半ば叫ぶように電話口から聞こえてくる。この声は、神崎の妹だ。酸素が回り切っていない頭で数秒経ってから理解が出来た。ここ数日の彼女の声音が頭の中を駆け巡り始める。どうしてだろう。

「小鳥遊さん、お兄ちゃんが」

鼻を啜る音がする。

「お兄ちゃんが……死んじゃった」

そして、泣きじゃくる声。

死んじゃった、と神崎の妹が繰り返す。

僕の頭の中でも、その言葉がリフレインする。

死んじゃった、死んじゃった、死んじゃった。

……神崎が、死んだ?

「嘘、でしょ」

そう返すのがやっとだった。電話口の神崎の妹は更に泣きじゃくって、

「嘘じゃない、嘘じゃないの、お兄ちゃんが」

死んじゃった。

僕はそっと後ろを振り返る。

そこには、何があるわけでもない。

だが、僕の中には確信が芽生えていた。


神崎の葬式が済んでから、僕は家から出られなくなった。絵を描くこともやめた。寝ることも殆どしなくなった。いや、怖くて眠れないというのが正解だろう。また同じ夢を見たらどうなるのか。考えたくないけれども、考えることが他に無い。

そんな中で不意に過る、神崎の顔。生きていた頃の、だ。死に顔はちゃんと見ていない。見たくなかった。

寝不足で朦朧とした頭の中で、神崎が死んだ日に耳元で聞こえた“ソレ”の声が何度も再生される。意味なんてないのに、僕は縮こまって耳を塞ぐ。これで最後だ、と。今になって思えば、呆れていたような声だったな、なんて。頭を振っても、どうしても消えてくれない。消えない。

「かんざき……」

視界の端に“ソレ”の絵が映る。こちらに向かって来る姿を描いた、絵。

「ごめん……」

涙がボロボロ零れて止まらない。こうなると過呼吸も起こしてしまう。

落ち着かないと。そう焦れば焦るほど、呼吸が乱れてパニックになる。迫り来る“ソレ”の姿が今でははっきりと見えてくるようで、それに怯えていると、何故か妙に冷静な顔をした僕が、自分自身に語りかけてくる。

お前のせいだ、と。

「ごめんなさい……!」

何度、この言葉を吐き出したことだろう。

誰も許してはくれないというのに。

僕のせいで、神崎は死んだのだ。

『何を泣いているのだ』

ざらついたノイズを纏った声。ああ、また幻聴か。

『お前が執拗く呼ぶから、殺してやったのに』

何かが頭を撫でる。神崎がやっていたようにではなく、どこかもっと愛おしそうに、髪を梳くように。

僕はゆっくりと俯かせていた顔を上げる。

そこには、夢の中だけの存在であるはずの“ソレ”が立っていた。

「あ、」

『お前が望んだことだろうに。何故悲しんで詫びている?』

長い首を少し傾げて、表情は変わらないが“ソレ”は不思議そうに言った。

僕はしゃっくりを上げながら、必死に言葉を紡ぐ。

「だ、だって、僕は、」

『奴の才能が憎くて仕方なかったのだろう? だからお前は願ったのではないか。二度と筆を握れないようになればいいと』

「ちが、う……違う……」

『違わない、お前がはっきりと私に願った。私はその望みを叶えた。気紛れにではあったがな』

“ソレ”は僕の方に手を伸ばし、鋭い爪を食い込ませないようにか優しく頬を撫でてきた。まるで恋人がするように、だ。

『よくあんな妬みを抱えたまま一緒に過ごしていたものだ。奴は薄々気付いていたようだがな。それでも友達とやらをやめなかったのは、お前にはわからないだろうし、わからないままで良いだろう。後の祭りというやつだな』

“ソレ”は僕から視線を外し、床に散乱した絵たちを見遣った。見ていられなくて、存在していることが許せなくて、それでも破くなんてことは出来なくて、精一杯のこととして、めちゃくちゃにばら撒いたキャンバスたち。はあ、と“ソレ”は息を吐く。どうしようもない奴だな、と暗に言われている気がした。

『何故私がお前の願いをわざわざ叶えたか、考えてみろ』

そちらに歩を進めた“ソレ”を目で追う。

『もっと自信を持てばいい』

あっけからんと言い放った“ソレ”は、僕の描いた絵を指さして言った。

『私はお前の絵が好きだ』

途端、じわっと身体の芯から熱が込み上げてくる。来る日も来る日も僕が望んでいた、ずっと貰えなかった言葉が、目の前の異形から呆気なく放たれたことに感動を禁じ得ない。

本当に不謹慎だと思う。唯一の友達だと言っていい神崎が死んだ直接的な原因は目の前にいる異形の者なのに、初めて自分の絵を好きだと、そう言ってもらえて、心の底から喜んでいる。恐怖もどこかに置いてきて。大切な友達を亡くした悲しみも捨てて。

「本当に……そう思って、くれるの?」

『そうでなければ、人を殺したいほど妬んでいる者の願いなぞ叶えない』

言って、顔だけで振り返った“ソレ”は、

『もう呼ぶな。私はお前の絵だけを楽しみたいのだ』

優しい声音で、そう告げて消えていった。


今日も僕は、キャンバスに向かっている。

大学にも通わず、ひとり部屋に籠り続けて。

心配した両親が訪ねてきたこともあったが、大丈夫だからと追い返した。

神崎の妹からも電話が来るが、全て無視している。

どこか壊れてしまったのだ、と自分でも思う。

もう神崎を想って泣くこともない。

悪夢の世界を描き上げることもない。

何枚も何枚も、僕は飽きもせず“ソレ”の絵を描き続けている。

また会いたいのだ。

いつまでも自信の持てなかった僕の絵を、惜しげもなく褒めた“ソレ”に。

また聞きたいのだ。

僕の絵を認めてくれた、あの言葉を。

気付けば、鮮血のような“赤”が何枚ものキャンバスを彩っていた。




Fin.

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呪絵 手紡イロ @irobird16pajarer

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