名前を呼んで

惣山沙樹

名前を呼んで

 高校の屋上へ続く扉のカギが開いていることに気付いたのは、ほんの偶然だった。そっと扉を開け、屋上に踏み出してみると、そこには春日空かすがそらがちょこんと座っていた。


そらちゃん」


 わたしが呼びかけると、彼女はうんざりしたように身をよじらせ、わたしの方を向いた。


「……春日って呼べって言ってるだろう、城本しろもと


 そっと彼女の隣に腰かけると、さらに彼女の顔は曇った。しかしわたしは話しかけた。


「屋上、立ち入り禁止だよ? どうやってカギ開けたの?」

「あそこ、ヘアピンでいじればすぐ開くんだよ」

「へぇ」


 彼女の短い髪が冬の風に揺れていた。その横顔は、切り絵のようにくっきりとしていて、とても美しかった。


「城本こそ、なんで来たんだよ」

「開いてたから、誰か居るのかなぁって」

「知らない人だったらどうするつもりだったんだよ」

「そのときは、そのときだよ」


 彼女と二人きりになれたのはそうあることでは無かった。なのでこの機会にと前から思っていたことを切りだしてみた。


「なんで、空ちゃんって呼ばれるの嫌がるの? あと、わたしのこともゆうって呼んでくれないし」


 深い深いため息をついた後、彼女は言った。


「自分の名前、嫌いなんだよ。空、ってソラの他にろくな意味が無いだろう?」


 わたしは早速、スマホで空という字について調べてみた。うろ、から、くう、という意味が先に出てきた。


「なっ? まさにあたしみたいだ。空っぽのソラ。それに比べて、城本は良い意味しか無いと思うぞ?」

「そうなのかな?」


 続けてわたしは優の字を調べた。上品、しとやか、みやびやか。そんな、自分とはまるで不釣り合いなものばかり出てきて、わたしは笑ってしまった。


「全然違うや。わたし、上品でも、しとやかでもないもん」

「そうでも無いぞ? 食べ方も綺麗だし、背筋も伸びてるし」


 彼女がそんな風にわたしのことを見ていてくれたことに少し驚いた。彼女はいつも一人で居て、本にばかり熱中していたから、他人のことなんて興味が無いと思っていたのだ。


「ありがとう、空ちゃん」

「だから春日って呼べって」


 むっと眉間にしわを寄せた表情が愛おしくて、わたしは彼女の頬をつんとつついた。


「な、なにするんだよ!」

「えへへ、可愛いなあって思って」


 再び長いため息をついた彼女は、すっくと立ち上がり、スカートの裾を直した。


「せっかく一人になれる場所だったのに」

「ここ、いい場所だよね。それこそ、空もよく見えるし」


 わたしは空を見上げた。綿あめのように千切れた雲が、ぷかぷかと浮かんでいた。


「ねえ、空ちゃん。呼んでよ、わたしのこと、優って」


 上目使いで彼女の顔を覗き込んでみると、彼女は舌打ちをしたようだった。


「なんで城本はあたしに構ってこようとするんだよ」

「空ちゃんのことが好きだからだよ?」


 そう言った瞬間、彼女の顔がかあっと赤くなり、そっぽを向いてしまった。何か、まずいことを言ってしまったのだろうか。好きだから好きと言ったのに。


「城本ってちょっと天然入ってる?」

「それね、よく言われるの。でも違うと思うよ? わたしは天然じゃない」

「天然の奴はみんなそう言うんだよ」


 いつまでも高低差があるのが嫌で、わたしも立ち上がった。地面を見ると、二人分の影が短く伸びていた。

 わたしの方が身長が高いので、今度は自然と見下す格好になった。黒いまつ毛に縁どられた大きな瞳は本当に愛らしい。けれども、それを褒めたらまた彼女が機嫌を崩してしまうのではないかと思い、やめた。


「呼んで欲しいなぁ。女の子同士なのに、いつまでも名字呼びだなんて寂しいよ」


 そう言ってみると、彼女は小さな声で呟いた。


「女の子同士、か……」


 いよいよ決意をしてくれたのかな、とわたしは期待した。しかし、違った。


「だからこそ、あたしは嫌だ。取り柄も、将来の目標も、夢も、何もない、空っぽでがらんどうのあたしに、特別な人ができるのは嫌だ。名前呼びって、あたしの中ではそういうことなんだ」

「空ちゃん……」


 彼女にとって、「名前」がそんなにも大きな意味を持つのだということを、わたしはこの日初めて知った。だから、なおのとこ、諦めきれなかった。


「じゃあ、今すぐじゃなくていい。いつか、優って呼んでくれるようになるの、待ってる」

「そんな日、一生来ないさ」

「わからないよ? それに、空ちゃんは空っぽなんかじゃない。ほら、見てみて? 今日の青空みたいに清々しい存在だし、考えてることもスケールが大きいなって思ってて、いつも尊敬してるんだよ?」


 唇を噛んだ彼女は、絞りだすような声でこう言った。


「そう、言ってくれるの、城本が初めてだ」


 わたしは彼女の頭を撫でたいような衝動に駆られた。しかし、それを抑えつけて、言った。


「待ってるからね」


 先にわたしは屋上を出た。いつか名前を呼んでくれるその日まで、わたしはずっと待っている。

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名前を呼んで 惣山沙樹 @saki-souyama

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