ひろうかみ
玉手箱つづら
ひろうかみ
車道を歩いていた。
見渡せば、そこは山林で、木々の向こうには人の賑わう気配もあった。坂になっていてよく見えないけれど、明るく群れるひとたちの、興奮の声が聞こえてくる。まだ昼間だが、祭りでもやっているのだろうか。
俺のいる車道を挟んだその反対には、海が……いや、対岸が見えるから、湖か。暗い緑の隙間、曇天の下にも透きとおっている湖面は、今日が晴れていたならばもっときらめいたに違いない。遠く、物語めいた装飾をまとう遊覧船が、航海を模して滑っていく。
箱根かもしれない、と思う。
神奈川で生まれ育ったこともあって、箱根には何度か訪れたことがある。といっても、そのほとんどは登山鉄道でのぼっていくような山の上の方──温泉施設や美術館なんかが並ぶあたりへの旅行で、こちらの下の方──芦ノ湖周りへ来たのは一度だけ。遊覧船に心からはしゃげるような、幼い子どもだった頃……あれはたしか、家族旅行で……。
「……なんか、鳥居があったよな」
坂の上、賑わっているのはきっと箱根神社で、隣接するかたちで他の神社もちょこんとあったりするはずで。だとしたら、こちらへ降りてきた先──芦ノ湖のほとりに、ちょっとしたフォトスポットにもなるような、大きな鳥居があった、ような……。
そう思って振り返り、群衆の気配を無視して木々と湖の境あたりを見まわす。車道には普通に車が行き交っていて、どうやら箱根神社の駐車場が近くにあるらしい。一応は申しわけなさそうな顔をして、なるべく端へ寄りつつ横柄な歩を進めると、記憶のとおり、湖を正面に望む赤い鳥居の姿が目に入った。
お、と呟いて、歩みを速める。が。
「立ち入り禁止……」
鳥居へ近づくものを阻むように、何本かのロープが張られている。そしてそれに吊るされた味気ないプレートには、感染症対策のため正月前から数ヶ月の間、鳥居付近への立ち入りを禁止する旨が記されていた。要するに人が密集しちゃうから、ということで、こんなところにもコロナの影響はしっかり出ているということらしい。
その対策は功を奏していて、たしかに、かすかに鳥居が覗けるロープ周りにも人はまったくいない。なんだか身に詰まされるような、鳥居の側のさみしさが湧いてきてしまって、ここからでも写真に収めておくか、とポケットを探ったところで、スマホを持っていないことに気がつく。
「マジか……」
スマホを持たずに外出するなんて、とても普段からは考えられない。どうにも尋常ならざる事態だと感じてはいたけれど、これにはいよいよ呆けてしまって、ぼんやりと、これ帰れるのか……いや、帰らなきゃいけないかんじでもないのかな……などと、頼りない自問自答をしたけれど、当然何が分かるでも決まるでもない。鳥居に向けて手を合わせて、あてもなく来た道を戻る。
賑わいが遠ざかる。
ところどころ歩行者用の道が敷かれていて、ひとまずは進んでいいのかな、と思うけれど、しかしその道も急に途切れて車道に出るしかなくなったりして、そうなると、もしか駄目なのかもとも思い、時折後ろから走り来る車に冷や冷やしながら、端の端へと我が身を追いやって、進む。進むしかない気がするからそうしているけれど、それも正しいのか分からない。
もし、誰かが俺を抜き去らず、停まることがあったならそれは、きっと俺を叱責するためだろう。そんな不安ともいうべき予感に、だんだんと背が丸まっていくのが自分でも分かる。ちょっと……情けない気持ちにも、なる。
「あぶないよ」
声がした。突然のことに、思わず肩が跳ねる。
「あぶないよ」
また、同じ声。肩越しに振り向くと、俺の隣に張り付くように、白い車が停まっている。すみません、と返す言葉も、口の中でもつれてしまう。こんな近くの車に、声が掛かるまで気付かないなんて。
驚く俺に、しかしまるで構わぬ様子で、車のドアが、ふぅ、と開く。
「乗りなさい」
そう言って、声の主は俺を招く。
「車ならすぐだから」
その肌は、車よりも白く──たとえば、ひかりか何かのようだ、と、俺は思う。
すぐだ、と言ったその言葉に偽りはなく、ものの数分で車は駐車場らしきところへ着いた。
芦ノ湖のほとり、ちょっとした船着き場に、みやげ物屋と飲食店が軒を連ね、観光客用の港を成している。自販機には着物と鯉と、扇と、Welcome to JAPANの筆文字が描かれていて、賑わいというならば此処こそ人が溢れていそうな所だったけれど、しかし見渡すかぎり、人の影はひとつも無い。
「こっち」
車の主はそんな異様には目も向けず、港の向かい、すこし間を置いてぽつんと立つ、何かの駅舎へと向かっていく。
「……ロープウェイ?」
「もう降りてくるよ」
そう言ってどんどん進んでいく背中を、小走りになって俺は追う。建物に入り、階段の先、ガシャポンと景色の写真がぐるりと並ぶ待合を抜けると、言葉のとおり今ちょうど、ワイヤーに吊られた鉄製の籠が、静かにホームへ降り着つところだった。
ふと、切符とか要らないのだろうか、と思ってぼんやりポケットを探る俺に、そのひとは、だいじょうぶ、とだけ言って籠へ乗り込む。ポケットは相変わらず空だったけれど、このひとが言うなら大丈夫なんだろうという気がして、俺もそのあとへと続く。
俺とその人だけを乗せて、ロープウェイが動き出す。
籠はあっという間に高度を稼いで、窓の向こうには遠く大きな芦ノ湖と、その先の街々と、それから、空と、海とが、パノラマとなって広がっていく。
見おろせば足下には山肌を覆う木々が、一本一本、天に向かって伸びていて、かつふとした瞬間にそれらの樹々が、光の加減がつくるような、絶妙な緑の色合いの帯として像を結ぶ。こうして見てようやく気がつく、彼らの、力みなぎる整然性。
「すこしゆれる」
圧倒されている俺に声が掛かると、本当に籠がガコンと揺れる。ワイヤーを渡す鉄塔との接触部分を、籠が通過したらしい。この後もう一度この揺れを経て、七分ちょっとの、ロープウェイの旅は終わる。ついさっき麓の駅で見た看板の名前を思い返す。
駒ヶ岳山頂に、俺たちは到着する。
荒涼とした山頂の丘、その最も高いところに、小さな社がひとつ、息をのむ確かさで立っている。
その他には何もない。残雪と、かすかな道ばかり。麓の賑わいなど嘘であるかのように、芯から静まって、空気はただ冷たい。
神域──そんな言葉が、宗教心などないはずの頭にも浮かんでくる。
かつて、ロープウェイなど当然無かったような昔、人々は険しい山道を歩き抜いて、その果てでこの景色を見たのか……想像せずにはいられない。果たしてその感動は、どれほどの――
「もとつみや」
なにか、挨拶かのように呟いて、一歩、そのひとが歩き出す。
「参ろうか」
促されるまま、俺はそのあとを付いていく。
まずは丘の裾を道なりに回り、社の正面へと赴く。冬の草と、土と、雪とに褪せた視界の中で、社の赤だけが鮮やかにそこにある。なだらかな勾配を上っていく。
そうして、登山の終わり、その社が俺を迎える。
作法など分からない俺は、手を合わせ、そのまますこし頭を下げる。なにか心の中で祈ったりするものなのかもしれないけれど、いま、思いつくようなことは何もない。
結局俺は黙ったまま、ただ、その威容に対する敬意だけを、空っぽの祈りに託した。
ふっ──と、隣で、快い笑い声が、小さくたった。
帰りの車は不思議なほどに音がなく、窓外の景色が動いていなければ、きっと、走っているとも分からなかった。
道は、行きよりもずっと長いように感じられて、ともすれば、このまま景色だけを流して、ずっと続くのかもしれない、とぼんやり思った。
「本当は」
と、その人は言った。
「もっと、君たちのことを、ひろってあげたいんだけどね」
きゅ、っと、その目が細まる。
ハンドルを持ったままの手が、なぜだか、俺の顔を包んでもいて、白く、ひやりとやわらかい。
「でもなかなか、そういうわけにもいかないから」
そう、言ってくれる……惜しんでくれる、声が。本当に哀しげで。それだけで、俺は……
だから、また、ふらふらと歩いてきなさい──
俺は……救われる気がしていた。
どこにでもいる、わたしたちが、みつけやすいように──
白い手が、俺から離れる。
後ろでドアが開いて、外は、箱根神社の駐車場だった。正月の神社、初詣客の賑わいが、熱気をもって肌に伝わる。
「でも、できればもう、車道はやめなさい」
あぶないからね、と声が笑う。
ドアが閉まって、車も、そのひとも、気がつくといなくなっていた。
ポケットには、いつの間にか、千円札とロープウェイのチケットとが入っている。俺は、すこし迷ってから、振り返って進む。
そうして、人々の列の最後に並び、紙に印刷された箱根
ひろうかみ 玉手箱つづら @tamatebako_tsudura
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