エピローグ

 家に到着して自室のベッドに転がると、身体中から怒涛の勢いで疲労が押し寄せてきた。どこにそんなに潜んでいたのか。久々に一日中歩き回っていたからか。運動不足を解消するためにも、部活に入ったほうがいいかもしれない、と思った。

 疲労に押し負けて瞼を閉じると、記憶に色濃く焼きついた昔の映像が脳裏で再生された。

 誇張ではなく、何百回と繰り返し思い出している記憶だ。

 それは初恋の記憶。

 私のなかでは、現在進行形の恋愛の、始まりの記憶。

 小学二年生のとき、私と彼は同じクラスだった。それだけじゃなく、席が隣同士になった時期もあった。……彼はどうやら覚えていないようで、少しショックだったけど。

 ともかく、席が隣になれば、関わるきっかけとなるイベントも発生しやすくなる。別に最初は彼のことなんて有象無象の男子の一人だったけれど、隣の席に座っている時期に、転機となる事件が起きた。

 授業中、彼が私の落とした消しゴムを拾ってくれたのだ。

 それだけ。ただそれだけ。言葉にすればギャグだと思われそうなくらい些細なこと。

 でも、それが私にとってのきっかけとなった。

 その日、私は彼を好きになった。

 だけど気持ちは伝えられなかった。小学生の頃の私は気が弱くて、男子と喋ることが恥ずかしくて、おまけに陰も薄かった。我ながら内気な王道ヒロインだった。それはそれで王道主人公の彼が手を差し伸べてくれるかもしれないと期待したが、彼にはすでに相手がいたのだ。

 そう。その頃から原田隆志には、藤堂樹理という最強のヒロインがいた。

 才色兼備なうえに幼馴染設定まで持っている。陳腐な言葉を使うなら、まさに運命の人だ。敵うわけがない。創作の世界でだって、当時の私の立場で告白して成就するなんて話は稀有だ。ましてや現実。一縷の望みさえなく、私は恋情を隠して小学校時代を過ごした。

 小学六年生のとき、父親が東京の会社に数年間出向することが決まった。父は一人で行くといってくれたが、私から東京に行きたいと申し出た。転校なんて嫌がると思っていた両親は目を丸くしたが、私にとっては絶好の出来事だった。

 通っていた小学校と中学校は一貫していたから、中学校になっても同級生は変わらない。つまり、隆志と樹理が仲良さそうにしている風景が、嫌でも目にはいってしまう。小学時代ですら耐えるのがつらかったのに、本格的に恋人として関係を深めていく中学時代は耐えられる気がしなかった。

 転校には、もうひとつメリットがあった。

 転校先に、地元の私を知る人はいない。気弱で影が薄くコミュ障なんて最悪な属性を払拭して、樹理のような王道ヒロインに勝てるだけの魅力的な人物に変われる機会があるとすれば、このタイミングしかないと思った。

 地元に戻る頃には隆志はもう樹理と結ばれているだろうが、性格を変えれば同じ悲劇に遭わずに済む。強い意志を持って、私は大学デビューならぬ転校デビューを果たした。

 しかし……東京での三年間、私は遂に初恋の相手を諦められなかった。

 そうして父親が地元に戻ることになり、私は地元の隣町にある二川高校の編入試験に合格して、その高校に通うことになった。

 そのあとだった。

 転校先の高校に、隆志と樹理も在籍していると知ったのは。

 最初は戸惑い、無理をいって高校を変えようとも思った。けれど、それでは昔に逆戻りになると自分自身を叱責して、この残酷な運命を受け入れてまた成長しようと考えた。

 そう決意した直後、私は稲光が閃くように思いついた。

 〝彼女〟よりも深く〝彼〟の心に踏み込めれば、〝彼〟を私の彼氏にできるはず、と。

 そのために非王道属性を捻り出したのも、我ながら天才的だった。彼の王道属性を引き剥がせば、私にも可能性がある。暗闇に閉ざされた未来に、希望が見えた。

 それでも、すでに結ばれた二人を引き裂こうとするのは良心が咎めた。けれとも、なんと高校一年の二学期になってなお関係が進展していなかったのだ。


「……こんなことなら、彼氏がいるなんて嘘つかなければ良かったな」


 呟きは、白い天井に消える。

 ふと首を横に向けると、わずかに空いたクローゼットの隙間から、白色のワンピースが覗いていた。


「隆志、びっくりしてたな。恥ずかしかったけど、着た甲斐があったかも。次は晴れた日に着て出かけたいな……あ、でもそれじゃあ王道になっちゃうかな? うーん、なんとか理由をつけないといけないなあ」


 次回に向けて作戦を練ろうとして、やめた。次回の約束を結ぶほうが先だろう。

 ベッドに転がっていたスマートフォンに手を伸ばして、メッセージアプリで隆志の連絡先を選択した。


「なんて送ろうかなあ……」


 いまはまだ、真意を伝える勇気はない。

 だから、彼の知っている私を演じて、彼女に取られないように注意を払う。

 でも、いつかは本当の気持ちを伝えたい。

 気づくとスマートフォンの画面に、そんな〝いつか伝えたい言葉〟を入力していた。

 私は自分の体温が上がっていくのを感じながら、その文面を消して別のメッセージを送信した。

 送ったメッセージの横に、《既読》の二文字が表示された。

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枢木玲奈は王道を嫌う のーが @norger

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