はろー にゅーわーるど

末野ユウ

はろー にゅーわーるど

 わたしにとって、世界のほとんどは灰色だった。

 ときどき左右が変わるけど、あまり違いはない。今までで一番大きな変化は、カーテンの柄とテレビの大きさくらいだ。


「今回もアタシが担当だからね」


 毎回ドヤ顔を向けてくる看護師のさつきさんも、わたしにとってお決まりの光景だ。


「他の人に代わったことないじゃん」

「うん。みどりちゃんの担当は、絶対に死守してるからね」


 なんだそりゃ。と笑うと「嬉しくないのかぁ〜?」と言って髪をくしゃくしゃしてくる。

 この病院で一番付き合いが長いんだから、嬉しくないわけないじゃん。


「今回のマンガはちょっと大人っぽいからなぁ〜。みどりちゃんには早すぎるかも」

「大丈夫だし」

「でも子どもでしょ?」

「……そうだけど、ちがう」


 この頃のわたしは、自分が子どもだとは思えなかった。

 でも、かといって大人だなんて見栄も張れない。


 ただ、自分という存在が分からなかった。


 生まれつき体が弱くて入退院を繰り返したわたしは、小学校にほとんど行けなかった。

 だから、久しぶりの登校は本当に緊張した。

 ワクワクと不安がごちゃ混ぜになって、ただの教室がまるで別世界。けれど、クラスメイトのみんなは優しかった。

 みんな、先生よりもたくさんのことを教えてくれた。流行ってる遊びやゲーム、学校の七不思議。

 女の子は人気の男子をランキングにして教えてくれた。


 でも、それが辛くなった。


 ドッジボールは、わたしだけ最後まで狙われない。鬼ごっこは、わたしだけ鬼にならない。給食は、みんなと違うメニューを食べた。

 勉強も個別に授業があった。

 昨日の笑い話が分からない。

 みんなの喜びや楽しさ、苦労と悩み。

 ぜんぶ、一人だけあとから伝えられる。

 

 小学五年生のときに悟って、心から絶望した。

 わたしは、みんなと同じ世界を生きていない。

 そう思ったら、誰かと会うのが苦しくなった。だから、退院しても家にいることが多くなって、両親を心配させてしまった。


「ねぇねぇ、これやってみない?」


 そんなとき、新しい風を送り込んでくれたのは、やっぱりさつきさんだった。


「なにこれ?」

「ネトゲ。MMORPGっていう種類なんだけどさ。この仕事やってたら、なかなかクエストこなせなくてねぇ。みどりちゃんに手伝ってもらいたくて!」


 ソフトのパッケージに描かれていた景色が、すごくきれいだったのを覚えてる。

 剣と魔法の世界を自由に冒険できる。なんだか、胸がムズムズした。


「……まぁ、ちょっとだけなら」


 教えてもらいながら、わたしはもう一人のわたしを生み出した。


 背が高くてキレイなエルフの女の子。

 名前はミス・グリーン。

 弓が得意で、風の妖精といっしょに世界を旅する冒険者。


 そしていざ、異世界にダイブする。

 迎えてくれる音楽は、優しい風とエメラルド色の光を思わせた。

 笑顔で両手を広げてくれてるような、楽しくてあったかい、祝福の音。


「――――すごいっ」


 VRゴーグルで見る世界は、本当に夢のようだった。

 はじまりの村の、のどかで優しい空気。

 首都のにぎやかな街並み。

 フリーマップの厳しい自然やダンジョンの不気味さ。武器の頑強さに魔法の迫力。

 すごくリアルで、匂いも風も土の感触だって、簡単に想像できた。

 驚きと感動に溢れる仮想空間は、わたしにとって確かな現実だった。


「このギルドに入って。アタシもいるし、ギルマスもいい人だから」


 チュートリアルが終わってすぐ、猫耳が生えたさつきさんに声をかけられた。


「さつきさん、今日は仕事お休み?」

「こらっ。リアルのことはタブーよ。それに、アタシの名前は299」

「なんて読むの?」

「ニクキュウ」

 

 本当の名前も年齢も分からない人たちから、いろんなことをたくさん学んだ。

 特にギルマスの魔法使いリンネさんは、優しくて強くてカッコよくて、すぐにわたしの憧れになった。


「ミス・グリーンちゃ〜ん、どうですかニャ〜?」

「……楽しい」


 だからニヤニヤ顔の質問に、しぶしぶ頷くことしかできなかった。


 その日から、わたしの生活はゲームが中心になった。

 気づいたらゲームのことばかり考えていて、両親やお医者さんを別の意味で心配させたこともしばしば。けれど、辛い治療や検査も、あの世界に行くために頑張れた。


 あの世界で初めて、誰かと同じ問題に向き合った。

 あの世界で初めて、誰かといっしょに笑った。

 仲間の役に立てて、感謝されて、ケンカもしながら、同じ目標に向かって一生懸命になれた。


 ゲームの中で初めて、わたしは生きていて楽しいって、心から感じたんだ。


「――――グリーンちゃんは、この世界のこと好き?」


 レベルも上がって、ギルドでも小隊長になったある日。

 ログインしていたのがわたしたち二人だったときに、リンネさんが尋ねてきた。


「はい! もちろんです!」


 リンネさんのアバターはきれいなハイエルフで、喋り方も丁寧だから男性か女性か分からない。

 でも、そんな謎めいた雰囲気もステキだ。


「そう。私も好きだから嬉しい。でも……少し寂しくなっちゃったね」


 この頃、ギルドのメンバーは半分近くにまで減っていた。

 いや、ゲーム全体のプレイヤーが、かなりの人数いなくなっている。


「そう、ですね。新しいゲームがいろいろ発表されましたし……それに」

「それに?」

「……リアルでの生活も、変わる人もいますから」


 この日、わたしは初日に聞いたタブーを冒した。


 だってもう、さつきさんはこの世界にはいない。

 あれから、さつきさんは結婚して子どもを産んだ。

 それ自体はとても嬉しいことだし、変わらずわたしの心配をしてくれるのは、感謝しかない。

 けれど、あのお節介焼きの猫耳を見なくなって、すでに一年が経とうとしていた。


「グリーンちゃんは?」

「わたしは、まぁ、本当なら忙しくなるはずなんですけど。なかなかそうはならないっていうか」


 照れ笑いのあとに、リアルの胸につうっと水が流れた気がした。

 他の同級生たちは、今頃受験のために頑張っているのだろう。

 でも、わたしには関係ない。

 関係ないのだ。


「……ねぇ、グリーンちゃん。グリーンちゃんは、この世界は偽物だと思う?」


 リンネさんにしては、ずいぶんと突拍子もないことを言った。

 突然の出来事に、戸惑ってしまう。


「えっと、それはどういう意味で」

「空の果てや海の底まであって、ヒトの営みや生態系だってある。歴史や今後起こり得る未来さえも。そんな世界が、存在しないと言えるだろうか」


 そりゃあゲームなんだから、作られたものなんだから当たり前のこと。

 そう思ったのに。

 言葉にできなかった。


「もし、こことまったく同じ世界が別の次元に存在するとしたら? 自分で作ったと思っているこの体は、実は別世界にいるもう一人の自分だったら……きみは、ミス・グリーンとしてこの世界を生きたいと思うかな?」


 こんなギルマス、見たことがない。

 いつも理路整然としていて、冷静沈着な魔法使い。なのに今は、子どもみたいな笑顔で夢物語を語っている。


 とてもイキイキと、楽しそうに。

 だからわたしも、心の底からの想いを言った。


「はい。もちろん」


 わたしの返答を聞くと、リンネさんは満足そうに頷き、微笑んだ。


「グリーンちゃんなら、そう言ってくれると思ったよ」


 その言葉のあと、他のメンバーがやって来てこの話は終わった。


 なぜ、リンネさんはあんなことを言ったんだろう。

 どうして、わたしにあんなことを聞いたんだろう。

 

「……どう、して」


 呟いた自分の声で目が覚めた。

 ずいぶんと長く眠ていたみたい。


「もう、夜なんだ」


 半分開いたロールカーテンから見える外の景色が、夜の黒と街灯のオレンジを見せている。

 最後にログインしてから、もう一ヶ月。懐かしくて、悔しくて、あの世界にはやく帰りたいと思ってしまう。


 ふと、窓に映った自分と目が合った。

 髪は抜け落ちて、体はガリガリ。

 最初はお姉さんに見えたミス・グリーンと、見た目は同じくらいのはずなのに。思わず苦笑いがこぼれた。


 でも、わたしの中にあの子はいる。

 彼女の知識や経験は、わたしの中に生きている。

 弓の扱いも、アイテムの作り方も、モンスターの倒し方も、馬の乗り方も、魔法も、川の泳ぎ方も、草原の走り方も。

 だから、こんな体でも愛おしくて誇らしい。


「わたしは……」


 言葉が続かない。

 もう何年も土を踏んでいない足に、骨の浮かんだ胸に、管の繋がった腕に、あの世界を夢見る頭に、激痛が走った。


「みどりちゃん!」

「みどりちゃん、聞こえる? みどりちゃん?」


 ナースコールを押す前に、看護師さんたちが飛んできた。

 育休が明け、今や看護師長になったさつきさんもいる。呼びかけが遠くて、目の前がぼやけてきた。


「さつ、き、さん」


 これまで、イヤというほどこの体と向き合ってきたんだ。

 もう、分かる。

 自分が今、どういう状態なのか。


「いるよ! 大丈夫だからね! 今」

「ログ……イン……したい」


 おぼろげな視界の中で、さつきさんが目を丸くしたのが分かった。


「よしっ、じゃあさっさと元気になるよ! 久しぶりにアタシもやるから」

「今、がいいの……今じゃ、ないと、ダメなの! お願い、しますっ!」


 わたしはどんな顔をしてたのかな。

 少しだけ動きの止まった見慣れた影が、周りの制止を振り切ってVRゴーグルをつけてくれた。


「……待ってなさいよ? ぜんぶ終わったら、アタシもログインするから! 最初の村の宿屋の前! いなかったら……承知しないからっ!」


 大好きな声と手が震えてる。

 血の味がする口でなんとか「ありがとう」と言った。


 目の前を覆う闇の中に、ロードの光が渦巻いていく。

 このまま奥行きが増し、あの音楽が世界の扉を開いてくれるんだ。


「やぁ」


 信じられないことが起きた。

 光の前に、リンネさんが現れたのだ。


「リ、リンネさんっ! なんで」

「きみなら来ると思ってたよ、みどりちゃん」


 教えていない本名を言われ、さらに驚いた。

 そんなわたしの気など知らないまま、魔法使いの杖がエメラルド色に輝いていく。


「ようこそ、私たちの世界へ!」


 強さを増す光。

 ロードの渦と混ざり合い、美しく満ちる。

 体が浮いて、飛ばされて。

 きれいな螺旋に吸い込まれていく。


 そして、頭の中に。

 あの音楽が鳴り響いた。


「――――なに、これっ」


 目を開けると、遥かに広がる草原とどこまでも青い空。

 むっとする草の匂いと、肌を撫でる心地よい風。

 そして、ああ、そして!


「ミス・グリーン!!」


 ガラガラじゃないカワイイ声。

 白くて透き通る肌に、地面を掴める足。さつきさんから、盛りすぎと笑われた胸。細い指と艷やかな爪。ピンと伸びた耳、キラキラ光る髪。

 わたしが作った、思い描いた、理想の自分になっていた。


「……そうか。来たんだ、わたし! なれたんだ、ミス・グリーンにっ!」


 リンネさんの話は本当だったんだ。

 異世界にあるゲームそっくりの世界に、わたしは来た。もう一人のわたしとして。


「空の向こうのあの塔は、やっぱりダンジョンなのかな? あっ! 今飛んだ鳥ってモンスターかな!?」


 体が軽い。

 前のわたしより体重はかなりあるはずなのに、いくら跳ねても疲れない。


「そうだ、待ち合わせ!」


 振り返った森の奥に、にぎやかな声が聞こえる。

 はじまりの村と呼んでいた、約束の場所だ。


「さつきさん……じゃなかった。ニクキュウさん来るかなぁ? んー……よしっ!」


 ちょっと怖いけど、思いっきり走り出した。

 風が、草が、土が、すべてが気持ちいい。


「わたしはっ! ミス・グリーンっ!」


 駆け抜けるわたしは、誰にも止められない。

 なによりも自由で、誰よりも元気だ!


 新しいわたしを祝福するかのように。

 あのきれいで幻想的な音楽が、いつまでもいつまでもこの耳に流れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はろー にゅーわーるど 末野ユウ @matsuno-yu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ