友だちの話

平賀学

友だちの話

 二十年ほど昔の話だ。

 当時僕は小学生で、故郷の田舎で暮らしていた。田んぼと山以外本当に何もないところで、そのおまけにぽつぽつと家が建っているような状態で、住んでいる人はみんな顔見知りだった。子どもは少なかったから、老人たちには可愛がられたし、学校の帰りには畑でとれたトマトをもらったりした。小学校は学年ひとつにつき両手の数で足りるほどしか生徒がいなかったし、みんなと友だちだった。

 ただ人の繋がりの強いことの悪いところか、いわゆる村八分みたいなものがあったりした。同級生の優太の家がそうだった。

 理由は詳しくは知らない。優太のところの親が浮気をして再婚をしたからだとか、優太のところの家は病気の人間が多いからだとか、噂はいろいろ聞いたことがあった。ただ大人たちは明言はせず、それとなく優太の家の人間と関わらないように言った。今考えると、よそから来た金持ちへの僻みから始まったんじゃないかと思うけど、もう詳しく知る術はない。

 学校でも優太はいつも一人だった。みんながドッジボールをしに校庭に飛び出していくとき、自分の机で本を読んでいた。昔は混ぜてほしいとせがんできたけど、みんなが渋っている空気を感じたのか、何も言わなくなった。

 子どもの僕は育った土地の空気を当たり前に受け入れていたから、優太が仲間外れになっていることは当然だし、別に輪に入れてやろうなんて殊勝な考えも持たなかった。自分の机で一人で分厚い本を広げている優太が視界に入って、あいつかっこつけてるな、なんて考えていた。


 僕の実家は山の裾に建っていて、学校から帰ったら友だちを引き連れて冒険をした。あまり山深くまで入ると熊や猪や、何に会うかわからないから、山の中で遊ぶのは大人たちに禁じられていた。整備もされていないし、木がたくさん生えているばかりで、おもしろみもないから、特別そこで遊ぼうとする子どもはいなかった。遊び道具ならあぜ道に転がっている草や虫や木の棒で事足りていた。僕らは木の棒を振りかざして勇者ごっこをしたり、道端に生えている丸いキノコを蹴飛ばしたり、てきとうな葉っぱをすりつぶして薬を作る遊びをしたりした。

 でも、小学校も三年に上がる頃になると、クラスで携帯ゲーム機が流行った。当時は今よりゲームに対する目が厳しかったけれど、それでも子どもたちを夢中にさせたし、特に通信機能で一緒に遊ぶのが目新しくて楽しかったようだ。ようだ、というのは、僕の家はそれほど経済的に余裕がなかったのと、僕の母親が子どもにゲームをさせるなんてとんでもないというタイプで、買い与えられなかったからだ。

 男子たちはみんなゲームで盛り上がっていて、放課後のお決まりは冒険から通信対戦に変わった。みんな誰かの家に集まって、額を寄せ合って遊んだ。最初は僕も横で見ていたけれど、なんせ当時のゲーム機の画面は小さかったから横から覗いてもよくわからないし、体を寄せすぎると邪魔だと言われた。貸してほしいと頼むのもなんだか憚られた。母親が僕にあれがどれだけの高級品か、子どもがさわるのに不適当かをこんこんと語って聞かせていたから、ゲームを借りること自体なんだか悪いことのように思えていたからだ。

 何をしているかわからないけれどみんなが盛り上がっている場所で、ただ座っているだけなのは、一緒にいるのにひとりぼっちみたいに感じられて、居心地が悪くなってきた。

 かといって今さら冒険ごっこについてくる友だちもいないし、女子と遊ぶのもなんとなく気後れするようになっていた歳だったから、僕は放課後の輪から抜け出して一人で遊ぶことが増えた。


 ひとりで拾った棒で道をつつきながら歩いても、そんなに楽しくはなかった。勇者ごっこも、仲間がついてくるからおもしろいんだということに気が付いた。

 でも居場所をなくしたような気分になっていた僕は、途方に暮れてあてもなく歩いた。ひとりで遊ぶってどうやったらいいんだろう。僕を置いてゲームで盛り上がってるみんなは薄情者だ。

 じんわり涙がにじんできたところで、いつの間にか山に足を踏み入れかけているのに気が付いた。

 斜面に落ち葉が積もっている。足元からはよく知らない草がたくさん生えている。太いのや細いのや、いろんな木が生えていて、向こうが見通せない。

 どこからか足音がしたような気がしたし、気のせいだったのかもしれない。

 散々大人たちに脅されてきたから、山は子どもの僕にとって得体の知れない恐ろしさがあった。今はひとりだし、何かいたらどうしよう。そう思ったけれど、同時に少しの好奇心もあった。出入りを禁じられている山は、新しい冒険ごっこの舞台にふさわしそうに思えた。

 僕は握った棒で木の幹を叩いて歩きながら、山の中に分け入った。


 山の中は静かでうるさかった。空を葉っぱが覆っていて、風に吹かれて擦れるざわざわという音がずっとしていた。歩くと小枝が折れる音がした。鼻をむっとする緑のにおいが満たした。爺ちゃんが草刈りをした後の空気に似ていた。濃くて咽そうになる空気。それに土のにおいが混ざっている。足元は腐った落ち葉がつもってできたのか、黒っぽくて、柔らかい土が覆っていた。

 ときどき自分以外の何かが枝を踏んだ音がして、そのたびに足を止めて周りを見回した。でも獣の影もなかった。虫はたくさん飛んでいて、油断すると口や目に飛び込んでくるのでうっとうしかった。おまけに足を嚙まれたので、僕は片手で噛まれたところを搔きながら歩いた。

 しばらく歩くと、山の道のない道を歩くのも慣れてきて、僕は気が大きくなってきた。草が絡んで通りにくいところは棒きれで叩いてならした。なんだ、大人たちの言うより怖くなんかないじゃないか。

 いい気になっていると、急に視界が少し開けた。

 木立がまばらになって、僕の部屋くらいの広さの空間が空いていた。その真ん中に、へし折れた、大きめの木の幹が横たわっていて、幹の上には何かいた。

 僕はひゅっと息を呑んだ。突然視界に入った影は、熊か猪に思えた。山ん中にはおとろしい獣がおるど。そんな爺ちゃんの声が蘇った。

 その影が首をもたげたところで、それが獣でもなんでもなく、僕と同じくらいの歳の男子だとわかった。

 そいつは、倒れた幹に腰掛けて、膝の上に本を広げて読んでいたみたいだった。僕と目が合うと、「あ」と小さく声を漏らした。こんなところで人に会ったのに、ぼんやりとした表情を浮かべていた。

 誰だ、と聞こうとして、そこでやっと気が付いた。優太だ。

「こんなところに何しに来たの。日比野くん」

 優太は緩く首を傾げてそう言った。同級生はみんな下の名前やあだ名で呼びあっているけど、そういえば優太には話しかけたことも、話しかけられたこともほとんどなかった。

「お前こそここで何してるんだよ」

 鼻白みながらも、僕は質問で返した。危険な場所を一人で冒険している興奮は削がれてしまった。

「本読んでる。静かだから」

 答えると、優太は膝の上に開いた本のページに目を落とした。もう会話はおしまいみたいだった。

 僕はむっとした。無意識に優太のことは下に見ていたし、冒険の邪魔をされたのも気に入らなかった。といっても、優太はただそこにいただけだったんだけれど。

「帰れよ。本なんて家でも読めるだろ。こんなところ、虫がいっぱいいるし」

 優太はまた顔を上げた。不思議そうにしていた。

「じゃあなんで日比野くんはそんなところにいるの」

 返事に詰まった。輪に入れずに一人で遊んでいることは、優太に知られるのはしゃくだった。優太は続けた。

「それに、家、静かじゃないし。ぼく、ここの方が好きなんだ」

「なんで。お前んち金持ちで家広いんだろ」

 優太は豪邸に住んでいるということになっていた。召使が何人もいる。それで静かな場所がないなんてことはないだろう。それを聞いて優太は少しおかしそうにした。

「たぶん、日比野くんの家とそこまで変わらないんじゃないかな。お手伝いさんはひとりいるけど、寝たきりのおばあちゃんのめんどうを見るためだし。父さんも母さんもうるさいから、家だと集中できないんだよ」

 日比野くんの家を見たことがあるわけじゃないから想像だけどね、と優太は付け加えた。

「家が村から離れてるせいかな、そんな風に言われてるの。おもしろいね」

 それから、思い出したように足元の小さな鞄を手に取った。中に手を入れて、小ぶりなスプレー缶を出してきた。

「虫よけ。よかったら使う? 足出してたら、蚊に食われるでしょ」

 差し出されて、迷いながらも僕は手に取った。

 スプレーはみかんみたいな匂いがした。なんとなく、僕は優太と話をした。普段だったらさっさと帰っていたかもしれない。でも、そのときは寂しかったから、話し相手ができるなら誰でもよかったんだろう。

 優太は僕が帰らないことに特別何を言うでもなく、僕が投げた話題にぽつぽつと答えた。僕はそのうち、優太の横に腰掛けていた。

「嘘だろ、お前、漫画読んだことないの」

「うん」

 週刊誌の話はよく男子たちの間で盛り上がっていたし、漫画の貸し借りもしていたから、優太がそれら全部知らないというのに驚いた。

「漫画は毒だって。頭が悪くなるから読んじゃダメだって言われてる。父さんと母さんが買った本しか読んじゃいけないんだ」

 優太は足元に目を落として言った。

「うへえ。おれ絶対やだな、そんなの。漫画なんてみんな読んでるし、タツも読んでるけど、理科のテスト九十点だぜ」

「そうなんだ。いいな」

 見上げる優太に、少し同情心が湧いた。

「今度漫画貸してやろうか」

「え」

 優太は戸惑ったみたいだった。

「親の言うことなんててきとうだって。バレないように読んだらいいんだよ」

 それは、ゲームを買ってくれない僕の親への当てつけでもあった。そして優太が親の言いつけを破るなら、少し気分がいいなと思えたのだ。

 優太はずいぶん長いこと悩んでいるみたいだった。考えて、それから、「じゃあ、借りてもいい?」と言った。

「うん、いいって」

 優太は嬉しそうに笑った。そんなふうに笑っているのを見るのは初めてかもしれなかった。


 次の日、またあの山の開けたところに行くと、優太が昨日と同じように倒れた幹に腰掛けていた。僕がやってきたのを見て、それから僕が手に提げている紙袋を見る。

 僕も隣に座って、紙袋から日焼けした単行本を出してくると、うわあ、とまるで隠された宝物を見つけたみたいな声を出した。

「これ、全部読んでいいの?」

「うん」

 僕にとっては当たり前の、すっかり読み込んでくたびれた漫画をこわごわ手に取って、その表紙を眺めたりしているので、反応がいいのに僕は気を良くした。捨てられた子犬に餌をやっているみたいな気分だった。

「いいのかな」

 優太はまだ迷っているみたいだった。

「だから、バレなきゃいいんだって。隠しとけば見つからないだろ」

 それでもまだしばらく迷って、僕がじれったくなった辺りで、「やっぱり、借りるのはやめる」と言い出した。

「もし母さんが見つけたら、全部捨てられると思う。そうしたら、これ、返せなくなるから」

「じゃあここで読めばいいじゃん」

 優太が返そうとした単行本を押し返した。

「家うるさいんだろ。集中できないって言ってたし、ちょうどいいじゃん」

 僕は優太に漫画を読ませることに少し躍起になっていた。

 優太はためらってから、また単行本を手元に戻した。

「うん」

 それから、いつも読んでいる、固そうな表紙の大きな本は鞄にしまって、単行本をていねいに開いた。

 優太は夢中でページをめくった。僕を置いてけぼりにしていたけど、もともと話自体は合うやつじゃないし、初めて漫画を読む人間を眺めるのがおもしろかったから別によかった。

 一冊読み終わって、表紙を閉じると、「くらくらする」とこぼした。

「え、つまんなかった?」

「ううん」

 あんなに集中していたのに、とやや心外に思いながら尋ねると、優太が頭を横に振った。

「絵がたくさん並んでて、初めて見る表現がたくさんあって……頭使った。でも、すごくおもしろかったよ」

 頬をほんのり上気させながらそう言う優太の言葉は、そのときの僕にはよく理解できなかったけれど、楽しんだというのは伝わってきたので満足した。

 続きもすごくおもしろいから、と僕が勧めると、休憩を挟んで次の巻を手に取った。漫画を読むのに休憩するなんて変な奴だなと思った。

 結局その日は、半分も読み終わらないうちに日が暮れてきた。

「そろそろ帰らないと」

 優太が顔を上げた。単行本の表紙を手で払って、名残惜しそうに紙袋に戻す。

「今日はありがとう。おかげで、楽しかった」

 そう言いながらも、言葉尻から滲む残念そうな響きを感じた。たぶん続きが気になるんだろう。僕も、友だちの遊んでいるゲームの続きが気になって、でも覗かせてもらえなくなったことを思い出した。

「じゃあ明日も持ってくるから」

 僕がそう言うと、優太は一度言葉に詰まって、でもそわそわとしているのが隠せていなかった。

「また学校終わったらここで」

 またあれこれ言いだす前に一方的に言って、僕は紙袋を持って山を下りた。

 僕らはそこで話をするようにはなったけれど、一緒に帰ることも、今日学校で声をかけることもなかった。


 次の日の放課後も、また優太は先にいた。幹に腰掛けて、僕を待っていた。

 挨拶もそこそこに、単行本の続きを開く。今日は優太も、読みながら話をするくらいの余裕があった。このキャラクターが好きだというから、そいつはこの次の次の巻で、と僕が言いかけると、慌てて止められた。

 あれこれと話をしながら読み進めるから、昨日よりもずっとペースは遅くなって、結局今日も最後まで読み終わらなかった。

 また明日。優太はもううじうじせずに別れた。


 そうして何回か、優太と山の中で漫画を読んだ。最初に持ってきた漫画は全部読み終わって、別の漫画を持ってくると、それも嬉しそうに読んだ。

 借りっぱなしじゃ悪いから、と優太の本を勧められたけれど、小難しい漢字が並んでいたし、二、三ページ読んだところでつまらなくなって返した。優太は少し残念そうにしていた。

「こんなの読ませられてるんだ。ひでえよな」

 きっと親に無理やり読まされているんだろうと思っていたから、僕は同情した。

「小説も、そんなに悪いものじゃないんだよ」

 優太はつぶやいた。

「これは少し昔の外国の小説で、寄宿学校……寮の付いた学校が舞台なんだけど」

 大切そうに表紙を撫ぜる。白っぽくて、あまり日を浴びていない手のひらだった。

「友だちの話。好きなんだ」

 それだけ言って、優太は本を鞄にしまった。それきり僕はその話に興味をなくした。


 そうしてしばらく過ごしたある日、優太はいつものように先にいて、でも心なしか暗い顔をして、あのつまらなさそうな本を開いていた。

「日比野くん」

 僕が提げている紙袋を見て、優太は困ったような笑顔を浮かべた。紙袋を差し出すと、緩く首を横に振った。

「どうしたの。もう読まないの、漫画」

 僕が聞くと、顔を少し俯けた。

「母さんに、本を読むペースが遅いって言われちゃった。外で遊んでるだけならもう出かけちゃだめだって」

「ええ。こっそり出かけたらいいじゃん」

 せっかく新しい話し相手ができたのに、急に取り上げられるのはつまらなかった。

「言うことを聞かなかったら怒られるから」

「少し怒られるくらいいいだろ。うちも母さん、しょっちゅう怒ってるよ。更年期って言うんだよ」

 優太は曖昧に笑った。

「ぼくが怒られるだけならいいんだ」

 作ったような笑顔のまま言った。

「でも、ぼくが言うことを聞かないと、母さんは怒った後でとても悲しそうにするんだ。母さんの育て方が悪いから、ぼくが言うことを聞かないし、ぼくの出来が悪いから父さんは外で女の人と遊んでくる」

 何か、いつもと違う空気を感じた。引かれている線を踏み越えるような気がした。

「母さんが泣くのも、父さんが怒鳴るのも、ぼくは嫌だ。ぼくのせいで二人が仲良くできないのは嫌だ」

 それから、息を詰まらせて、「ぼくは邪魔なんだ」と言った。

「せめていい子にしていないと、そうじゃないと、あの家にいていい理由がないんだよ」

 僕は、急にぶつけられた言葉が呑み込めなくて、何も言えなかった。

 優太は顔を伏せて、小さく鼻をすすった後、ぱっと顔を上げた。

「なんちゃって」

 笑顔を浮かべていたけど、目じりには涙が浮かんでいて、目元も鼻も赤かった。

「お前」

 変な冗談言うなよ。それは違う。たぶん冗談じゃない。でも、優太に掛ける言葉を、そのときの僕は知らなかった。

 優太は息を漏らすように忍び笑った。

「ありがとう。まるで、友だちができたみたいで楽しかった」

 優太が顔を寄せてくる。固まったままの僕の唇に優太の唇をほんの少しふれさせて、すぐに離れた。

「さよなら」

 僕が何か言う前に、その日は優太が先に山を下りた。


 それから、山に行くことはなくなった。

 友だちの輪に入れない僕をかわいそうに思った父親が、母親を説得して、ゲーム機を買ってくれたのだ。

 渋い顔の母親から、一日何時間まで、とか約束はついたけれど、晴れて僕はみんなの仲間入りをした。放課後に冒険ごっこをすることはなくなったし、友だちの家で通信ケーブルを繋いで、笑いながら遊んだ。あんまりのめり込んだので眼鏡をするはめになって、母親に父親とまとめて叱られたけど、子どもの頃の思い出の一つだ。

 それまでもそれからも学校で優太と話をすることはなかった。

 視界の端に映る優太は、それまでどおり分厚い本を読んで過ごしていた。親から買い与えられた本。決められた通りに読み切らないといけない本。

 中学に上がるときには別の学校になったし、それから会うことはなかった。


 大学に上がるときには上京して、就職したのも東京だった。目まぐるしく時間は過ぎて、気が付けばいい年になっていた。

 最近は親から、孫の顔の催促もそれとなくされるようになった。今どきはこれくらいの歳でも独身なんてよくあることだよ、と言うものの、大学へ行くのも東京で暮らすのも、それなりに、いやかなり親の世話になった身だ。けして裕福ではない家で、ずいぶん良く面倒を見てくれたと思う。

 あまり無下にもできず、かといっていない配偶者も連れて行けないので、まとまった休みに実家に帰ることにした。せめて僕の顔だけでも見せておこうというつもりだった。

 学生時代は長期休暇に帰省するのがお決まりになっていたけれど、社会人になってからは忙しく、東京と田舎を往復する余裕があまりなくて伸ばし伸ばしになっていた。たまに帰ってもあまりゆっくりすることはなかったので、今回しばらく実家で過ごすと言うと、両親は喜んだ。二人とも白髪と皺が増えていた。

 久しぶりにゆっくりと過ごす故郷は、率直に言って不便だったけれど、懐かしさがそこかしこに眠っていた。あぜ道。手入れする人がいなくなって、水の張られていない田んぼ。いつから建っているのかわからない、青っぽい瓦葺きの屋根。二階建て以上の建物はなく、青空がいっぱいに広がって、向こうには山の稜線が見える。遠くのほうは空気を含んで青っぽく見えた。

 僕は、思い出を振り返るように散歩した。当時の僕にとってすべてだった世界は、ずっとちっぽけなものだった。

 のんびりと歩いていると、あの山のすぐ裾まで来た。

 あの日以来訪れることのなかった山は、相変わらず鬱蒼としていた。けれど、あの何が出てくるかわからない恐ろしさはなかった。

 何かに呼ばれた気がした。

 そのまま、記憶を辿って足を踏み入れる。確かこの方角だったはずだ。

 柔らかい落ち葉を踏みしめる。記憶よりもずっと早くその場所に辿り着いた。

 開けた場所には、苔むした幹が倒れていて、ほとんど草で覆われていた。

 そこに腰掛ける誰かはいない。

 ふと白っぽいものが覗いたので、近づいてよく見てみた。幹の上に、落ち葉に覆われて何かが置いてある。

 手のひらで払うと、汚れた表紙の本が置いてあった。長年風雨にさらされたのだろう、ひどい染みやしわになっている。

 あの本だと思った。つまらなさそうな本。

 友だちの話。

 渡すはずだったんだろうそれをようやく手に取って立ち尽くす。耳に聞こえるのは木の葉の擦れあう音だけだった。

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