5 窓の外に手を出して雨を受けとめようとしたときほどの感触もない


 部屋のなかは、たくさんの刑事や鑑識官が出入りしたあと、住む人もないまま放置されていたわりには整然としていた。玄関から入って右に小さなキッチンがあり、その先にユニットバスの、すりガラスのはまったドアが見える。キッチンをまっすぐ抜けた先に部屋があり、そこのフローリングの床に、黒ずんだ嫌なかたちのしみがいまだにこびりついている……どんなに擦っても磨いても、このしみは消えないだろう。つぎの住人に貸すには床を張り替えなくちゃならない。

 女はいなかった。

 あたりまえのことだった。

「なんか見落としたことでもあったんですかあ?」

 背後で警官が歩きまわる気配を意識しながら(住む人を失ってまだ一週間しかたっていないのに、天井に響く虚ろな足音には、はやくも無人のまま長期間を過ごしてきた廃屋の風格があった)、窓のそばの壁に近づいてみた。朝倉が見たといっていた場所だった。手を伸ばして……触れてみた。壁は冷たかった。それだけだった。幽霊がその場にたたずんでいるとしても、江頭みたいな凡人には気配を感じることもできなかった。あるいは江頭もまた……頭がおかしいだけなのか。

 急に自分のやっていることがばかみたいに思えてきた。

「そろそろ出ようか?」

 声をかけてふりかえった。江頭の背後、雑誌や文庫本が乱雑に押しこんであるカラーボックスに寄り掛かるようにして、警官が床にへたりこんでいる。顔が……横に強く引き延ばされて、ギャグマンガのナンセンスな笑顔みたいになっている。引きつれた唇から下がまっ赤に染まっている。喉の皮膚が切り裂かれて垂れ下がり、血まみれの頚骨が白くのぞいている。ちぎれた頚動脈から血が、何度もいきおいよく吹き出しては、白い壁紙に赤い放物線を描き、カーテンにしぶきを撥ね散らしている。目玉が天井を向いたまま、いまにも落ちそうになっている。たぶん泣いたんだろう、頬が濡れている。嗚咽なんか聞こえなかったから、黙って泣いたのにちがいない。

 それともただ、条件反射的に涙が噴き出てしまっただけか。

「きみ、どうして、」

 警官は答えない。まったくわけがわからない。

 ふいに気配を感じてふりかえると……そこに、江頭のすぐそばの壁ぎわに、口元にまだ警官の血をこびりつかせたまま、女が笑顔で立っている。江頭を見つめている。顔をほとんど横に分断してしまうほど大きな口は、笑っているように見えなくもない。唇が上下にゆっくりとまくれると、血の気のない白っぽい歯茎に、すきまなくびっしりと並んだノコギリみたいな歯があらわれる。いや、それはむしろ、鋭く尖った牙というほうがふさわしい。

 女はたしかにはかなげだった……触れたとしても、きっと窓の外に手を出して雨を受けとめようとしたときほどの感触もないだろう。そのくせ彼女の指先は、江頭の腕をつかんだまま決してはなそうとしない。

 こんなことがあるわけがない。錯乱している。あるいは頭がおかしくなっている……それでいて江頭はたしかに理解している、頭のなかの猿だったころの部分で、疑いの余地なくはっきりと、自分が見ているのがなんなのか、自分がいまどんな状況に立たされているか、そしてこれから自分がどうなってしまうのかを。

 女が口を開いて顔を寄せてくる。


【おしまい】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

窓の女 片瀬二郎 @kts2r

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ