4 彼女、きっとあの部屋にずっと住んでるんです


 取調室でふたたび朝倉と向かい合ったとき、江頭の頭のなかにはまだそれがあったし、記録担当の刑事は、小さな机を挟んで向かい合うふたりを、兄弟のようにそっくりだと思ったことだろう。朝倉はまだおびえていた。江頭には、朝倉がおびえる理由がわかった気がしていた。それだけじゃなかった。そんな単純なことではなかった。

 江頭は訊ねた。

「女のことを教えてくれ」

 朝倉は首を横に振るばかり。机の上でしっかり握りしめられた両手の拳が、堅くて白い小石のようだった。小刻みに震えていた。

「おまえは女を見たといったな? 殺したのはその女なのか? 女が殺すところを見たのか?」

 やっと……はじめて……、江頭は朝倉の首が縦に動くのを目にした。かすかで痙攣的だったとはいえ、それはまちがいなく肯定の意思表示だった。汗が鼻の先から、机の上の、握りしめられた拳のすぐそばにしたたり落ちていた。

「その女は被害者の知り合いか?」

 ふたたび首の動きは元に戻る――横に動く。両目は漂白したガラス玉を思わせる。錯乱なんてものじゃなかった、純粋な恐怖がそこにはあった。

「行きずりの女か?」

 ふたたび首の動き。機械的な動きは、じっと見ていると人間じゃなく機械を相手にしているんじゃないかと思えてくる。

「はじめて見る女か?」

 首は横。目はガラス玉、顔は白くなめらかなプラスチックの成形品で、びっしりと結露している。

「どこで見た?」

 目が動いた……まず右を見、ついですばやく左に。まるでこの小さな部屋に、いままで気づかなかっただれかがいるというように。それから……そんなものはここにはいないと納得したのか、やっと口を開いた。

 江頭は聞いた。聞きまちがいかと思った。それからやはりこいつは頭がおかしいと思った。それから……ずいぶんとたってから……彼はほんとうのことをいっているんだと確信した。というより、それはさいしょからわかっていたことだった、ただ、江頭が信じるのに、それなりの時間がかかっただけのことでしかない。

 署を出るとき、行き先はだれにも告げなかった。ただ確認するためだけだったから、わざわざだれかに教えてもの笑いのネタになることもない。とくに加茂には知られたくない。署から駅にたどりつくまでに三本のたばこを吸い潰した。駅で電車を待つあいだは貧乏揺すりが止まらなかった。駅に着いて、改札を出たらすぐ、たてつづけに二本……たばこをくわえるとき、唇にほとんど感覚がなくなっているのに気づいた。べつのことを考えようとしているのに、頭は勝手にあのことを考えてしまう。朝倉のいったことを。朝倉が、窓ぎわに設置した天体望遠鏡でなにを見たのかを。人間がまだ猿だったころの、原始的な感覚。

「女です」

 まるで乾いた手で砂場の砂をかき集めるようなしゃべりかただった。乾いた唇がうまく動かないのか、何度も舌先で湿らせていた。

「ぼくは彼女だけを見ていたんです……

 女だった。

 さいしょに見たのは、いまのアパートに越してすぐのことだった。夜中、遅くに帰宅するとちゅう、ふと見上げたらマンションの一室が明るかった。カーテンを閉めるのを忘れていたので部屋のなかがまる見えだった。なんの気なしに目を凝らすと……女がいた。部屋の片隅にぼんやりとたたずんで、さびしそうにうつむいていた。髪なのか影なのか、顔は隠れていて、驚くほど色が白いということのほかに、どんな女なのかはまったくわからなかった。ただ……魅力的だと思った。朝倉はすっかり見とれてしまい、気がつくと三十分近くもその場にたたずんでいた。

「でもね、」

 と朝倉はつづけた。江頭の背後で、記録を担当する刑事が走らせるペンの音が、やけに大きく、耳障りだった。

「へんなんです。彼女、ずっと壁んとこに立ってるでしょ。部屋にはほかにも人がいるのに、ぜんぜん彼女に声かけたりしないんですよ。彼女はその人のことをずっと見てるのに。うつむいたままで、こう、じーっとね。なにもいわずにね。無視されて。なんなんだって思いましたよ、さいしょはね」

 さいしょはね。つまりつぎはちがったということだった。そのつぎもちがったということだった。彼女を見る回数が増えるたび、朝倉のなかで彼女に対する考えがどんどん変わっていったということだった。

 その部屋の住人が引っ越したとき(半年後のことだった)、朝倉は彼女ともお別れだと思った。そのときはまだ、気が向いたとき自分の部屋の窓や、駅から帰るとちゅうの道で、彼女の姿をぼんやり眺めるていどの関心しかなかった。つぎに越してきたのは大学生だった。彼は恋人を部屋に連れこんで同棲をはじめた。そこに……彼女もいた。昼間からイチャつくカップルとはなんの関係もなく、はじめて見たときと同じ壁ぎわに、同じかっこうでぼうっと立って、なにをするでもなく、ただこの部屋の住人を見つめていた。

 それがなんなのか、わかった気がした……だからといっておそろしくなったわけでもなかった。むしろ共感したのかもしれなかった。それとも……恋か。朝倉は彼女に恋をしてしまった。朝、大学生のカップルが学校やアルバイトのために部屋を出るとき、彼女はいつもの壁ぎわにたたずんでいる。昼間、陽射しの角度が変わってそれまで薄暗かった部屋が明るく照らされると、彼女は、陽のひかりさえすどおりしてしまいそうな白い肌をガラス越しにくっきりと浮かび上がらせて、まだ同じ場所に立っている。その横顔は依然としてはっきりとは見えないものの、どこか寂しげで、はかなげで、そして……いいようのないなにかがある。たとえるなら指先でちょっと触れただけで散ってしまうくらいもろい花が、指先でちょっと触れられて散ってしまったあとを見ているような。夜になってふたりが帰ってきても、彼女は壁ぎわから動かない。カップルも、彼女を気遣うようすはまったくない。カーテンが閉じられると彼女の姿は見えなくなる。

「だから、ぼく、気づいたんですよ。ぼくにだけ見えてるんだって。彼女はぼくだけのものなんだ」

 記録係の刑事のペンの音が止まった。江頭はむしろほっとして、先をつづけるように促した。

「それでまいにち見てたのか、望遠鏡まで用意して?」

 今度の首の動きは……とてもしなやかで、いままでの朝倉を見てきた目には不自然に思えるほど人間的だった。

「彼女、きっとあの部屋にずっと住んでるんです。あの部屋のほんとうの住人は彼女なんです。だから、彼女があいつを殺したのは部屋を取り戻すつもりだったんです」

 カップルが(別れたのか、それとももっと広い部屋で本格的にふたりの生活をはじめるつもりになったのか)引っ越したあとにやってきたのが吉本光一だった。実をいえば、このとき朝倉は、つぎに入居するのは自分だと決めていた。それができなかったのは彼の収入があのマンションに住むには不足していたから(もとは小さな印刷会社の経理だったのが、彼女を眺めるために休みがちになり、ついには解雇されて貯金を切り崩していた)だけじゃなく、彼女が自分を受け入れてくれるか不安だったからだった。すると彼女が吉本光一を殺した。朝倉はそれを見た。だからこんどは自分があそこで彼女と暮らすんだと確信し、ふたつの塀を乗り越えた。しかし……

 ……彼女、いなくなってました。ぼくには見えなくなってたんです」

 ばかな話だ。とてもありえない。完全におかしい。錯乱している。もしこれがほんとうなら、事件の解決に必要なのは警察ではなく霊媒師だ。

 なのに江頭は、いま、マンションのコンクリートの階段を、警備の警官といっしょに二段飛ばしであがっている。江頭の耳には、マンションの屋根を殴りつけるように落ちてくる雨の音にも増して、自分の心臓の鼓動が強く響いている。警官が合い鍵を出してドアを開くのを、刑事の目ではなく、お化け屋敷に潜入しようとする小学生の目で見つめている。そんな目はまったく江頭にはふさわしくない、これはむしろ萬年の目だ。でも……江頭はここにいる、女が棲んでいるマンションに。警官がこっちに向ける目が、まるで意志を確認しているように思える。江頭はうなずく……どうしてうなずいてしまったのか、自分でもさっぱりわからない。

 ドアがゆっくりと開く。


【つづく】

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