3 殺人事件を呼び寄せる場所!


 萬年はいつもちょっとはしゃぎすぎのところがある。新米というには経験年数が長すぎるし、ベテランというには頼りなさすぎる。彼もまた、この事件にはなにか引っかかるとずっといいつづけていた(江頭にとっては迷惑な話だが、萬年のこのくだらないことにこだわる性格が江頭のそれと結びつけられて、同僚たちからしばしば名コンビあつかいされる)。その日曜、彼は非番であったにもかかわらず、ひとつこのやっかいな引っかかりをどうにかしてやろうと思い立った。資料室にこもること三時間……さいしょに見つけたのは二十年もまえの殺人事件だった。犯人はまだ捕まっていない。捜査本部は城西署(つまりここだ)に置かれ、これといった手がかりもないまま時効をむかえている。当時の新聞記事の切り抜きが捜査資料のあいだに挟まっていた。見出しに大きくこう出ていた。


「ひとり暮らしの老人殺害」


 その下にひとまわり小さな字でこうあった。


「容疑者の女を捜索中」


 また女だった。萬年はその新聞記事を担当刑事の人数分コピーして、得意そうに配ってまわった。加茂は自分の席にだらしなく両足を投げ出して座り、紙コップのコーヒーをまずそうにすすりながらそれを受け取った。

「やっぱこりゃ連続殺人事件ですよ。朝倉のやつが一枚噛んでるにちがいないっスよ」

 加茂はしかしなんのコメントもしない。彼にいわせれば萬年も頭がおかしいことになるのだろう。江頭も萬年から渡されたコピーに目をとおした。たしかに今回の事件との共通点は無視できなかった。まず場所がある。マンションの名前こそちがうものの、住所は同じだった。部屋番号も似ている。202号室だった。平成十二年三月十九日、午後七時三十分、東京都目黒区西辻七丁目九番五号、ハイツ北野202号室住人、坂田芳夫(当時六十七歳)が同室のキッチンにてうつ伏せの姿勢で死亡しているのを、東京都立川市矢野十丁目六番二号、コーポあらい103号室住人で坂田芳夫の息子である坂田君和(当時三十二歳)が発見、警察に通報した。遺体発見当時、坂田君和は部屋に、二十歳から三十歳くらいの、背の高い、やせぎすで髪の長い女がいたと証言。坂田君和が電話で警察に通報しているあいだに、なにもいわずに部屋から立ち去ったという。遺体は死後約十二時間が経過しており、女についての坂田君和の証言が正しかったとすると(それとも頭がおかしかったのかな、加茂くん?)、この女は、坂田芳夫の遺体と同じ部屋で十二時間あまりも過ごしたことになる(そのかんの人の出入りについては、付近の住人の聞き込みでは確認されていない)。女の身元および足どりは不明。また、奇妙なことに、部屋のどこからも、その女のものと思われる遺留品は発見されていない。坂田芳夫は昭和八年熊本県生まれ。妻・さなえとは八年前に死別。それいらいハイツ北野でひとり暮らしだった。城南警備保障㈱に警備員として昭和五十年から勤務、勤務態度は良好で、人から恨まれるようなところもなかった。

 加茂が捜査資料を指先で叩いた。「この〈人から恨まれるところはなかった〉ってあたり、かえって怪しくないか、おい?」

 ただの軽口、混ぜっ返しただけのことだった。萬年は困ったような顔で笑うばかり。江頭はなにもいわなかった。なにより怪しいのは二十年もまえにもほぼ同じ場所で殺人事件が発生していたことであり、その現場でも女が目撃されていることであり、のべ五百人近い捜査員が動員されたにもかかわらず、被害者の身辺に該当する人物は見あたらず、足どりも、マンションを出て以降、まったくつかめていないことだった。さらに重要なのは(と、この場に朝倉がいたら訴えるだろう)、これが二十年もまえ、朝倉がまだ出身地の函館で会社勤めをしていて、地元から一歩も出たことがなかったころの事件だということだった。

「偶然に決まってんだろ、こんなの」

 きっとそうだった。

「こっちのはどうです?」

 萬年は引きさがらなかった。加茂が顔をしかめてつぎのコピーを受け取り、目をとおしながら下品な音をたててコーヒーをすすった。江頭にも配られた。今度の事件はもっと古く、担当刑事の署名の下に記されている日付は、なんと昭和六十二年だった。場所は同じ……いや、ここでもアパートの名前はちがっていた。

「栄アパート、ねえ」

 加茂のつぶやきに、萬年はわかりきった答を返した。「けっこう建て替えてるんですね」

 つまらなそうに加茂は鼻を鳴らした。「土地に歴史あり、ってか?」

 今回は24号室だった。栄アパートの24号室で、ひとりの男が死んでいた。発見したのは大家で、滞納していた家賃を催促に行ったとき、応答がなかったので合い鍵を使って部屋に入ったら死体があった。喉の切り傷からの出血は、六畳間のすべての畳に広がって、黒ずんだしみになっていた。萬年はご丁寧にも死体の写真までコピーしていた。西陽の射す真夏の部屋に一週間いじょうも放置されていたおかげで、死体は、かろうじて人のかたちは保っていたものの、ほとんど人間のようには見えなかった。このとき、発見者の大家は、部屋のなかに女の姿を見てはいない。すくなくともそこだけはほかの二件の殺人事件と共通していないことになる。加茂は勝ち誇ったような大声でその点を指摘した。江頭が目をつけたのは、しかしそれじゃなかった。

 当時の担当刑事の所感が、資料のいちばん最後のページに走り書きしてある。ページの欄外に、大きな×印で否定してあったが、たしかにこう読めた。

 密室殺人?

 なるほど資料をどんなに読み返しても、推定される犯人像はおろか、犯人の現場への侵入経路も、殺人を終えた犯人がどうやってその六畳間から出ていったのかも書かれていない。わからなかったからだ。犯人は、被害者によって部屋に招き入れられたのかもしれない(その可能性について、担当刑事は資料のなかで再三指摘しているが、被害者の交友関係を小学校時代の同級生までさかのぼってもそれらしい成果は得られなかった)。だったら犯人は、どうやってドアや窓のカギを内側からかけたまま、その部屋から出ていったのか。もちろん自殺の可能性だって検討されなかったわけではない。となると新しい疑問が生まれる。自殺するのに好きこのんで自分の喉を切り裂くようなやりかたを選んだりするものかはさておくとして、それに使ったナイフなり包丁なりはどこにあるのか?

 凶器は見つかっていなかった。

 密室殺人。

 嫌な言葉だ。現実の捜査活動でこんな言葉にお目にかかったら、刑事はすくなからず宗教的な畏怖心を抱く。テレビの二時間サスペンスじゃあるまいし、リアルな捜査活動で、密室殺人なんてナンセンス以外のなにものでもない。ところがいま、江頭の目のまえに、×印で否定されてはいるものの、その言葉がある。密室殺人。坂田芳夫の事件でも、犯人の侵入経路は特定されていない。被害者が招き入れたのだろうと推測されてはいたが……あくまで推測であって裏付けは取れていない。

 加茂はあからさまに興味をなくしていた。「こんなの関係ねーよ、いくらなんでも」

「でもこんな偶然ってありますかね?」

「だからさあ、」

 と身を乗り出して、ボールペンの尻を、ここが重要なポイントだよとでもいうように萬年に突きつける。「ほら、よくあるだろ? 自殺の名所とかさ」

 とたんに萬年が指を鳴らした。「殺人事件を呼び寄せる場所!」

「そう!」

 ともあれ加茂の策略はまんまと成功した。萬年はすっかり本来の話題からはなれて、ぼくの田舎にも自殺の名所っていわれてるとこありましたよお、なんてのんきなことをいいだしている。でね、高校時代にぼくの友だちがそこで写真を撮ったんですよ、そしたらね……

 しかし江頭はべつのことを考えていた。いや、同じことを考えていたのか。それにしてもばかなことを考えたものだ……しかしそれは理屈でどうにかできるものじゃなかった。細かいことにいちいちこだわる性格ともおそらく関係はない。それはもっと原始的な……ひょっとして人間の〈本能〉にかかわる問題かもしれなかった。樹上での生活から地面に降りたばかりの猿だった時代、なにも見えない暗闇のなかで、なんとかして天敵の気配を察しようとしていたころにはぐくまれた、脳みその原始的な部分がかかわっているような。高校時代に友だちが撮ったとかいう心霊写真のことを萬年がそれはうれしそうにまくしたてているあいだ、江頭の頭のなかのその部分は、江頭の意志とは関係なくどこまでもその考えを押し広げていた。でも……も、そんなばかな……も、常識で考えれば……も通用しない。いったん動きだしてしまえば止めようがない。すくなくとも現代の人類には。

 もういちど朝倉を取り調べなくちゃならない、と江頭は思った。どうしても。


【つづく】

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