2 頭がおかしいんだよ
見上げると、おとといから降りはじめた雨はやむ気配もなく、灰色に濁った空から糸を曳くようにとめどなく落ちていた。事件は二階の奥から三番目の部屋で起きた。同じ型から大量に複製したみたいにそっくり同じ間取りの部屋がいくつも並んでいるワンルームマンション、その205号室に容疑者の朝倉賢治が侵入したのは一週間まえの水曜日だった。
朝倉はマンションの横の電柱をよじ登り、塀を伝ってベランダにたどり着いた。窓のロックははずれていた。部屋では住人の吉本光一が、ワイヤレスのヘッドホンをかぶってひとりで音楽を聴いていた。さいしょの通報で警官が到着したとき、吉本光一はまだヘッドホンをかぶったままで、机の上のノートパソコンが、ブルートゥース経由でネットで人気とかいうアーティストの新曲を、そのもはや聴力を失った耳にくりかえし流しこんでいた。
凶器は、キッチンに肉切り包丁があったのでそれを持っていって使いました――と、供述調書には書いてある。
それを読んで、まず江頭は、朝倉が自宅のキッチンから凶器を持っていったのだと考えた。朝倉のアパートは、事件のあったマンションの、狭い道とふたつのブロック塀、小さな駐車場を挟んでちょうど真向かいにある。高さも同じ二階だったから、カーテンを引くのを忘れがちだった被害者のこぎれいな部屋のなかは、朝倉の部屋からまる見えだった。そこで彼は犯行を思いつき、凶器を準備して自室のベランダをあとにし、ふたつの塀と、めったに人のとおらない狭い道、コインパーキングを乗り越えた……? しかし家宅捜索では朝倉の部屋のキッチンから果物ナイフはもちろん、どんな刃物も見つかっていない。それは、ひとり暮らしの、たいていの食事を外食かコンビニ弁当ですませる四十五歳の男ならふつうのことに思える。キッチンのシンクは夜中にのどが乾いたときくらいしか使われなかったのだろう、乾ききり、ほこりが積もってすらいた。こんなところに包丁だけあったとはちょっと考えにくい。
では被害者のキッチンにあったのかというと……どうやらこれもちがう。そもそも現場から押収した証拠品のリストに包丁がない。キッチンはもちろん、机の引き出しから見つけたカッター、爪切りにいたるまで、ちょっとでも〈切る〉のに使えそうな道具はすべて血液反応を調べた。陽性だったのはひとつもなかった。
つまり被害者の喉を切り裂いた凶器は、朝倉がただの不審人物から重要参考人、有力な容疑者へと、犯罪者のたどる出世街道をエスカレータ式に順調にあがっていくあいだ、ずっと特定できていなかった。だったらこの供述はどう解釈すればいいのか。どこのキッチンからどの包丁を持ち出したというのか。
加茂ならきっとこういう。だから細かいことにいちいちこだわってちゃだめなんだよ、そんなことばっかやってちゃ解決するもんも解決しねんだよと。錯乱してるんだよと。だいたいやつは、自分がやったこともろくにおぼえてないんだぜ、頭がおかしいんだよと。
これこそ警察官が使うべき万能方程式で、すべては論理的に証明されたというように。
そうなのか? ほんとうにそれでいいのか?
そこで江頭は思い描いてみる、頭のなかの、例の直感がしまいこまれているのと同じ場所で、取調室の加茂と朝倉の姿を。江頭も何度か聴取を担当したからだいたいの想像はつく。朝倉はおびえている。自分のしたことにではなく、自分がこれからされることに。加茂は、いらいらしたときにいつもやるように、ボールペンの尻で机をせわしなく叩いている。朝倉みたいな気の弱い容疑者にとって、ありふれた安物のボールペンがたてる単調でささやかな連続音は、それがごくあたりまえの音だからこそ、なおさら脅迫めいて聞こえる。
おもむろに加茂が訊ねる……口を開くのと、相手の反応をうかがうときだけ、加茂のボールペンは机からわずかに浮いたところでこれ見よがしに停止する。
凶器はどうした?
朝倉が顔をあげる。暖房もなく、外にいるより吐く息が白くなる小さな部屋のなかで、おびえた顔をつたって、汗が短距離走のランナーよろしくいっせいに駆け降りる。朝倉は顔をそらす。江頭が尋問したときだって満足にしゃべれなかったくらいだ、加茂の威圧的な態度に立ち向かえるだけの精神力なんてあるはずがない。
加茂のボールペンが……ふたたび机を叩きはじめる。さっきよりほんのすこし強く。さっきよりほんのすこしせわしなく。
加茂が訊ねる……というよりその口調はわかりきったことを便宜上訊ねているだけのように聞こえる。凶器は、おまえが、部屋から持ち出した、包丁だな?
朝倉がまた顔をあげ……うなずく。というより、おそらくただ顔を伏せぎみにする。江頭が尋問を担当したときも、朝倉の首は、頸骨の関節がはずれてしまったみたいにしょっちゅう不安定に動いていた。加茂はしかし、自分がなにを見たのかは考えない(いち警察官として、そんな細かなことにいちいちこだわっていられない)。
だから取り調べをつづける。包丁は捨てたな?
朝倉はうなずく。しかし朝倉は犯行のあと(ほんとうに彼がやったとして)、喉の傷に盛りあがった血のあぶくがそのまま凝固した死体といっしょに、二晩もあの部屋で過ごしている。逃げようと思えば逃げる時間はいくらでもあった。凶器を捨てることを考えられたのなら、なぜ逃げることは思いつかなかったのか。そしてほんとうに包丁を捨てたとしたら、それはいったいどこなのか。
加茂ならきっとこういうだろう、だってあいつ、頭おかしいんだぜ、と、わかりきったことみたいにせせら笑って。
江頭には納得できない。細かなことが気になってしかたがない。
女のこともある。女はこの事件にどうかかわっているのか。
加茂はそれも例の理論でかたづけようとしている。つまりこうだ……やつはテレビやネットの世界と現実の区別がつかなくなった(つまり錯乱しているということだ)。だからあそこに女がいたなんて、本気で信じてしまった。
加茂の取り調べでは、女についてのこんなやりとりがあった。
加茂:女ってどんな女だ?
朝倉:どんな、といいますと?
加茂:じゃあ、髪はどんなだった?
朝倉:髪は長くて
加茂:長いっつってもいろいろあるけどな
朝倉:いろいろ、ですか
加茂:(いらだって)だからさあ、肩にかかるとか、背中くらいとか、いろいろあるっつってんだよ
朝倉:はあ、そうですね
加茂:そうですね、じゃねえんだよ!
朝倉:じゃねえ?
加茂:だからさ、その女ってのはどんな髪型だったんだって訊いてんだろさっきから
朝倉:ああ、そうですね
加茂:で、どうだったんだよ?
朝倉:(長考)
加茂:もしもーし。寝ちゃったのかなあ?
朝倉:いえ。起きてますけど
加茂:(まねして)起きてますけど、じゃねーだろ。さっさと答えろよ
朝倉:いや、わかりません
加茂:はあ? はあ? はああ?
朝倉:すいません
加茂:じゃ顔は? あったとかなかったとか、どこについてたとかって訊いてんじゃねえからな
朝倉:(考えながら)えーと。まるくて
加茂:まる顔なんだな。目鼻はどうだ?
朝倉:いや、ええと、目鼻はなんていうか(ここで言葉に詰まる)
加茂:おいおいおいおい。かんべんしてくれよー
これこそが朝倉賢治が女について虚偽の供述をしている明白な証拠だと加茂はいう。
江頭にいわせれば、ここからわかるのは、混乱している容疑者を尋問するにしては加茂のやりかたはサディスティック過ぎで、楽しんでさえいるかもしれないことだけだった。
その女を朝倉がはじめて目にしたのは、いまのアパートに越してきた年の秋のことだったという。秋になるとマンションの敷地に植えられている落葉樹の葉がすべて落ちて、朝倉の部屋の窓から現場の部屋がまる見えになる。朝倉がいまのアパートに越してきたのは、転職して勤務地が変わった十年まえのことだった。被害者がこのワンルームに住むようになったのは、大学進学のために上京した去年のことだった。朝倉は被害者が入居する以前から、自分の部屋の窓際に大きな天体望遠鏡を設置して、他人の私生活への不法な侵入を楽しんでいた。
「はじめてのぞいたとき、あの部屋にはどんなやつが住んでたんだ?」
加茂のにくらべるとかなり短い聴取時間のあいだ、江頭がこだわったのがこの質問だった。あのときも取調室に入ってから取り調べが終わって出るまで、ずっと朝倉はおびえっぱなしだった(加茂にいわせれば錯乱しっぱなしということになる)。聞けば留置場でもこんな調子だという。ただでさえ不健康だった朝倉の顔色は、質問が女のことになるとさらに血の気を失い、被害者の部屋のまえの住人のことに話がおよぶとさらに色が抜けて背後の壁とほとんど見分けがつかなくなるほどになった。
「女、がい、ました」
机の下で、足を痙攣的に揺すっていた。江頭はメモを取る手を止めて相手の顔を見つめた。さっきはなかった汗が、いまでは顔じゅうを流れ落ちている。目は充血し落ち着きなく動きまわっている。自分のおかした罪の重大さにおびえているんじゃなかった。
ほかのなにかにおびえていた。
だからもうすこしこの件をつついてみることにした。
「女? ひとり暮らしか?」
朝倉の首が左右に勢いよく振れる。
「ふたりで暮らしてたのか?」
ふたたび首を左右に振る。どこか病的な振りかただった。さて、この首を縦に動かさせるにはどんな質問をすればいいだろう。
「三人か?」
無駄だと思ったがいちおう聞いてみた。結果は……思ったとおりだった。江頭は短くなったたばこを灰皿に押しこんだ。アルミの灰皿は、すでに潰れた吸殻でいっぱいだった。
「ペットでも飼ってたのか?」
首が横に動く――が、それだけじゃなかった。朝倉は震える舌をなんとかコントロールして(その舌までが血の気を失い、ちょっと考えられない薄い色になっているのに気づいて江頭は背筋が寒くなった)こういったのだ。
「女、がいま、した」
うんざりして新しいたばこに火をつけた。加茂のやりかたのほうが正しいんだと、もうすこしで思ってしまいそうだった。そもそも過去のその部屋の住人は、氏名から入居期間まで大家が几帳面な記録を残しているのでぜんぶ把握できている。
その時期に、それらしい女が住んでいた事実はなかった。
「だからそれはわかったよ。女が住んでたんだろ? そいつはいつからいつまで、だれと住んでたかって訊いてんだよ」
朝倉は……やはり首を横に振るばかり。
あのとき、江頭は朝倉のその言葉の意味を取り違えていた。自分のまちがいに気づいたのはもうすこしたってからのことだった。たまたま萬年が、資料室であの事件の調書を発掘した。このあいだの日曜のことだった。
【つづく】
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