窓の女

片瀬二郎

1 警察官によくある好ましくない特質


 駅を出て商店街を抜けたあたりでたばこを切らしていることに気がついた。

 コンビニでもあれば買おうと思っていたが、現場のアパートに着くまで一軒もなかった。アパートのまえには警官がひとり、黒いレインコート姿で立っていた。現場保全の警備のためであっても、規則ではふたり一組が原則である。もうひとりはコーヒーでも買いに行っているのだろう。

 これまでも何度かたばこを持っていないか訊いているから、江頭はこの警官がたばこを吸わない――禁煙をはじめてもうじき三ヶ月になる――のを知っている。妊娠がわかってからというもの、奥さんがやけに強気になり、ずっとがまんしてきた彼の喫煙癖をあからさまに非難するようになったのも。

 今回はちがった。さすがに何度も同じことを訊かれるからか、警官のほうで気をきかしておいてくれていた。江頭の顔を見ただけですぐレインコートのポケットに手を入れて、セブンスターをさしだした。レインコートには雨の水滴がびっしりとこびりついていた。きのうの夜に降りはじめてからというもの、雨足はいっこうに衰える気配を見せない。

 江頭はありがたく受け取った。

 ライターを探して片手でコートの右のポケットからスーツの左の内ポケットまで、江頭がごそごそやっているあいだ、警官は気がかりなサッカーの試合でも見ているような目で待っていた。江頭がライターの炎をたばこの先に近づけるときには江頭の傘をずっと差し掛けていてくれていた。

「まだなにか気にかかることでも?」

 明白な証拠こそないものの、容疑者はほとんど自白めいたことをいいだしているし、同僚の意見でも捜査会議の雰囲気でも、このアパートで起こったのが衝動的な殺人でしかないのは確定している。それなのに江頭は、ほとんど毎日こうして地球上のすべての難問を(それこそ地球温暖化から行方不明の仔ねこちゃんまで)かかえこんでいるような渋い顔でやってくる。署からここまで、私鉄の駅にして三つぶんの距離を移動するあいだのどこかで、手持ちのたばこをすっかり吸いつくして。

 せわしなく煙を吐きながら、江頭は肩をすくめた。気にかかることはそれこそ無数にあった。同僚の加茂にいわせると、江頭は細かいことにいちいちこだわりすぎだという。あきらめきった口振りからするに、加茂はそれを、警察官によくある好ましくない特質のひとつだと考えているらしい。江頭はそうは思わない。警察官にふさわしい特質がどんなものかではなく、こんかいの件のことが。この事件は特別だった。ほかの事件とどこかがちがっていた。どこがどうと、具体的に指摘できるわけじゃなかった。容疑者の男から取った供述調書にどんなに目をとおしてもその疑念は変わらなかった。加茂は五十ページ近い調書を、ページを引きちぎりそうないきおいでさいごまでいっきにめくり(もちろん中身なんか見てもいない)、ひとこと結論めいたことを口にした。

 錯乱している。

 なるほど、供述調書に書いてあることにはあちこちに矛盾が見られるし、あきらかに破綻している箇所もいくつかある。錯乱している。たしかにそうだ。加茂は調書を机の上に無造作に放り投げてこうもいった。

 こいつ頭おかしいな。

 なるほどこれももっともだ……それについても江頭に異論はない。しかしどこがどうおかしいのか……供述した容疑者の頭のほうなのか、それともほかのなにかなのかはわからない。加茂の考えは単純にして明快だった(それこそが警察官に必要な特質だと、加茂はいつもはばかりなく公言している)。彼は供述調書を閉じたその手で受話器を取ると、ボールペンの尻を使ってプッシュホンを押しはじめた。嘱託の精神科医あたりと話して裏取りしたことにするつもりだった。

 鑑定しても結果はシロじゃないか……電話の相手にも百メートルはなれた友だちにも同じ声で話す加茂を横目に、江頭は漠然と考えた。根拠はない。どうしてそう考えるんだと加茂に(百メートル向こうの友だちにあいさつするのと同じ大声で)訊かれても、きっとすじみちだてた説明はできない。しかし……どうしても気になる。細かいことにいちいちこだわりすぎる性格が違和感を訴えている。江頭は、加茂にどんなにからかわれてもこの感覚を信じている。錯乱している……たしかに。頭がおかしい……ほんとうだ。でもそれは容疑者のことじゃない。

 ほかのなにかだった。


【つづく】

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