第128話 年寄りだもの。腹芸くらい出来る

 登場人物


 ユルゲン:クロウの叔父。黒幕っぽい人。


 ジルベルト:ユルゲンの補佐官。現在【黒い意思】の容疑者。ちなみに容疑者はコイツくらいしかいない。


 ☆☆☆


 前回までのあらすじ


 ユルゲンの目的や【黒い意思】の正体を推理しました。が、結局推測の域を出ないので、そういう事は本人に聞いたほうが良いと思います。


 ☆☆☆



 ユルゲン・マイヤーは敬虔なアルタナ教信者である。


 それが周囲の彼に対する最も大きな印象だ。だが昔の彼の印象は、今のものと大きく違っていた。

 ユルゲンの兄である先帝ユリウスの控えとして、日々を過ごしていた当時のユルゲンの印象は、野心あふれる近寄りがたい男だったと言われている。


 そんな彼が今のような敬虔な信徒として認識され始めたのは、齢が三〇に近くなった頃からだ。

 帝国南東部にある皇家の保養地である巨大な湖――メンシス湖――の遊覧中に、水難事故に遭った後から急速にアルタナ教へと傾倒していった。


 ユルゲン曰く、「神を見た」との事。

 事故から生還する時に、周囲に漏らしていたその詳細を訪ねても、彼は柔和な笑みを浮かべるだけで多くを語ろうとはしなかった。

 だが今まで野心に溢れ、隙あらば兄を蹴落とし皇帝になろうとしていた男は、その意識を全て教義の習得やアルタナ教の保護・発展へと向けていく事になる。


 ユルゲンのあまりの変わりように、周囲の人間は驚きを隠せなかった。


 それでも熱心にアルタナ教を信仰する彼に、周囲の人々はいつしか、「昏く深い水底で彼は本当に神を見たのだ」。と納得し始めるのに然程時間はかからなかった。


 莫大な寄付金、積極的な教義の伝播、時には苛烈とも言える異端狩り――それらは彼の教会内での地位を押し上げ、気がつけば帝国公爵にしてアルタナ教枢機卿という二足の草鞋を履きこなす傑物へと成っていた。


 そんな彼に、次期皇帝の打診が来たのも無理からぬことだろう。


 年齢で言えば、あまり良い選択とは言えないが、それでも彼ならばと周囲から声が上がり、皇帝選の舞台に降り立った。……それこそとは知らずに。





 昏く深い水底――本来であれば死んでいた筈の彼が辿り着いたのは、水底に隠された殿


 深い水底から通じる地底湖。そこにあったのは見たこともない巨大な神殿。一本道の周囲を地底湖に覆われ、所々突き出した屋根や柱の意匠はどの国のものでもない。


 静謐を湛えたその道を、神殿に吸い込まれるように歩きだした。


 固く閉ざされた神殿の扉。どれだけ強く押してもびくともしない。


 ――ここまでか。


 ユルゲンが己の生を諦めた瞬間、扉が静かに開いた。いや、開かれた――未知の存在によって。


『……気配がすると思えば……人間、何用だ?』


 扉を開いたのは、真っ黒な人型。男と女の声が重なる独特な声は、大声でないにもかかわらず、ユルゲンの耳と頭にガンガンと響いていく。


「迷いこんだ。ここが何処か教えてもらいたい」


 何とか気力を振り絞って答えるユルゲンに、目の前の黒い人型が笑ったように見えた。


『人間。我を前に中々の胆力だな。気に入った……ついてこい』


 響く声に従うように、ユルゲンは神殿の中へ――ここで待っていてもどの道死ぬ運命しか無い。であれば一歩でも前へと思い、神殿へと足を踏み入れた――ユルゲンを待っていたのは、吐き気と目眩、そして強烈な倦怠感だった。


 頭を抑え、胃の中を吐き出すユルゲンに


『なんだ? この程度も耐えられぬとは……人間とは脆いものだな』


 黒い人形が溜息を付きながら手をかざした――自身を包み込む淡い光に、ユルゲンは目眩と吐き気が遠のいていくのを感じていた。


「フーーーーー」


 ユルゲンは吐き気を吹き飛ばすように、大きく息を吐いた。


 そうして漸く体調は落ち着いてきたものの、背筋を走る冷たい感触は拭えない。


 真っ暗な神殿の中。

 不気味なほどの静けさ。

 冷たい空気。


 そんな謎の暗闇の中で、前を歩く影だけがボンヤリと暗がりに浮かび上がるものだから、嫌な予感が殊更に主張してくるのだ。


「ここは何処なんだ?」


 それでも何とかそれを払拭しようと、ユルゲンは口を開いた。黙っていたらこのまま深淵に溶けてしまいそうな錯覚に陥ったという側面もある。



『ここが何処か? ……か。そうだな。実際に見たほうが早いだろう』


 言うが早いか黒い人型がその手を軽く振ると、音もなく瑠璃色の炎が幾つも灯る――そしてそんな炎に照らし出されたのは――


「馬鹿な! これはまるでオケアヌスのようでは――」

『ようではなく、オケアヌスで間違いないぞ』


 ――七色に輝く鱗と、青い身体が特徴的な巨大な人魚。

 その存在を前に、ユルゲンは「どういう事だ?」と恐怖も忘れ黒い人型へと詰め寄った。


『どうもこうも……いや、説明が面倒だ――』


 真っ黒だったはずの人型に一瞬だけニヤリと笑う口が見えた気がした。身構えるユルゲンにニュッと伸びてきた人型の手。

 振り払うことも叶わず、頭を掴まれたユルゲンが「何を――」と口を開いた瞬間、膨大な情報が脳へ直接流れてきた。


「があああああああああああああ」


 脳が焼き切れるかと思うほどの情報の奔流に、ユルゲンの耳、鼻、眼孔から血が流れ落ちる――


『どうした? これでも情報を厳選してゆっくり渡してるんだ。耐えてみろ人間』


 苦しむユルゲンなど何のその、黒い人型は楽しそうに声を弾ませるだけだ。


 どのくらいの時間が経ったのか。一生分とも言える苦痛を味わったユルゲン。漸くそれが終わった後、ユルゲンはゆっくりと膝をつき床に倒れ伏した。髪は白く、頬は痩せこけ、目は虚ろのまま……だが生きている。その事実に黒い人型も『ほう?』と少しだけ感心したような声を漏らした。


「……理解した。女神という存在の真意」


 床に倒れたまま口を開いたユルゲン。大きい訳では無い声だが、妙に力強さを感じるそれに黒い人型は黙ったままだ。


「……理解した。お前の存在を」


 ゆっくりと立ち上がるユルゲンに、『そうか』とだけ答える人型。


『理解した上で何とする?』


 大仰に両手を広げる黒い人型、それはまるで挑発のようにも見えなくない。



 ユルゲンの奥歯を噛みしめる音だけ、薄暗い空間に響き渡る。


『大言壮語だな。ここから出ることすら叶わぬ身で』


「黙れ。今の私はここが何処で、どうやって出れば良いかくらいの事は


 蟀谷を指でトントンと叩くユルゲンに、『小生意気な人間め』と少しだけ呆れた様な声を上げる人型。


「ここから出て、私は必ず。それを持ってお前を滅する。必ずな!」


 既に人型に背を向け神殿の入り口へと足を向けるユルゲン。その背中に――


『我を滅するのは、人としての使命故か?』

「馬鹿を言うな。


 人型を振り返るユルゲンの顔は、自身と野心に満ちあふれている。


「私はいずれこの国を獲る。そしてこの大陸もだ。……私は強欲なのだ。全てが欲しい。全てを手に入れる。だが手に入れるはずの世界に貴様のようながあるという。……ならば取り除くだけだろう」


 そう吐き捨てたユルゲンを前に、黒い人型は片手で顔を覆い盛大に笑い声を上げた。

 一頻り笑った人型が、ユルゲンへ身体を向け直し――


『面白い。ならば我は貴様が全てを手に入れた時、殺しに行こう。その方が……全ての人間に絶望を届けやすそうだ』


 笑う人型を前に、ユルゲンもニヤリと口角を上げ、


「出来るものならな……」


 それだけ言うと、再び人型に背を向け薄暗い通路を神殿の外へと向けて歩きだす。




 既に見えなくなったユルゲンの背を眺めていた人型が、小さく笑う。……それは歓喜を抑えきれないと言った笑いで――


『面白い……新しい女神か。それ次第では、次元を渡り無数に分断された我らを一つにまとめる器になり得るかもしれんな』


 クツクツと笑う人型が、『その為には奴に是非女神を作ってもらわねば――』と動かないオケアヌスを見上げた。


『この素体であれば、今の我を受け入れるだけの器を作れるだろう』






 ☆☆☆



 薄暗い室内――


「……ジルベルトか?」


 執務椅子にもたれ、目を瞑ったままのユルゲンが声を発した。


「お目覚めでしたか?」


 影から現れたジルベルトが恭しく頭を垂れる。そんなジルベルトに「いや……今しがた目覚めた」と手を挙げたユルゲンが椅子に座り直し、既に冷えた紅茶に口をつけた。


「もう間もなくアルタナ教の全勢力が『原始のダンジョン』を包囲するかと――」


 ジルベルトの報告を聞いていたユルゲンが「そうか」と短く呟き再び紅茶に口をつける。


「いよいよだな……成程。懐かしい夢を見るものだ――」

「夢……ですか?」


 訝しむジルベルトに、笑んだまま小さく頷いたユルゲン。


「お前と初めてあった日のことを――殿


 ユルゲンの見せた獰猛な笑みに、ジルベルトは臆することなく「ほう?」と小さく声を漏らしただけだ。


『まさか、気づいていたとは』


 ジルベルトから響くのは、いつぞやの神殿で聞いたあの男と女の声が反響する不思議な声だ。


「見くびるな。最初から気づいていたとも」


 勝ち誇った笑顔を見せたユルゲン。「狙いはだろう?」と続けると、初めてジルベルトがその目を見開いた。


『解せんな。そこまで知っていて何故、我をそばにおく?』

「決まっている。その方が早いからだ。


 ユルゲンのその言葉にジルベルトが声をあげて笑う。ユルゲンがジルベルトの事を【黒い意思】であると見抜いていた事は問題ない。だが知っていて尚そばに置いていた目的が「早いから」というのは想像だにしていなかった。


 ユルゲンに近づく為に『失われた一族』というかつて【女神庁】の防衛を担っていた一族に扮した訳だが、そんな設定など必要なかったではないか。と思うと自分の滑稽さに少し笑えたのだ。


『人の器に入り、長きを過ごした故の感情だな』


 一頻り笑ったジルベルトが、真っ直ぐにユルゲンを見据える。


「もう多くは語らなくても分かるな?」

『ああ』


 頷き合う二人の視線が再び交差する。


「いよいよ大詰めだ。目的の部分までは今暫く仲良く行こうじゃないか?」

『そうだな。そちらの方が早いからな』


 どちらともなく、その言葉で鼻を鳴らしてジルベトはその姿を影に消し、ユルゲンは再び執務机に向き直った。




「さて、暴れると良い『リエラとロクロー』。世界に混沌を齎せ。さすれば私の女神様はより一層輝きを増すことだろう」


 ユルゲンの笑い声は、暗い部屋の中でいつまでも響いていた。

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