第11話 エピローグ

 周囲の騒然とした雰囲気はとても現実のものとは思えなかった。


 はるか十数階下の地上では何十台ものパトカーがサイレンを鳴らして取り囲み、野次馬やマスコミの無秩序な侵入を阻んでいる。


 夜空に浮かび上がったビルの周辺を報道のヘリが飛び回り、速水市始まって以来の大騒動を全国に中継していた。


 その中心にいるのが自分だとは悪い夢でも見ているようだ。


 なぜこんなことになってしまったのだろう。


 血走った目で自分に刃物を突きつけている少年を前にしながら彼女——堺恭子はぼんやりと考えていた。


 自分はただ最近元気のない友人のことをなんとかしようと思って彼女がそうなった理由を探っていただけだ。


 十日近く学校を休んだあげく、登校するようになっても以前の覇気を取り戻せずにくすぶっている梨香が不憫だった。夏休みに入って少しは気分転換してくれればと思ったのにいまだに落ち込んだままだ。


 あの勝ち気で頼もしい少女がどうして、と不思議でならない。


 元のふてぶてしい彼女に戻ってほしいと思い街をさまよった。その過程で知りあった彼女の仲間だと称する少年たちがあまりたちのよくない相手だというのはすぐにわかった。


 なぜ彼女はこんな連中とつるんでいたのだろう。


 だが二度、三度と顔を合わせているうちに彼らは自分につきまとい、次第にあれこれ無理な要求を突きつけるようになった。


 あるいは裕福な家庭の娘と思われたのかもしれない。これはまずいと会うのをやめたのは当然の成り行きだ。


 ところが、たまたま買い物に来た駅ビルのCDショップで彼らの中の一人とばったり顔を合わせてしまった。


 軽い押し問答、口論、険悪な雰囲気。それらは少年の貧弱なプライドを刺激し、あっさり暴走させた。


 後先考えずに簡単に激発する性格はいずれなんらかの愚行につながっただろう。それが今ここで彼女に向けられたのは不運としか言いようがなかった。


 引っ張り込まれた従業員通路の先は十五階のレストランの外側に走るベランダにつながっていた。


 ベランダといっても人が出入りするためのものではない。装飾用のプランターやライトアップのための設備が置かれた狭い通路のような施設だ。高い手すりのおかげで転落の心配こそないものの、下を見れば常人ならまずひやりとする。


 少年は持っていた小さなナイフを彼女に突きつけ、駆けつけた警官たちを威嚇していた。すでに進退きわまっているのだが、引っ込みがつかなくなって自分でもどうしていいかわからないのだ。


 発生から三十分とたたないうちに事件は一斉に報道され、恭子は不運な事件の被害者として全国の注目を集めることになった。


 ああ、どうして!


 もう何度嘆いたかわからない。


 こんな愚かな連中と接触したのがそもそもの間違いだ。とっくに高校生のはずなのにどうしてこんな馬鹿ができるんだろう。その愚かさがどうしても信じられない。


 きっとものを考える力が欠如しているのだ。梨香が言っていた。男って救いようがないほど馬鹿ばっかりだと。


 その馬鹿の一人が自分にナイフを突きつけ、警官たちに取り囲まれながら全国に醜態をさらしている。焦りまくった彼の目はいつ手元のナイフを自分に突き立てるかわからない危うさに揺れていた。


 助けて梨香、あたしやられちゃうよ。


 そう思った時だ、頭上でなにか異様な気配がしたのは。


 恭子も少年も、そして少し離れたところで突入の機会をうかがっていた数十人の警官たちもそれを見た。


 一瞬、その場の全員が呆けたような顔になった。


 地上二十四階、地下三階の真新しい駅ビルの垂直な壁を一頭のパンダが猛然と駆け降りてくるのだ!


 異様な叫び声を上げながら「真上から」自分たちの方へ突進してくるパンダを、恭子も少年もただ唖然として見ていることしかできなかった。頭の中は完全に空白だ。


 あっという間に迫ってきたパンダは奇声を発して太い腕で少年の手の中のナイフをはね飛ばすと、呆気にとられている恭子を引っさらってそのままビルの外壁を斜めに駆け降りた。


 あまりの事態に悲鳴を上げることさえ忘れていた恭子は、自分を一階の植え込みの中に放り出したパンダが目の前で消失するに及んでついに意識を失った。


     ※※※


「も、もう絶対こんなことしないからね……」


 まだ涙目でうんうんとうなっているひびきをよそになぎさは上機嫌だった。


「わかってるって、これっきりだよ、あたしもあんたにスーパーマンの真似しろなんてもう言わないよ」


「……ほんとにぃ?」


 ひびきのうらみがましい目がおかしくてなぎさはけたけたと笑った。


「ほんとほんと、今回は特別だよ。あんただって知らない仲じゃなし、恭子をあのままにしといたらかわいそうだろ」


 テレビの中では事態の思わぬ進展で大騒動になっていた。青い顔でなぎさのベッドに突っ伏しているひびきにはげっそりするような光景だ。


「それにしてもよくパンダの着ぐるみなんか見つけたね。あれは大正解だったと思うよ」


「ふたつ隣のビルの屋上に小さな倉庫みたいなのがあってそこで。きっとセールの時の宣伝かなにかでバイトの人が着るやつじゃないかな。シドがあれがいいって」


「しーちゃんが?」


「形態識別を欺罔するには機体を、ええと擬装する作戦が有効と推定……とかなんとか」


 ひびきの通訳でシドとコンタクトを果たしたなぎさは、その吹っ切れた柔軟な思考で「第一作戦参謀」と認定されて喜んでいた。人類には及びもつかぬ超技術の産物を「しーちゃん」と呼ぶ神経はさすがとしかいいようがない。


 あれからひと月、恭子の件はともかくひびきの周囲は落ち着いていた。


 妙な現象が起きることも不用意な力の発動も一度としてない。ただし考えなくてはならないことはいろいろあるような気がする。


 シドのこと、自分のこと、なぎさのこと、そして家族のこと。将来のことや学校や……たぶん梨香のこともそうだ。十四歳になったばかりの自分にはまだ手に負えない難問もあるだろう。それでもこれだけはわかっている。


(シドには悪いけどもうあなたの力は使わないよ。飛ぶのも浮かぶのももうおしまい。そう決めたんだから。だって——)


 ひびきは立ち上がって自分の心にこう告げた。


 だってあたしは「地に足をつけて」生きていくんだからね。


(エンジェル・ウイング Part1 完)

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エンジェル・ウイング —または正しい乙女の飛び方— @ALGOL2009

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