第10話 帰還
あまりにもきわどい制動だったのでひびきの方も少し気が遠くなっていた。
痛いとか苦しいといったことはないのだが、熱中していたゲームに負けたようながっかりした気分——そんな感じだった。
逆立ちしたままの変な格好で飛んでいることさえ意識していなかった。不思議と真下を見てもこわいという気がしないのだ。
あの戦闘機がまた近づいてくるのが見えてもああそうかと思っただけだった。
まだ頭がはっきりしないせいかあわてて逃げる気になれない。代わりに自分につきまとう者たちにぼんやりとした興味が浮かんだ。
どんな人なんだろうと意識したわけではなかったが、体の方はすぐさま反応した。逆さまの体勢のままで戦闘機の方に流れていく。
一瞬で距離が詰まるともう目の前にその鈍い銀色の機体があった。
コクピットに収まったパイロットの顔がわずか数メートル先でひびきを見ていた。
確かに目が合ったと感じる。
まさかここまでの接近遭遇は予想していなかったのだろう、その顔は緊張と恐怖でこわばり、呆然とした目は極限まで見開かれていた。
ああ、なんだこの人もこわいんだ。
ふいにそう感じてひびきは少し笑いたくなった。きっと自分は空を飛ぶ得体の知れない妖怪かなにかだと思われているに違いない。ええと、なんて言ったっけ? 映画で見たあれは、そう、グレムリンだ。
それはちょっと失礼かもと思った。
こんなかわいい女の子をあんな小鬼と一緒にしないでほしいなとも思った。
するとまた笑いの衝動がこみ上げてきてひびきはくすりと笑みをもらした。
それをどう見たのかパイロットの顔が大きく歪む。いやいやをするように首を振って顔中で拒絶の意志を表していた。
帰らなきゃ。
そのひと言がまだ半分鈍ったままの心にぽつりと浮かんだ。
ここから離れて自分の家に帰るのだ。母や弟が待っている。なぎさが困ったような顔で心配している。なんとしてもあそこへ帰らなくては。
今すぐに!
ぐん、と体がしなるような加速とともに戦闘機のシルエットが遠ざかる。
そのいかつい姿は一瞬明るく瞬いたかと思うと流星の一点となって彼方に消えた。周囲に見えていたものすべてが恐ろしい速さで流れ去っていく。
同時にそれまで感じたこともないほど強烈な風圧と締めつける空気の冷たさ、激しいめまいがどっと押し寄せてきた。背骨がきしむような感覚とともに目の前が暗くなる。
くるしい、と声を上げたような気がしたが自分の耳にさえ届かない。
だが苦しいと感じたことで少しだけ意識が鮮明になった。呼びかける声に気がついたのはその時だ。
——警告する——
「……」
——警告する——
「……シド?」
——現在の速度で航行を継続した場合、機体強度に重大な問題が発生する可能性大。速やかな減速を推奨する——
「減速……?」
はじめはなんのことだかわからなかったが、減速という言葉が漢字で思い浮かんだ瞬間スイッチが切れた。
体を締めつけていた苦しさがふっと消えて楽になり、狭まりつつあった視野が回復して周囲の光景が目に入ってくる。
まだ少し頭がぼうっとしていたが、気になるあの戦闘機の姿はどこにも見当たらなかった。
ほっとしたものの、よかったと喜ぶ気持ちはまだ希薄だった。
「あたし……どうなったの?」
——一時的に制御信号のレベルを超えて加速した。緩衝領域による機体保護と慣性中和には現レベルの信号では不十分だ。再度の試行は推奨できない——
「また無茶したってことね、ごめん」
——被害状況報告——
「え……」
——一次及び二次装甲全脱落、補助格納装備散逸——
ああ、またそれかと思った。もうなにもかもめんどくさくて確かめるのもおっくうだ。全脱落ってことは……。
思ったとおり、ひびきは一糸まとわぬ姿で空中に停止していた。
今度はしっかり背負っていたリュックさえもどこかに飛び去っている。今のひびきの微弱な力では無理な加速に耐えられず、かろうじて生身の体だけが無事で済んだようだった。今度はもう拾い集める気にもなれない。
「あたし今どこにいるの?」
——帰還目標点〈ハヤミ・シ〉南南東約二キロ、高度千二百メートル、誤差プラスマイナス〇・二パーセント——
そうか、やっと帰ってきたんだなあと思った。
うれしいのかほっとしたのか自分でもよくわからない。
なにをしようという気にもなれず、ひびきの体はそのままゆっくりと落ち始めた。少し斜めに流れて市街地の方へ近づいているのがわかる。
こんなはしたない格好で空から女の子が降ってきたらみんな大騒ぎだろうな。そんなことをぼんやりと考えていた。
あと五百メートルくらいかなあ。そう思った時、ゆっくり迫っていたミニチュアのような街並になにか小さく瞬く光が見えた。暖かい感じのする美しい光がゆっくりと明滅している。
あ、あそこきれい……。
そう思った時、風に吹かれたようにふっと意識が遠くなるとなにもわからなくなった。
※※※
「消えた!」
「ロストした?」
「目標消失!」
目標とF—15の動きをトレースしていた防空指令所の管制官たちは愕然とした。
異常な性能を有する未確認の飛行体といってもそれまでは目視及びレーダーではっきりとその存在がとらえられていた。
それが突如消失した。
誰もが呆気にとられていたその時、別のスタッフの緊張した声が報告した。
「いえ、反応あります! 目標は東南東へ一気に離脱。速すぎてプロットが間に合いませんでした。わずかにですが航跡が記録されています。あっ、今消えました!」
ほぼ同時に目標を追尾していたパイロットからも同様の報告が飛び込んできた。
「こちらアンカー1、目標は急加速にて一気に当空域を離脱した。信じられん速さだ。東南東方向にそれらしい痕跡が見える」
「東南東……関東方面か、痕跡というのは?」
「飛行雲の類いとは違う、なにかこう……光っている。不思議だ、消えずにまっすぐ視界の先まで伸びている。なんだこれは……」
「追跡できるか?」
「無理だ、速度差がありすぎる。ほとんど一瞬で振り切られた。こっちも燃料がぎりぎりだ」
そう報告するパイロットの声は無視できない緊張に震えていた。
目標と間近に遭遇したさっきの瞬間が彼を打ちのめしていたのだ。空の怪談はパイロット仲間ならジョークのタネだ。だが彼の目をのぞき込んでいた瞳の深さは本物だった。
あの目、あの笑み、そしてあの恐怖はまぎれもなく現実だった。
今、その「なにものか」の残した淡い航跡はまっすぐ前方へと伸びていた。
彼の知るところではなかったが、それは高速で飛び去ったひびきの周囲に不完全ながら発生していた緩衝領域によるものだった。高速ではじかれた空気の層が帯電して周囲の空気と接触し、発光して目に見える航跡となっているのだ。
東へ伸びる光の筋はその後数分にわたって地上からも見ることができたが、もはや誰にも追いすがることはできなかった。
※※※
ウインドウ越しに見えるモノトーンの夜景には見覚えがあった。
なにかしら寂しげなこの感じ……そう、自分はまた夢を見ているのだ。この景色は何度も夢で見たことがある。
いつもは母が座る助手席に乗せてもらってひびきはご機嫌だった。ハンドルを握る父の横顔も楽しそうで幸せな気分になる。
近くのお店までのちょっとした買い物だったが、父の隣で二人だけのドライブはひびきにとってうれしいイベントだった。
いろんなことを話したような気がする。
母のこと、弟のこと、学校のこと、仲よしのなぎさちゃんのこと。楽しそうに相づちを打ったり笑ったりする父の声はなぜか聞こえなかったが、その笑顔だけははっきりと覚えている。
夢を見ているひびきも微笑ましい気分で懐かしい自分のおしゃべりを聞いていた。
そうして広い交差点を過ぎ、いくつか信号を後にした時ふと冷たい風のようなものを感じた。楽しかった時間にさっと影が射し込み、かすかな予感に胸が騒いだ。
なんだろう? なにかうれしくないこと……楽しくないことが……。
小さな光が心の奥底でちかちかと点滅していた。それが警告を意味することを悟ったとたん、はっきりとした災厄の予感がやってきた。それまでの楽しかったイメージが急速に色褪せ、フロントガラスの向こうの夜の街並がどんどん暗くなっていく。
ああ、だめ。ここから先は行っちゃだめなの。
ひびきは不安げに訴えようとしたが声が出てこなかった。楽しそうな父の横顔が少しずつ暗い灰色の霧に包まれていく。
お願い、止まってパパ! この先はだめなの!
夢を見ているひびきにはもう時間がないことがわかっていた。あの交差点を過ぎたら……そうしたら……。
それはなんの前触れもなく訪れた。
対向車のライトを何百倍にもしたようなまぶしさが炸裂して思わず目をふさぐ。声にならない父の叫びが聞こえたような気がした。
おそるおそる目を開けると周囲の景色が変わっていた。
道路もビルも信号機もそのままなのに、なにかまったく別の風景が幻のように重なって見えるのだ。
深い藍色の空には無数の星が瞬き、大地は黒々としたシルエットになって星の光だけが空との境を示している。遠くに高い山がいくつも連なっているのがおぼろげに見えた。
その中に巨大な塔が斜めにそびえ立っていた。
頂は天まで届くほどの高みに伸び、全体を淡い真珠色の光が包んでいる。よく見ると微細な光の粒が表面を縦横に走っているのだった。
その夢幻のような異境の風景が夜の街並に二重写しになっている。
美しい。だがそれが残酷な景色であることを夢の中のひびきは知っていた。
どこにもけがをしたようには見えないのに、さっきまで楽しそうにひびきの話を聞いていた父は運転席で沈黙していた。目を閉じ、がっくりと首を垂れた姿があまりにも不吉でひびきは声を失った。泣くことも叫ぶことも忘れてただ父の体を揺すっていたように思う。
どのくらいそうしていたのだろう。 ふと気がつくとなにかが聞こえた。
ささやくような声がどこからともなく漂ってくる。遠い潮騒のようなかすかな響き。幼いひびきにはその声の語る言葉はほとんど理解できないが、夢を見ている今のひびきには明瞭な既視感があった。
これは大切なこと、知っておかなくちゃいけないことなんだ。そんな思いが浮かんでひびきはその遠い声に心を委ねた。
※※※
「……誰だ、君は……」
——ラ・ナノーのエリ・エン七七五一二……第四二次系外探査班所属の……一級航路哨戒要員だ——
「……なんのことだか……おれはどうしたんだ……なにが起きた……」
——事故だ。我々の航路が……跳躍中の背面空間に生じた中規模の揺らぎにより……平行する通常空間に予測値を超えて接近した——
「事故……?」
——未探査の領域でまれに発生する接触事故だ……十分な監視は心がけていたが……突発的で対応が遅れた——
「……わからない……おれは、なにかと、ぶつかったのか」
——衝突? 確かに……通常空間では別々の物体が同位置に存在することはできない——
ああ、パパの声だと思った。
パパが誰かと話をしている。どちらの声も遠くなったり近くなったりして頼りなく漂っている感じがひびきを不安にさせた。二人ともひどく傷ついているのだ。それがわかっていながらなにもできないことが悲しかった。
「……やっぱり……わからない……おれは、どうなる……」
——
「消えるっていうのか、おれたちも……待て、待ってくれ! おれはだめでも……この子は、娘は……見ろ、さっきからおれを起こそうとして……この子は無傷なんだぞ」
——……——
「頼む、この子だけは!」
——航法ユニットを分離する……小規模だが空間障壁で限定的な保護が可能だ——
「助かるのか!」
——ただしユニットはその子と同化する……君たちにはその存在を関知することも……分離することもできないだろう——
「それは……なにか、よくないことなのか……」
——そうならぬよう一定時間後に不要情報を削除して……全機能を休眠状態にする……再起動の可能性もあるが……その時はその子自身で対処するほかは……ない——
そう告げる声が徐々に遠く弱々しくなっていく。父が一瞬激しく葛藤するのをひびきは感じた。彼には選択の余地がないこともわかっていた。
「頼む、今は……この子を助けて……やりたい」
父の声もまた途切れがちになっていくのが無性に悲しかった。こんな夢は見たくなかった。
——わかっ……た——
消え入るようなその声とともに目の前の光の塔に無数の小さな黒い斑点が浮かんだ。それは急速に塔全体に広がっていくと真珠色の光を浸食していく。やがてそのひとつひとつが小さくはじけて瞬くと光の粒があたり一面に降り注いで消えた。
もはやどこにもあの美しい塔の姿はない。
二重写しになった街並にはなんの変化もなく人や車があわただしく行き過ぎていたが、ひびきと父を乗せた車は誰にも気づかれず、光の塔が消え去った異世界との境界にぽつんと取り残されているのだった。
やがて夜の交差点に突然のクラクションが鳴り響く。
事故の予感に人々がはっと振り向くと、一台の乗用車が信号脇に傾いだように止まっていた。派手な衝突音など聞こえなかったのにその車は前部が大破していた。
いや、大破というには奇妙にすぎるかもしれない。なぜならその車の右前部はまるで切り分けたケーキの断面のように斜めに切断されて消失していたのである。
集まってきた野次馬たちは首をひねっていたが、運転席に突っ伏して動かないドライバーとその横で泣いている小学生くらいの女の子を見て誰かがあわてて救急車を呼んだ……。
ひびきはこの夜のことを何度も夢に見たが、ここまで夢のストーリーが進行したのは初めてだった。
あの時、父はちゃんと自分に気づいてくれていたのだとわかって涙が出た。
あの不思議な声の主とともに消えるはずだった父をこちらに引き戻したのはもしかするとひびきの強い願いが呼んだ奇跡だったのかもしれない。それがどれほど悲しい奇跡であっても覚えておかなくちゃと思った。とても大事なことだから——。
すると夢の景色がふいに切り替わった。
幼いひびきは人だかりに囲まれた事故車の脇に立っている。その傍らで同じくらいの年のもう一人の少女が泣いているひびきを抱きしめていた。なにかしら奇妙に懐かしく不思議な光景だった。
なぜなら、怒ったように口を結んで周囲のぶしつけな視線からひびきをかばっているのはなぎさだったからだ。
あの時の自分には車の外で立ち尽くしていた覚えも、そしてなぎさと出会った記憶もない。実際にはそんな事実はなかったはずだ。でもこれは……。
なぎさはひびきをしっかりと抱きしめたまま、強い意志の光をその瞳に宿していた。一瞬、夢の中なのに目が合ったような気がしてひびきは「ああ、そうか」と納得した。
あれはきっとあたしの中のなぎさだ。
そう、そうなんだ、思い出した。あれは父を喪って何日も呆然としていた自分を慰めてくれた時のなぎさの目だ。
普段はおしゃべりななぎさが困ったような怒ったような、いっそ途方に暮れたような顔で黙ってひびきのそばに寄り添っていた。黙っているのにその目を見ているとたくさんの慰めや励ましの言葉が聞こえてくるような気がした。
あの誰よりも活動的な少女は百万の言葉を胸に秘めたままずっとひびきの心が帰ってくるのを待っていたのだ。自分はいつそのことに気づいただろう……。
心に住まわせた大切な友人のイメージは、今夢の中の悲しい記憶に一緒に立ち合い、自分を守ってくれようとしている。それがまぎれもなくなぎさの心そのものであることを感じてひびきはまた涙した。
今度は悲しくて泣いたのではない。あの強くてやさしくてにぎやかでエッチな、そしてかけがえのない少女に伝えたいことがあるのだ。
逢いたい、と思った。
同時に自分の体がすうっと上昇するのがわかった。それまで夢の中の小さなひびきとそれを見ている今のひびきの視点は混じり合っていたが、急に観客としての意識がはっきりしてきた。
ああ、夢から覚めようとしているんだ。そう思ったことでますます浮上する感じがはっきりしてきた。もうすぐ、もうまもなく自分は目が覚める。そうしたら……。
ぱちっと目を開くと黒い大きな瞳が自分をのぞき込んでいた。
昨日会ったばかりだというのになんだかとても懐かしい感じがした。
「やれやれ、お姫さまはやっとお目覚めか」
なぎさの不敵な笑顔が今は誰よりもやさしげに見えた。
※※※
「……なぎさ」
にっと笑ったその顔はなんの屈託もないいつものなぎさだ。
「こわい夢でも見た?」
「……夢?」
「あんた泣いてたから」
泣いてたと言われて心の中を探るとなにかきらきらとしたものがかすかに揺れていたが、手を伸ばそうとする前に急速に薄れて消えていった。
「わかんない、夢を見てたような気がするけど……忘れちゃった」
夢の内容は思い出せないのに、それが大切ななにかだったということだけはわかるのがとても残念な気がした。あれほど覚えておかなくちゃと強く願ったはずなのに。
「だめ、やっぱり思い出せない」
「いいじゃん、こわい夢なんか無理に思い出さなくても」
「ここどこ? あたし……」
「それも覚えてない?」
そう言われてまだ少しぼんやりしたまま周囲に目をやったひびきは部屋の様子に見覚えがあることにやっと気がついた。
「あ……ここ、なぎさの?」
なぎさが小さくうなずくのを見た瞬間、どっと記憶が舞い戻ってきた。 思わず跳ね起きようとするとどうしたわけか身動きできなくて驚いた。
見ると横たわった自分の体の上には夏物の薄い掛け布団が乗っていたのだが、その下では薄いタオルケットが横向きにまるで幅広のベルトのように渡されてマットレスの下に折り込まれていた。ひびきの体はそのタオルケットでベッドに押さえつけられた格好だ。
「どうしたのこれ?」
「だってそうしないとあんたの体ふわふわ浮いちゃうんだもん」
思わずひびきの目が丸くなる。
「なぎさ……」
「あんたもたいがい非常識なやつだと思ってたけどまさかここまでとは思わなかったよ」
ひびきの顔の横に頬杖をついたままなぎさはいたずらっぽい目で笑った。なぜだかわからないが、どうやらひびきの秘密はすでにこの少女にはバレてしまったらしい。
はあっと大きな息がもれて力が抜けた。
どうせ打ち明けるつもりだったとはいえ途中の展開が記憶にないだけにちょっと落ち着かない。なぎさはこんな秘密を隠していた自分のことをどう思っているだろう。もしかして怒らせちゃったかも、とおそるおそる聞いてみた。
「ごめん、怒ってる?」
するとにんまりと笑った悪友はもったいをつけて宣告した。
「まあそれについちゃあんたの心がけ次第だね。おとなしく吐けば一緒にお風呂に入って触り放題くらいでかんべんしてあげる」
「うう、最低でもそれか」
「もうじき夕方。おばさんには今日はこっちに泊まるって電話しといたからね、時間はたっぷりあるよ」
そう言うと頬杖をついたままなぎさは顔を近づけてひびきの頬に軽くキスをした。いつもと違ってひびきが大げさに騒がないのでまた楽しそうに笑う。
「おんや、今日はやけに素直だこと」
「だって……なぎさはあたしのユーザーなんでしょ」
「あはは、よしよしいい心がけだね、かわいがってあげるぞ」
なぎさは立ち上がってそばに用意していた着替えをベッドの脇に置いた。
あたしのじゃちょいと合わないかも、と言って取り上げた小さな下着をひらひらさせる。そのあからさまな目つきに遅ればせながら気がついてひびきは「あっ」と声を上げた。
ベッドの中の感触にようやく記憶が追いついてきたのだ。さっとその頬が染まった。
「今さらだけどここマンションの十二階だからね。あたしがどんだけ驚いたかわかる? いきなり風が吹き込んできたかと思ったらもう目の前にあんたが浮かんでたんだよ」
でもまあ、となぎさは意味ありげにウインクして楽しそうに続けた。
「こんなきれいな女の子がオールヌードでぷかぷか浮いてるんだもんね、しかも指一本で自由自在に動かせるときたもんだ。いやーさすがのあたしも血迷って馬鹿やりそうになったよ」
聞いていたひびきは恥ずかしさのあまり布団を頭からかぶってしまった。そういえばあれだけ切羽詰まっていたお腹の衝動が消えていた。もうため息さえ出ない。どうせ空の上で霧になってしまったのだから、とこれ以上は考えないことにした。
「馬鹿なことってなによ」
「安心しな、あんたの貞操はまだ当分は安全。だってあたしは胸とかお尻とかもうちょっと育ってくれてる方が好みなんだ。ほら、よく言うでしょ、豚は太らせてから食えって」
「ひっどーい、なによそれ!」
言うに事欠いてそれかよ、とさっきまでのデリケートな気分があっという間に消え去った。誰かこのバチ当たりな口をふさいでちょうだい!
脱力したひびきはそこでふとこれが違和感のない自分の日常なのだと気がついた。なぎさの笑顔はダブル・ミーニングだ。ひどい言いぐさの向こうに繊細な心づかいがひそんでいる。
あの空の上から見えた光はなぎさの部屋の窓だったのだ。
自分が最も好ましいと感じている場所をシドはそのような形で教えてくれたのかもしれない。
「もう隅から隅まで拝ませてもらったからね、今さら恥ずかしがっても無駄よ。そう思えばなんでも打ち明けられるでしょ」
わざとらしくそう言い放つなぎさの目がやさしく誘っていた。
さて、なにから話そう。
「長い話になるよ」
「よし、これは寝物語決定ね。あとでパジャマ出しとかなくちゃ。あ、あんたはそのままでもいいぞ」
苦笑しながらひびきはお腹が空いたな、と思った。
(次回完結)
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